「天ちう川」での病
『沼尻といふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出でて、遠江にかかる。さやの中山など越えけむほどもおぼえず、いみじく苦しければ、天ちうといふ川のつらに、仮屋造り設けたりければ、そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ、やうやうおこたる。冬深くなりたれば、川風けはしく吹き上げつつ、堪へがたくおぼえけり』
(沼尻という所もすいすいと通り過ぎたが、ひどく病を患って、遠江にさしかかった。有名な「さやの中山」など超えたはずだが憶えておらず、大変に苦しいので、「天ちう」という川のほとりに、仮屋が設けられていたので、そこで数日を過ごすうちに、ようやく回復した。冬も深まり、川風も険しく吹き上げるので、堪え難いほどだった)
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沼尻と言う所も滞りなくすいすいと通り過ぎて旅は順調に思えたのだが、困ったことにその後私はひどく身体の具合が悪くなってきた。遠江に差し掛かる頃には気分が悪く悪寒が走り、喉には綿でも詰め込んだように苦しくなり、体中が燃えるように暑かった。
『甲斐がねをさやにも見しかけけれなく横ほり臥せる小夜の中山』という歌で有名な「小夜の中山」も越えて来た筈なのだが、すっかり意識がもうろうとしてしまい、自分がどこへどう連れられているのかも分からないありさまだった。
姉がこけらに伝え、こけらが父を車に連れて来ると、
「これは熱が高いな。このまま旅を続けるのはとても無理だ。どこか中の君を休ませられる所は無いか?」とこけらに尋ねる。
「このもう少し先に『天中川』という川があり、そこに渡りのための仮屋があるはずです。そこでお休みになられると良いでしょう」そう言って人を仮屋にやって用意させてくれた。
確かに少し先に進むと「天ちう」と言う川があり、その川のほとりに仮屋が建っていた。仮屋に着くと私は父に抱えられ、車から降ろされて継母と姉に付き添われながら幕が張られ、几帳を立てられた一角に横たえられた。ホッとすると少し身体は楽になったがやはり息苦しく、身体は熱いままだ。
それに冬も深まって来ていたので川岸に近いここは冷たい川風が強く吹き上げる。幾重にも幕が張られ、几帳を立てているにもかかわらず、病身の身には堪え難いほど寒かった。私は「まつさと」の乳母を思い出さずにはいられない。彼女はよくこんな仮屋で子を生んだりしたものだ。いくら今より季節が早かったとはいえ、どれほど寒く心細い思いをしたことだろう。
私は父が気づかって幕が風にあおられない様にあれこれ物を置かせてくれたり、自分が盾となって私に風が当たらない様に守ってくれるが、あの時の乳母にはそんな人もいなかったのだ。
うつるといけないからと姉とちい君、継母は遠ざけられたが、姉の乳母と父が私の看病をしてくれた。父にもうつったらいけないとこけらが止めたが、父は、
「私は丈夫だから。だがこけらと妻はこの旅の要だ。こけらがいなければ旅を順調に進められないし男の私では大君やちい君の世話を出来かねる。旅の間はこの子の世話もなかなかできなかった。看病ぐらいさせてくれ」と言って取り合わなかった。
私は高熱にうなされるあまり心細くなってしまい、
「おとうさまあ。私このまま死んでしまったら、源氏物語を読むことができないのね……」
と言うと父は、
「そうだよ。だから早く元気になりなさい。大丈夫だ、きっとそろそろ旅の疲れが出て来たのだろう。このところ寒い日も多かった。少し旅を急ぎ過ぎたのかもしれんな。ゆっくり休めば時期に治るだろう」
と言って姉の乳母が持ってきてくれた冷たい水に浸した布を額にあてがってくれる。
「それに『死ぬ』なんて言葉を使ってはいけない。言霊と言う物があるのだからね。もしもお前がこのまま死ぬようなことになれば私はとても旅を続けられない。ここでお前に取りすがって泣き明かす事になるだろうよ」
「あら、そんなことしちゃいけないわ。穢れに触れてしまうじゃない。そういう時はこの仮屋の建物から離れなくちゃ」
私がそう言うと父は笑って、
「そんな分別のあることを言えるようならお前は大丈夫だよ。でも今言ったことは本当だ。お前に何かあれば私は妻に先立たれた侍従の大納言(行成)様のようになってしまうだろう」
「大納言様には、奥様と姫君がおいでの筈じゃあ……?」
「今の奥様の前に若い時にご結婚されておられた方がいらっしゃったのだ。今の奥様も大変大切にされているがその方とは更に御相性が良かったのだろう。世間は大納言様を『無愛想』だの『歌を詠めない風流知らず』だのというが決してそんな事は無い。昔あの才媛と言われた清少納言殿とも歌を交わされた。それだけの風情も技量もおありだ。前の奥様への御愛情など、まさにまぶしいほどだったよ」
世間では大納言様は仕事にぬきんでていて、書の筆跡などは神がかったように素晴らしいと言われていたが、殿上人にもかかわらず社交下手で歌が不得意な方だとの評判だった。
「その方とのお子様を亡くされた時は『穢れに触れては官職を預かる者として責務を果たせぬ』と血の涙を流しながら庭に飛び出されて奥様の嗚咽を聞いてその死を悟られ、すっかり憔悴なさっていた。だが十四年も連れ添われた奥様が亡くなられた時はどうしても耐えきれずに、皆が止めるのもかまわず奥様のご遺体に取りすがって泣かれたそうだ」
「穢れもかまわずに?」
「ああ、そうだよ。お前に何かがあれば私もそう言う思いをするだろう。なにしろお前は私の末の姫なのだからな。だから早く元気になりなさい。このくらいの熱、若いお前ならゆっくり眠ってしっかり食べれば必ず治るから」
不思議な事に父に必ず治ると言われただけで、身体がずっと楽になる気がする。そのまま私は眠ってしまい、目が覚めた時はかなり熱が引いていた。それからもしばらくはその仮屋で私は休んでいて父は姉の乳母と共に看病を続けてくれた。私は次第に回復し、再び旅を進められるようになった。私は旅立つ時に、
「大納言様、お幸せになれて良かったわね。姫君もお美しくなられて今は中将の藤原長家様の妻となっておられるのでしょう?」と言うと父は、
「お前は優しい子だね。本当に大納言様がお幸せになられたのは良かったと思う。若い時にご苦労されているからね」父はそう言って遠い目をした。
「昔、大納言様がほかの者と蹴鞠をなさった時など、外に飛び出した毬を見た藤原公任殿が『親が大臣や大将でない物が拾え』と大納言様を見ながら言ったのだが、その時は素知らぬ顔で毬を拾われたそうだが、本当は相当屈辱を感じていらしたようだ」
それはとても悔しかっただろう。行成様は本当なら祖父の伊尹様を後見になさってどなたよりも高い地位を目指す事ができたはずだったのだから。そんな方が人前で地下人と呼ばれる官位のずっと低い人と同じ扱いをされたのだ。
「そう言う方が実直に政務に励まれて今のような地位に上られ、妻や姫君にも恵まれてお幸せでいらっしゃるのは私にも嬉しいことなのだよ」と言って優しく微笑んだ。
「大納言様がそうやってご出世なさったんですもの。お父様も必ず出世できるわ。だってお父様はお優しいもの」私はそう言ったが父は、
「朝廷に勤める男と言うのは優しいだけではいけないのだよ。私もお前や大君のために頑張らねばな。お前達が私の力になってくれているのだよ」
と、嬉しそうな、でも寂しそうな目をしておっしゃった。
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『その渡りして浜名の橋に着いたり。浜名の橋、下りし時は黒木を渡りし橋なり。外の海は、いといみじく悪しく、浪高くて、入江のいたづらなる洲どもに、こと物もなく松原の茂れる中より、浪の寄せ返るも、いろいろの玉のやうに見えまことに松の末より浪は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし』
(その天中川(天龍川)の渡しを渡り、浜名の橋に着いた。浜名の橋は下向する時には黒い皮さえも向かれていない素朴な丸太の橋を渡って行った。外海はそれはひどく荒れていて、波も高くて、入江の殺風景な洲などにも、これと言った目に入る物もなく、松林の茂る間から波の寄せ返す様子を覗くと、はじける水が色とりどりの宝石のようにも見えて、本当に古歌のように波が松を越えそうに見えるので趣深く面白い)
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私の病が癒えると早速その「天ちう」という川を渡って、浜名の橋にたどり着いた。いや、正確には橋があった場所にたどり着いたと言うべきだろう。なぜならそこにはもう、海の波に耐えきれずに流されてしまったのか橋が存在していなかったのだから。
「ここの役人はいつもこうだ。下向の時の橋も木の皮すらむかずに黒木のままで、丸太の橋をぞんざいに掛けてあるだけだった。今度は波にさらわれたまま放ってある」
またもや荷を渡さなければならないこけらはうんざりした顔で言うと、従者たちに指示を出す。
「仕方がないわ。だって御覧なさいよ、あの海を。あんなに荒れて波が高いんですもの。いくら橋をかけてもきりがないんじゃないかしら?」
そう言って姉が指差す外海は、ひどく荒々しくて波がしぶきを上げて入江に押し寄せていた。その入江もとても殺風景で、荒涼とした景色が広がっている。その中を私達は内海の波のできるだけ穏やかな所を船で渡って行く。渡り終えると何の見所もなかった景色に松林が現れた。そしてその林の間から海を覗くと、
「あら、ねえ見て、面白い」と私は声を上げた。
それはまるで海の波が林に向かって跳ね上がるように見える場所だった。浪の水しぶきが陽の光に照らされるとキラキラと輝き、まるで色とりどりの宝玉のようにも見える。周りの景色がそっけないだけに余計それは美しく見えた。
「こんなにしぶきが迫って見えるなんて。これは古歌の『末の松山(
君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ)
』を本当に越えてしまいそうね」
姉も面白そうに波に見入っている。
「これでは橋が流されるのも仕方がないわ。きっとこの波は松を恋しがっているのだわ。だからそれを遮る橋をすぐに流してしまうのよ。どんな事も越えてしまうのが恋心というじゃないの」
私が知ったような顔で車の外のこけらに向かってそう言うと、
「これは参りました。姫君方には敵いませんな。確かに愚痴をこぼすよりも旅には渡しは付きものと思って、風情を楽しむのが一番ですな」
そう言って頭を掻いて見せたりしていた。
「沼尻」の地はどこであるかは分かっていません。駿河の国ではあるのでしょうがこの前の道順も違ってしまっていますし、清見が関から大井川の間の地であるのか、遠江に近い国境の地なのかも分かりません。川を渡る手間はかかっているものの、順調に旅は進んでいたと考えられるだけです。
しかし作者は病にかかったと記しています。この日記は創作性がとても強く、現実に病に襲われたのかこういう旅の話に病の描写がつきものなのかは判りませんが、秋から冬へと季節が厳しくなる中での不慣れな旅です。体調を崩す事も十分あり得ます。
この「さやの中山」は静岡県掛川市日坂と棒原郡菊川の間にある山のことです。地図で確認すると今でも山また山の土地であることがわかります。日に日に冬らしくなる中、山間部を旅していたのですから体力を消耗し、風邪でも引いたのかもしれません。
「天ちう川」というのは「天中川」のことで、これは「天龍川」の古い呼び名の事でした。山間部ですでに体調を崩していた作者ですが、安静に休ませられるような場所もなく、天龍川の渡りの仮屋まで辛抱をさせて、ようやくそこで養生させる事が出来たようです。宿の無い旅がいかに大変だったのか忍ばれます。
「浜名の橋」は浜名湖より海に通じている浜名川に掛かる橋の名です。しかし当時は街道の整備はとてもずさんな状態で、道が草に埋まって通れなくなってしまっていたり、橋が流されてしまっていたりすることなどごく普通にあったようです。
ここでの「黒木」とは皮をむいて加工した「白木」に対する言葉で、皮も向いていない素朴な丸太のことをいいます。その丸太橋が流されて無くなっていたのでしょう。
「末の松山」も有名な古歌。本来は宮城県にある松のことを詠んだ歌ですが、どんなに越えられないはずの波も越えてしまうように不思議な男女の恋仲のこととして、例えによくつかわれ普及していました。古歌というよりことわざに近いほど有名になってしまっていたようです。