足柄山越え
『まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中のおそろしげなること言はむかたなし。雲は足の下に踏まる。山のなからばかりの、木の下のわづかなるに、葵のただ三筋ばかりあるを、
「世ばなれてかかる山中にしも生ひけむよ」
と、人々あはれがる。水はその山に三所ぞ流れたる』
(それから朝はまだ夜の明ける前から足柄山を越えていく。まして山の中の恐ろしそうな様子は言葉に表しようもない。山が高いので雲も足の下に踏んでいる。山の中腹辺りの、木の下の僅かな隙間に、葵がたった三本ほど生えているのを見つけて、
「人のいる所から離れてこんな山の中腹にもかかわらず、良く生えたものだ」
と、人々が感慨深げにしている。この山は谷川の水が三か所流れている)
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遊女たちと別れた翌朝、いよいよ夜明け前の暗いうちから山越えが始まる。それまでの平地でさえも背の高い草地をかき分けての旅だった。しかし山道ともなればこれは「けもの道」を切り開くようにして進まねばならなかった。それだけでも怖いのだが暗い道のずっと先の方から、「バッサ、バッサ」と恐ろしげな音が聞こえる怖さは言葉で言い表す事もできない。
「あれはいったい何の音なの?」大きく揺れる車の外の従者に聞いてみると、
「怖がることはございません。もう森も随分深くなってきましたからね。あの音はこの先を行く侍が枝を切り払う音ですよ」
確かに車の通る脇には切り払われた小枝が無数に散らばっている。
「山の中は木が陰になるので平地ほど草は伸びていないのですが、かわりに木が枝葉をいっぱいにに伸ばしていて、それを切り払わないことには車を通せないんです。なにしろ山越えの道なんて我々のような国司の行列か、役人が米を納めに行くか、田舎の物を珍しがられる方が取りにやらせる時くらいしか通る事がありませんから」
どんなに切り払って人が通っても、三ヶ月もたてばもとに戻ってしまうと言う。
「揺れがお辛いですか? 時間がかかりますがご辛抱下さい。足場も悪いので石やくぼみをよけながらゆっくり進むしかありませんし、急ごうものなら車の中は大変な事になります」
問いかけている私の声も身体が弾んでひどく揺れていた。これで急いで進めば車の中は座っている事ができないほど大変な揺れに見舞われるだろう。
「そろそろ私達も車を降りましょうか。 いずれは降りなくてはいけないのでしょう?」
姉がそう聞いたが従者は、
「いえ、揺れが辛いでしょうがもうしばらくご辛抱を。いくら草の伸びが低いとはいえ膝ほどの丈はございますし、まだかなり朝露に濡れております。このような所を徒歩で歩かれては日が差さない分お身体が冷えてしまうでしょう。馴れていない方々にはお身に堪える筈です。旅路で風邪などお召しになったら大変ですから」と言って恐縮そうに頭を下げる。
そう言われては仕方がないので私達は車に乗ったまま、「バッサ、バッサ」「ユッサ、ユッサ」と進んでいく。別の車では泣き虫のちい君が泣いている声が聞こえるが乳母の声は聞こえない。この揺れであやす事も出来ずにいるのだろう。そんな風にして進んで行くうちに少し視界が開けて明るい日が射してきた。すると、
「石の多い所に差し掛かりました。ここは御車から降りていただくしかありません。草も乾きましたし石のせいで木も草も多くはありません。ただ、足元は悪いですからお気をつけてお降り下さい」
そう言って従者が私達を次々下ろしてくれる。しかしその足元は従者の言う通り多くの石が転がり、木の根が顔を出し、険しい坂道が続いている。そこを車に縄をかけ、馬達に引かせ、更に荷を押す人々や侍たちが一緒になって、大勢で車をまるで担ぎあげるかのように運んで行く。私達はその後を転ばぬように気をつけながら歩いている。普段があまり立ち歩くことのない生活なので、こうした不安定な道を歩くだけで一苦労だ。
危ないからとちい君を背負って歩いている乳母が難儀をしているのを見て侍の一人が、
「若君は私がおぶって差し上げましょう」
と言ってちい君を軽々と肩に乗せ、その力強い身体を揺らして見せたりする。するとちい君は珍しい体験にとても喜んで、いっぺんにご機嫌を直してしまった。あれほど見知らぬ侍ばかりでつまらないと文句を言っていたのに、
「あれは何?」
「ここに狼はいるの?」
「その弓で兎を狩ることはできる?」
と自分を背負う侍を質問攻めにしていた。侍の方でも、
「あれはブナの木でございましょう」
「狼はよくわかりませんが熊はよく見かけるそうでございます。ですがこれほど人が多ければ熊の方が怖がって近づいては来ますまい。大丈夫でございます」
「この弓ならどんな獲物でも狩れるでしょうが、これは狩りのための弓ではございません。この行列の人々みんなをお守りするための弓なのです。私は弓に自信がありますから安心なさっていて下さい」と頼もしげに答えている。
そんな中、侍や従者に気を使ってもらいながら私達も女同士、かばい合いながら山道を歩いていく。どうにか車が通れそうな所に出ると車に戻され、道が険しくなるとまた歩く。そんな事を何度も繰り返しながら進んで行った。
日暮れまで進み続け、庵を立てる事も出来ずに火だけを焚いて車の中に寄りかかって夜を過ごす。そしてまた夜明け前から出発して一日中車に揺られたり、山道を歩いたりしていたらひどく霧がかかってきた。深い霧を抜けたと思っていたら、実はそれは霧ではなく空に浮かぶ雲なのだった。その時は気がつかなかったのだが山頂に近付いて開けた視界から下を見下ろすと、なんと自分の足元に雲がたなびいているのだ。雲を自分の足元に踏むなんて初めての経験だ。
「すごいわ。こんな景色見た事がない」
私が感激していると継母が、
「わたくしも初めて見たわ。話には聞いたことがあるの。高い山の上に上ると雲の海が広がるのを足元に見る事ができるって」と教えてくれた。
「素敵。仙人になったような気分ね」姉もそう言って楽しそうにしている。
「私達は女だから仙人より『天女』にしましょうよ。ああ、羽衣がなくても人は高い山に登れば『天女』になる事ができるのね!」そう言って私は雲の海に見とれてしまう。
「見目麗しい天女が思わず地上からいらしたので、この山の神がこの雲を見せて下さったのかもしれません。天女様には申し訳ありませんがここはもう少し急ぎましょう。今夜こそはせめて庵を立てられる所で休みたいですから」
立ち止まってしまった私達を、こけらがそう言ってせかす。
「残念だわ。もっとゆっくり見たかったのに」私が文句を言うと姉が、
「こういうあわれはほんのひと時見る事ができるからこそいいのよ。中の君は『見らく少なく恋ふらくの多き』だわ」とからかった。
これは『源氏物語』の若紫のお話に、すぐにお会いにならなかった光君に若紫がすねて、
汐みてば入りぬる磯の草なれや見らく少なく恋ふらくの多き
と詠んだので、「多く見るとかえって見飽きてよくない」と光君に咎められてしまう場面を言っているのだ。
「さあ、天女の我儘はこのくらいにして、早く山を降りましょう」姉がそういうので、
「もちろんよ。早く都に着いて『源氏物語』を全部読んでしまうのだから」
と言いながら急ぎ山を下って行った。そして日暮れ前にはなんとか山の中腹の庵の立てられそうな所までたどり着く事が出来た。今夜は身体を横にして休むことができる。ホッとしていると庵を立てている誰かが声を上げた。
「おや、こんな所に葵がある」
見るとこんな山の中だと言うのに、都で「葵祭り」(賀茂の祭り)の時に飾られる葵と同じように青々とした葉の葵がたった三本ほど、木の根の間の僅かな隙間にひっそりと生えていたのだった。
「都はおろか、こんなに人の住む所から離れた山の中でも、葵が生えているんだな」
と人々は感心したり、
「こういう山の中で見る葵と言うのは、都を思い出させて余計に心に沁みるなあ」
と、都を恋しがったりしていた。
「綺麗な小川も流れている。この山の谷の川はこれで三本目だな。ああ生き帰るようだ」
誰かがそう言って川の水を一口口にして、更に私達に器に入れて冷たい水を飲ませてくれた。その水は本当に美味しくて、確かに生き帰るような心地がした。
その夜は葵の傍に立てた庵で眠り、また夜明け前に出発してかろうじてその日のうちに足柄山を抜けた。すると今度は関所のある山に泊まった。
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『からうじて越え出でて、関山にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走りの関のかたはらに、岩壺といふ所あり。えも言はず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清き冷たきことかぎりなし。
(かろうじて足柄山を越えると、関所のある山にその夜は泊った。ここからは駿河の国だ。横走りの関の傍らには、岩壺と言う所がある。ここには何とも言えないほど大きな四角い石があって、その中の穴のあいた所から水が湧きでていた。その水は限りなく清く、冷たい水だった)
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ここから先は駿河の国になる。ここにある「横走りの関」は清少納言が「枕草子」の「関は」と言う所で上げ連ねたほど有名な場所だが、その関の傍に岩壺と言う所があった。
そこには例える物がないほど巨大な四角い石があって、その石の真ん中には穴が開いていた。不思議な事にその穴からこんこんと水が湧きでているのだ。
「石から水が湧きでるなんて、不思議ねえ」
と言いながらその水を口に含んでみると、その水の清らかさ、冷たさ、美味しさと言ったら!
足柄山の山の中で飲んだ谷川の水以上だった。
「こんな石から湧き出る水が、こんなにおいしいなんて。山って不思議な事がいっぱいあるのね」と私達は感心しながらそこで一夜を過ごした。
足柄山は箱根ほどの高さがないとはいえ、山越えの道はかなり険しかったようです。超えるのに「四、五日」かかったと書かれていたり、「雲は足の下に踏まる」と書かれたり、多少の誇張が仮にあったとしても、平地ですら草分けるようにして進む旅なのですから山越えの道はさぞや厳しかっただろうと思います。
そしてこの厳しさが、それまで寄せ集めだったこの一団に新たな連帯感をもたらしたかもしれません。当時の国司のこう言った旅の行列は50人~100人近くにまで及んだ可能性があります。長く険しい旅路のこと。おそらく単純に報酬だけの人間関係と言う事は無いでしょう。道の整備もろくにされていないような旅ではまさに「旅の情け」はお互いに欠かせなかったことだろうと思うのです。
京都に今でも受け継がれる「賀茂の祭り」は別名を「葵祭り」とも言いました。この頃都で一番有名なお祭りで、平安中期の文学に「祭り」と出てくればこの「賀茂の祭り」のことを示すほどです。その祭りの飾りつけに使われるのが葵の葉で、この葉を見ると都人は自然に「賀茂の祭り」の華やぎを思い浮かべたのでした。
ましてこうした旅の空の下では、その思いは一層強まったことでしょう。早く華やぎあふれる都にたどり着きたいと思いながら、山の中に健気に生える三本ほどの葵に都への想いを馳せたことでしょう。厳しい山道の思わぬ発見に、心慰められたのがわかります。
「横走りの関」は現在の静岡県駿東郡小山町の辺りとされていますが、関の所在は不明だそうです。ここでの描写や「更級」より先に書かれた「枕草子」などから、箱根に関がおかれる前はこの「横走りの関」が山越えの名所だったことがうかがえます。