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あすだ川

「不思議なお話ですね。この地の男とみかど御娘おんむすめに、そのような宿命が与えられたなんて」


 継母が感慨深そうにそう言うと住職もこくりと頷いた。 


「まったくですな。ですがこの寺はここにはふさわしからぬほど立派な構えをしています。もちろん武蔵むさしの姓の者もこの辺には多い。身一つでおいでになられた宮なので、ゆかりの品が残されていないのが残念ではあるのですが」


 私と言えば感慨を通り越して感激でいっぱいだった。姫宮様なんて私にのお目にかかれぬような……いや、お文をちらりと見る事さえかなわぬ遠いお方。そんな方がこの武蔵むさしの国まで運命に導かれておいでになられたなんて!


「でも、それは本当のお話なのでしょう?」


 私は興奮気味に住職に聞いてしまう。


「すべてが本当かどうかはわかりませんな。とにかく古い言い伝えとなってしまっていますから。確かに武蔵の国の男はいざという時の決断が早く荒っぽい所もある。しかし都人が思うほど『もののあわれ』を知らぬわけではないのですよ。武蔵の国も決してあらえびすの国と言う訳ではなく姫宮がゆかしく思われたように、のどかで心休まる景色もあるのです。まあ本当の所は何かの偶然で男が姫宮様を連れ去ってしまい、どうしようもなくて故郷に逃げ帰っただけかも知れません。それも前世の因縁で姫宮が意外にもこの地を運命の地として受け入れられたのかもしれません。ここは都人が言うほど悪い地ではありませんからな」


「私の父の任国であった上総かずさの地も悪くはありませんでした」


 姉がそう言うと継母も深く頷いた。


「そうでしょう、そうでしょう。田舎と言うのもなかなか悪くは無いものです。そういう事を分かって下さる方こそ、本当にもののあわれを知る方のなのです。こちらの方々は皆様そういう情緒を分かっていらっしゃる。皆様も酒壺の情緒を分かる方々に違いないですな」


 住職は機嫌よくそう答えた。


「この酒も、その酒壺で作られた物でしょうか?」


 父がさかずきを傾けながらそう聞くと住職は、


「そうです。しかし今の方がずっと質は良いですよ。昔のこの辺の酒は少し日が経つと腐ってしまいすぐに酢になってしまったものですが、今ではそんな事も無くなりました。都の酒には敵わずともなかなかの物でございましょう?」


 話がお酒の方にずれてしまうとそれを合図にしたようにちい君が大きなあくびをした。そしてそのまま継母にもたれかかってしまう。それを見た住職は、


「これは御挨拶ついでのお話が思わず長くなり過ぎたようです。皆様もお疲れのことでしょう。今夜はゆっくりお休みください」


 と言って席を離れて行った。


 継母や姉たちは休み支度を始めたが私は今聞いた話の興奮の熱が冷めずにいて、まだ大人たちの会話に耳を澄ませていた。すると父がこけらと話し始める。


「さっきは話をそらしてくれて助かった。今の都での侍従の大納言(行成)殿の状況が分からぬままではうかつな返事も出来兼ねていたのだ」


 父はやれやれと言った感じの声で、こけらに話しかけた。


「大丈夫でございましょう。あの「東宮とうぐう争い」から九年経っておりますし、今上の御代となって四年。行成殿も大納言にまでなられているのです。殿上人達もそう表立ってとやかく言いはしないでしょう」


 あの「東宮争い」とは三条帝が御位を譲位なさろうと言う時、前の帝でいらっしゃった一条帝が亡くなる直前、立太子を望まれた敦康あつやす親王と、道長殿の外孫であらせられる敦成あつなり親王との間に起った争いのことだろう。


 その頃は私はまだ五つで、幼すぎてそんな事に関心は無かったのだが、大人たちは何かいつも落ち着かない感じだった。私が理解できたのはその四年後、敦成親王がわずか九歳で帝の御位にお付きになったので、「太政大臣(道長)殿は世だけでなく、帝の御位さえ自由になさる」と都でおおいに噂が立ったときだ。その頃の私と同い年の幼い方が帝に立たれたのだから、そう噂されるのも仕方がなかった。それが今上の「後一条帝」であらせられる。


「私が上総に下向する時は殿上人の視線はまだ大納言殿に冷たいものが残っていた。太政大臣殿にいいなりの、裏切り者と思われていたのだろう。しかしあの方は決して一条帝のご恩を軽んじられるような方ではない。あの時は国の行く末や人々が作る時代の流れを良くお考えになり、苦渋の決断をしたに違いないのだ。だから太政大臣殿の世となり今の後一条帝の御代になっても、退けられた敦康親王の家司を務めていらっしゃったのだ」


 父の言葉から察すると、行成様はあの東宮争いに何らかの関係をしていたのだろう。それも、人に裏切り者扱いされてしまうような辛い思いをする事があったようだ。父の声もなんだか辛そうだった。父は本当に行成様を尊敬していたのだ。


「それだけに板挟みになられてお苦しい事も御座いましょうね。敦康親王も突然に亡くなられ、無念だったことでしょう」


 こけらもため息まじりに応える。


「しかし殿、行成殿もこの度権大納言に任ぜられたと言う事は太政大臣殿からの御信頼はますます強くなられたということでしょう。今、世は太政大臣道長殿の世です。その太政大臣殿の御信頼厚い大納言殿と御懇意とあればやはり人の見る目は自然と違って参りましょう。このような田舎の僧侶でさえ行成殿の御名はこのように重く受取られているのです。殿ももっと堂々となされば良いのですよ。きっと大納言殿も今度はもっと都に近い上国に推挙して下さるでしょう。そうなれば姫君達にも良い御縁がやってくるに違いありません」


「……そうであればありがたいと思う反面、私のことなどで大納言殿をわずらわせたくないとも思うのだよ。あの方は私の憧れなのだ」


「そういう所が殿の良さではありますが。しかしお子様方の事もお考えになりませんと」


「そうだな。定義さだよしは大丈夫だ。あれはお前の言う通り私と違って才がある。必ずや自分で道を開いて行けるだろう。私も大納言殿だけではなく太政大臣殿の息子の頼道よりみち殿にも働きかけようと思う。道長殿にはさすがに私などお声をかけるにもはばかられるからな。姫たちやちい君のことは……私がしっかりしなくてはならぬのだろうな」


「そうでございますよ。若い姫や幼い若君がおられるのですから」


「ああ、その通りだ。朝廷には面倒事も多いが、しっかりしなければな」


 父とこけらはその後は私にはわからない朝廷の話に明け暮れていた。私はもちろん竹芝伝説の姫宮様のような下男の男ではなく、「光の君」や「薫の君」のような貴公子が私をさらってくれることを期待してはいるのだけれど、こういう話を耳にするとやはり父の優しい愛情に心温まる思いがするのだった。



  ****


野山蘆荻のやまあしをぎの中を分くるよりほかのことなくて、武蔵と相模との中にゐて、あすだ川といふ、在五中将ざいごちゅうじゃうの「いざ言問はむ」と詠みける渡りなり。中将の集にはすみだ川とあり。船にて渡りぬれば、相模の国になりぬ』


(野や山、蘆や萩の中を、かき分けるようにするより他に手立てがない所を進むと、武蔵と相模の国境を流れる、「あすだ川」と言う川に出た。ここは在五中将・在原業平ありわらのなりひらが、「いざ言問はむ」と詠んだ渡し場だ。中将の家集には「すみだ川」と書かれている。舟で渡って行くと、相模の国になった)



  ****


 竹芝寺でのくつろいだ日々はあっという間に過ぎてしまった。長い旅だが何十人もの人々を従えているので、すべての人が安心してくつろげる所はそう多くは無い。長旅で疲れた体を休め、大人たちは荷の整理をしたり車の痛んだ所を直させたりいおを洗わせたりと、こまごまとしたことに気をまわしているうちにどんどん時間が過ぎて行ったようだ。

 その間私達と言えば、ちい君を連れて寺の中をあちこち見て回ったり竹芝伝説について話したりして過ごしていた。幼いちい君は、


「僕が大人だったら、帝のお使者になって壊れた橋なんかお馬でひらりと飛んで渡って行ったのに」と言いながらあちこちを跳ねまわり、継母は、


「私はご自分の娘とお会いになる事ができなくなってしまわれたお后様がお気の毒に思われるわ」としんみりし、兄は、


「私は男のその後が気になりますね。身分の低いものがいきなり姫宮を授けられて一人でお守りすることになった。もちろんお幸せにして差し上げようと努力はしただろうが、互いの暮らし方も何も分からない者同士だったのだからかなり苦労をしたんじゃないかな」


 と、首をひねった。一方姉は、


「あら、勇気のある姫宮様と命懸けで逃げた衛士ですもの。きっと幸せに暮らしたと思うわ。自分のために命をかけてくれた衛士に姫宮は信頼を寄せたでしょうし、衛士も姫宮が寂しい思いをしない様に心を配ったことでしょう。お互いを大切に思って暮らしたと思うわ」


 と、まるで自分が姫宮として大切にされているかのような口調で言った。私と言えば、


「たしかに素敵なお話だけど私は下仕えの男ではなくて立派な貴公子に連れ去られたいわ。そして例え草深い地に囲われても美しい姿をした凛々(りり)しい公達が訪れてくれるのを、夜露に濡れながら袖を濡らして待ち続けるの。あしはぎ、よもぎが生え渡るような野の中だったとしても『光君』や『薫君』のような方をお待ち申し上げるのなら待つ甲斐があるってものよ」


 と、やはり「源氏物語」の美しい公達に憧れずにはいられないのだった。


 そうするうちにいよいよ出発の日を迎え私達はまた旅立って行った。相変わらず道は草深く、蘆、萩が生い茂る野山を分け入るより他にないような道をただひたすらに進んで行った。すると武蔵と相模さがみの国境の川へと出た。この川は「あすだ川」と言う。あの伊勢物語で在五中将ざいごちゅうじょう在原業平ありはらのなりひらが東に下った折に、


  名にしおはばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと


 という有名な和歌を詠んだと言うあの川だ。この川の名は中将ちゅうじょうの家集には「すみだ川」と言う名で書かれているそうだ。


(都の名を持つ鳥よ、お前に問おう。都に残した愛しいあの人はかわりなくいてくれるのか?)


 この歌を業平が詠むと、同じく舟に乗っていた人々は皆涙を流したのだと言う。そんな川を目の前にしているのだと思うと感慨深い思いが湧く。私も都鳥を探すが見当たらない。


「都鳥、見えないわね」思わずそう言ってしまう。


「紫草もなかったものね。罪を負って流されていく業平には運命も憐れんで美しい都鳥の姿を見せたり、紫草が風にそよいで心慰めたりしたかもしれないわ」


 と姉が言った。この歌は業平が罪のために都を追われ東国に下った時に詠まれたのだ。


「そうね。何より業平はいつ都に戻れるとも分からない身の上。例え他の鳥を見かけたとしても美しい歌を詠んだかもしれないわね」と継母も言った。


「私達は都に帰って行くのだものね。舟の支度は出来たかしら? 私達は竹芝寺の姫宮ではないのだから喜んで都に帰れるわ。そして思いきり沢山の物語を読むのだから」


 私は待ちきれない思いでそう言って渡しの船に乗り込んだ。そうして武蔵を後にして相模の国に入っていった。


一条帝にはそれまで前例のなかった、二人の后がいました。一人はごく若い時から共に仲睦まじくしていた藤原道隆の娘「定子」。もう一人は道長の娘「彰子」です。一条帝は他の女御(妻)を迎えることなく定子と愛情生活を営んでいたため、すでに后の地位にいた定子でしたが、道長が彰子を入内させた上、定子を名ばかりの「皇后」として追いやり、権勢で持って強引に実質上の后の位に彰子を据えたのでした。


この時道隆はすでに没しており、定子の後ろ盾となるべき兄の伊周は、道長との政争に敗れていました。定子は帝との仲を引き裂かれるように失意のまま亡くなります。その定子の残した遺児、敦康親王を一条帝は彰子に母親代わりとして預け、まだ子がいなかった彰子も我が子同然に可愛がったそうです。


そして一条帝は位を三条帝に譲ったのですが、その時東宮(皇太子)に愛妻だった定子の産んだ敦康親王を一条帝は据えようとしていました。ですが道長は自分の外孫である敦成親王を東宮にするため、敦康親王を退けます。やがて道長と三条帝との間に確執が生まれ、三条帝が失明寸前の病にかかると早速譲位をせまり、当時九歳(数え年、満八歳)の敦成親王を後一条天皇とし、自らが摂政となったのです。そして一年ほどで摂政の座を息子、頼道に譲り、後継体制を盤石の物としました。


後一条帝は更級作者一家が上総に下る前年に即位しており、道長が摂政を息子に譲ったのは、一家が旅立った一月二十四日からひと月ほど経った三月のことでした。


「都鳥」の歌は「伊勢物語」の作中でも有名なくだりの歌です。罪によって流された「むかし男」在原業平はこの一行とは逆に、京から東国へと下って行きました。その旅のあわれを記したのが伊勢物語に書かれた「都鳥」です。ここで書かれた鳥はしぎほどの大きさで、白く、くちばしと脚が紅いと書かれています。ここでの「都鳥」には「ミヤコドリ科」の「ミヤコドリ」と、「ユリカモメ」の別名としての「都鳥」と二つの説があります。

どちらの鳥も似通った所もありませんし、京都に関係のある鳥と言うわけでもなさそうです。なぜ、都鳥と呼ばれるのか。これも古典の謎、ですね。


ここで「あすだ川」とは「すみだ川」のことだと作者は記し、この川が武蔵と相模の国境だとしていますが、実際は隅田川は下総と武蔵の間を流れる川です。ここは作者の記憶が混乱しているとされています。隅田川は「すだ川」とも呼ばれ、「あすだ」は「すだ」のなまりのようですが、このあすだ川が相模との境の川を指すのか、隅田川のことをさしていて、旅順を混乱したのかは分かっていません。ただ「更級日記」の作者にとって、あすだ川は業平ゆかりの川としてとても印象深い所だったことは確かなようですね。

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