竹芝伝説(2)
『みかど、后、皇女失せたまひぬとおぼしまどひ、求めたまふに、
「武蔵の国の衛士のをのこなむ、いと香ばしき物を首にひきかけて、飛ぶやうににげける」
と申し出でて、このをのこを尋ぬるに、なかりけり。ろんなくもとの国にこそ行くらめと、おほやけより使下りて追ふに、瀬田の橋こほれて、え行きやらず。三月といふに、武蔵の国に行き着きて、このをのこを尋ぬるに、この皇女おほやけの使を召して、
「われ、さるべきにやありけむ、このをのこの家ゆかしくて、率て行けと言ひしかば率て来たり。いみじくここありよくおぼゆ。このをのこ罪し、れうぜられば、われはいかであれと。これも前の世に、この国に跡を垂るべき宿世こそありけめ。はや帰りて、おほやけにこのよしを奏せよ」
と仰せられければ、言はむかたなくて……』
(帝と后は、姫宮がいなくなったらしいと知らされご動揺なされて、お探しになられましたが、
「武蔵の国の衛士に男が、大変香ばしいものを首にかけて、飛ぶように逃げて行ったそうです」
と申し出た者がいたので、その男を探すと、どこにも見つかりません。もちろん故郷の武蔵の国に行くだろうと朝廷から使いの者が追手として向かいましたが、瀬田の橋が壊されていて、行く事が出来ません。三か月もかかって武蔵の国に辿り着き、その男を探し出すと、この姫宮は朝廷の使いをお召しになり、
「わたくしはこうなる運命に導かれたようです。この男の家が恋しく思えて、連れていくように命じたために、男は私を連れだして来たのです。大変ここは良い所だと思います。この男に罪があると言って、責めると言うのなら、わたくしはどうすればよいと言うのでしょう。これも前世からの因縁で、この国に足跡を示す宿命があったればこそなのでしょう。早く帰って、朝廷にこのことを奏上なさい」
と仰せられるので、皆、言葉を失くして……)
****
一方、都の帝と后は、姫宮の姿が宮中から消えたと聞かされ、大変ご動揺し、懸命に姫宮の姿を探させます。しかし後宮はおろか、内裏中のどこを探しても姫宮の姿は見つかりませんでした。姫宮がうかつにも何かの穢れに触れられて、神に連れられ神隠しに遭われたのか、それとも後宮の奥に潜むと言われている、鬼によって食われてしまわれたのかと、帝は苦悩され、后は涙に暮れられておりました。
すると庭を見回っていた下男の一人が、
「そう言えば、武蔵の国から出て来た男が、とてもいい香りのする何かを漂わせながら、首に何か白いものをかけているような感じで、大きな荷物を背負って、物凄い勢いで飛ぶように飛び出して行くのを見かけました」
と、申し出てきましたので、早速その男を探しますが、やはり姿がありませんでした。
これは大変な事になった。畏れ多くも帝の姫宮を田舎者の下男が連れ去ってしまったらしい。
それなら都に不慣れで知り合いもいない田舎者の男のこと。必ず自分の生まれ故郷に戻って行くに違いない。朝廷はそう考えて、男を追って使いの者を遣わしました。
ところがその者達が都を出て逢坂の関を超え、瀬田川に差し掛かり橋を渡って行きますと、途中で橋ががらがらと壊れてしまい、役人達が馬ごと川に落ちてしまいました。
変な風に落ちた者がいたり、崩れゆく橋につかまろうとしてかえって橋を壊す者などもいたために、橋は全く使い物にならなくなり、誰も橋を渡る事ができなくなってしまいました。
おかげで追跡者たちは武蔵の国に辿り着くのに、三か月もかかってしまいました。
ようやく武蔵の国にたどり着いた役人たちは、男と姫宮の姿を追ってしらみつぶしに国中を探し回ります。そしてついに男が姫宮をお連れした家を突き止めました。
「我々は都におわす帝直々の命にて、姫宮様を連れ戻すために遣わされた役人である。ここに恐れ多くも帝の御娘であらせられる、姫宮様がいらっしゃるはずだ。もう逃げ隠れする所は無い。観念して姫宮様をお返しして差し上げるのだ! 抵抗しても無駄だぞ。こちらには弓の名手や、太刀の使い手が揃っているのだ。命惜しくば観念して出て参れ!」
役人はそう、居丈高に叫びました。すると家から出て来たのは男ではなく、宮中から連れ出された時のままの、美しい衣に身を包んだ姫宮その人だったのです。役人たちはその威厳に気おされて、皆がひれ伏しました。
「騒がないで下さい。ここにいる役人たちの長となる者は誰です?」
姫宮は後宮に居られる時と変わらぬ、落ち着いたお声でそうお尋ねになります。
「私でございますが」
そう言って、姫宮捜索の責任者である頭の中将が前に出たので、姫宮は中将をお召しになり、
「わたくしがここにいるのは、ここに住む男にわたくしをここに連れて来るよう、命じたからです。わたくしはあの宮中から離れて、こういう所で暮らしたいといつも心に描いていました。そんなわたくしがこの地に来たのは、きっと何らかの運命に導かれてのことでしょう。ここに住む男の姿を見た時に、わたくしは外の世界への憧れを一層強く持ちました。わたくしがここにいるのは自分の意志なのです。わたくしは宮中には帰りません」
そう言って中将をしっかりした目で見据えます。中将は困り果てて、
「しかし、帝も后も、姫宮様を失われて大変落胆なさっているのです」
と、姫宮に言いますが、姫宮は、
「わたくしはこの男を信頼しています。この男はわたくしを、それは大切に扱ってくれますし、わたくしもこの男をとても慕わしく思っているのです。それに何より、わたくしはこの地が気に入りました。ここには都や宮中には無いものが沢山あります。そしてそれはわたくしにとって、とても好ましいものなのです。ここはわたくしにとって住み心地の良い場所なのです」
そう言って姫宮は聞き入れません。
「しかし姫宮様を勝手にお連れして、このような所に御隠しした男を、罰さない訳には行きません」
中将も困り果てながらもそういうのですが、
「わたくしは今ではこの男を帝より、お母上よりも頼りとしているのです。わたくしはこの男とここで生きるともう決めてしまいました。わたくしは宮中に戻っても父帝よりもお歳上の位ばかりが高い公達と一生を共にしなければならない身。わたくしはそんな生き方を求めていません。この男をどうしても罰すると言うのなら、わたくしにどうなれとお前は言うのです? わたくしはこの地でしか幸せになれないと分かっているのです。これはきっとわたくしに宿った前世からの因縁。そんな宿命から逃れることなど出来ません。この男を罰することはこのわたくしが許しません。お前達は早く朝廷にもどって父上にこのことを奏上すればいいわ。そして父上にはっきり言いなさい。わたくしは都に戻ることは無いと」
これを聞いて中将も、他の役人たちも返す言葉がありませんでした。実は彼らの間でもまだご成人されたばかりの姫宮に、父帝よりもずっとお歳上の公達との御縁はあまりにも姫宮がお可哀そうだと、噂していたからです。
田舎者の下男がいいと言う訳ではなくても、父帝の強引な御縁談に姫宮が先々を悲観して、このような行動を起こすまで追い詰められていたのかと思うと、その御心はあまりあるものがありました。
実はこの騒動で、父帝も姫宮を追い詰めてしまったことを悔やんでおられました。皆、それを知っているものですから姫宮への御同情が勝ってしまって、誰も姫宮を強引に説得しようなどと考えられなくなっていたのです。
****
『上りて、みかどに、
「かくなむありつる」
と奏しければ、
「言ふかひなし。そのをのこを罪しても、今はこの宮を取り返し都に帰したてまつるべきにもあらず。竹芝のをのこに、生けらむ世のかぎり武蔵の国を預けとらせて、おほやけごともなさせじ、ただ、宮にその国を預けたてまつらせたまふ」
よしの宣旨下りにければ、この家を内裏のごとく造りて、住まわせたてまつりける家を、宮など失せたまひにければ、寺になしたるを、竹芝寺と言ふなり。
その宮の子どもは、やがて武蔵と言ふ姓を得てなむありける。それよりのち、火たき屋に女はゐるなり」と語る』
(使いは上京すると、帝に、
「このような次第でございました」
と奏上したので、
「何を言っても仕方ない。その男を罰したとしても、今となってはこの姫宮を取り返し都にお返しできるわけでもないであろう。その竹芝の男に、生きている限り武蔵の国を預け、朝廷が要求するべき仕事などもさせずにおこう。ただ、姫宮にその国をお預け申し上げよう」
と、帝もそのように宣旨を下されたので、男はこの家を内裏のように造り、姫宮を住まわせ申した家を、宮が亡くなられた後に寺にし、竹芝寺と言うのです。
その宮の子どもは、やがて「武蔵」と言う姓をいただき、それより後は、宮中の火焚き屋には女が詰めるようになったのです)
****
追跡していた役人たちは、上京すると帝に、
「これこれ、このような事情で、姫宮はお帰りになられませんでした」
と、事情を説明しました。すると帝もそこまで姫宮を追い詰めてしまったのかとあわれに思われ、ご自分の浅はかさを悔やんでおられて、后などは姫宮の御心を思って、ただ涙を流していらっしゃるようでした。后は泣きながら、
「帝の父親としての御心や、お気づかいは誠に理にかない、姫宮の先々をお考えになった親心からのものとは分かっておりますが、やはり今度の縁談は姫宮にとってそれほど辛いものであったのでしょう。これで姫宮が今、お苦しみやお悩みでいるのなら是が非にでも姫宮を都に連れ戻す事が大事と思いますが、姫宮は都から離れた地ではありますが幸せに暮らしていると申します。わたくしが口を出すのはおこがましいとは分かっておりますが、ここはわたくしの母心と思って、どうか姫宮をそっとしておいて差し上げられませんでしょうか?」
そうおっしゃって、帝に懇願申し上げます。すると帝も、
「姫宮のために良かれと思った事であったが、私はそこまで姫宮を追い詰めてしまったらしい。ここは后の申す通りかもしれぬ」
そうおっしゃって頭の中将に、
「本当に、姫宮は武蔵の国で幸せに暮らしているのだな?」
と、お聞きになりました。頭の中将も、
「我々も畏れながら最初は姫宮様のおっしゃることが信じられずにおりましたが、姫宮様のご様子や、何よりお言葉のおっしゃりようから、これは真実、姫宮様はあの武蔵の国でお幸せにお暮らしのご様子だと思いました。もちろん田舎のこととてご不自由も色々あるはずなのですが、姫宮様はとても闊達な方のようで、ご不自由も何か楽しまれておいでのようにお見受けしました」
と、いいます。これを聞いてついに帝も、
「私は間違っていたようだ。今度のことは私の間違いによって起ってしまったこと。その男の罪でも、無論姫宮の罪でもない。姫宮は武蔵の国に幸せを求めて下ったのだ。こうなったからには例え無理に姫宮を取り返して都に連れ戻しても、都人のつまらぬ噂に晒され、結婚の相手からも軽んじられてしまう事だろう。もう姫宮はこの都では幸せにはなれぬのだ。それならいっそ、その竹芝の地に住む男には年貢や役を課すようなことはせず、姫宮に武蔵の国をお預け申し上げよう」
とおっしゃって、姫宮様の帰京をお諦めになられたのです。そしてその旨を御宣旨として下されたので、竹芝の男は姫宮のために自分の家をまるで内裏のように大きく造り変えて、姫宮を大切にお世話して、お住ませ申しました。
そして長い年月が経ち、姫宮様がお亡くなりになられると、男はその家を寺にして姫宮様の菩提を弔いました。それがここ、竹芝寺となったということです。
そしてその男と姫宮の間に生まれた子供は、そのまま武蔵と言う姓をたまわったのです。そういう事があったので、今でも宮中では火焚き屋には男は詰めず、女が詰めているのです」
住職はそう語って、この寺の由来を話聞かせてくれた。
竹芝伝説は、今ではこの更級日記だけに伝わる伝説です。ですが、その痕跡がないわけではありません。「続日本記」には武蔵と言う姓をたまわる男の記述があり、「将門記」にも「武蔵竹芝」と言う人物の名前が見えます。しかしこれが竹芝伝説と関係があるのかどうかは不明だそうです。宮中から女性や子どもの姿が消えることは良くあった事のようですので、何かの拍子で姫宮が誘拐された事があったとしても、不思議ではありません。
後に誘拐したのが宮と知っても、誘拐した者は宮を開放する訳にはいかなかったでしょうから、そのまま宮を自らの故郷に連れ去り、宮の身を盾に自分の身を守った可能性はあるでしょう。
とにかく何らかの類似の事件があり、それを美しく伝説として、寺の由来として伝えられて行ったのかもしれません。