竹芝伝説(1)
『その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾の際に立ち出でたまひて、柱に寄りかかりて御覧ずるに、このをのこの、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなる瓢のいかになびくならむと、いみじうゆかしきおぼされければ、御簾を押し上げて、
「あのをのこ、こち寄れ」
と召しければ、かしこまりて高欄のつらに参りたりければ……』
(その時、帝の御娘の、特に大切に育てられていらっしゃる姫宮が、たった一人で御簾の端の方まで出ておいでになり、柱に寄りかかって男のことを御覧になっていたのですが、その男のこう言っていた独り言を、大変興味深く思われ、どのような瓢が、どのように風になびくのだろうととても知りたくなってしまわれたので、御簾をご自分から押し上げて、
「そこの男、こちらにいらっしゃい」
と、男を呼び寄せるので、男は恐縮しながら御殿の欄干の端に参ったのですが……)
****
その時、帝の御娘でいらっしゃる、それはそれは大切に、風にもあてぬように御殿のずっと奥に隠されるように育てられているはずの姫宮様が、召し使っている者達の目を盗んでか、お庭の近くにいらしたようです。きっとこの姫宮様は人一倍好奇心が強いお方だったのでしょう。ですからたったお一人で御簾の中の端の方まで出てこられて、柱の陰に隠れて、その柱にもたれかかりながら、男の独り言を聞いていらっしゃったのです。そして姫宮は思われたのです。
わたくしの知らない外の世界では、酒壺とやらに瓢と言う物が挿しかけられて、風に揺られて北や南、東や西に、揺れる景色があるのだわ。それは広い世界にゆったりとした風が吹く、とてものどかな風景に違いないわ。
ああ、宮中の外の世界……ことさら、下々の者が暮らす世界とは一体どんな所なのかしら?
この男がつぶやく酒壺とは、どのような壺なのかしら?
その壺はどんな所に置かれているのかしら?
そして差しかけられた瓢とは、どのようなもの?
その瓢が風に揺れる姿は、一体どんな風なのかしら?
その風は優しいのかしら? それとも冷たいのかしら?
もっと詳しく知りたいわ……。
姫宮はそう思うと、居ても立ってもいられないお気持ちになられました。そして、御自分から身を隠すための御簾を押し上げられると、
「そこにいる下男よ、こちらにいらっしゃい」
と、男を呼び寄せられたのです。
おそらくこの姫宮様は、普通の宮様と違って宮中の外の出来事に関心の高い方だったのでしょう。時折召し使う人々の目を盗んでは、こうした下々のさりげない姿や言葉を聞くために、御簾の端に出ていらっしゃったりしていたのかもしれません。ひょっとしたらこの男の事も、以前から存じていたのかもしれませんな。
男の方は突然現れた高貴な姫宮様に、それは驚いたことでしょう。本当ならこんなに近くにいらっしゃることなど考えられないような御身分の方が、何故か御簾を上げられて卑しい自分にお美しい御姿を見せ、しかも、自分をもっと近くに呼び寄せていらっしゃったのですから。
きっと男は胆が潰れるような思いでいたことでしょう。それでも姫宮様のご命令に従わぬわけにはいきませんから、畏れ多くも、もったいない思いで、御殿の欄干のすぐ真下まで近寄ってかしこまったのです。すると……。
****
『「言ひつること、いま一返りわれに言ひて聞かせよ」
と仰せられければ、酒壺のことをいま一返り申しければ、
「われ率て行きて見せよ。さ言ふやうあり」
と仰せられければ、かしこくおそろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひたてまつりて下るに、ろんなく人追ひて来らむと思ひて、その夜、瀬田の橋のもとに、この宮を据ゑたてまつりて、瀬田の橋を一間ばかりこほちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひたてまつりて、七日七夜といふに、武蔵の国に行き着きにけり』
(「今言ったことを、もう一度わたくしに聞かせておくれ」
と、姫宮がおっしゃられるので、男は酒壺のことを繰り返し申し上げますと、
「私を連れて行って、その景色を見せなさい。そう言うにはわけがあるのです」
とおっしゃられるもので、男は畏れ多くも、怖いことだと思いながらも、これにはそういう因果でもあったのか、姫宮を自分の背に背負い申し上げて、東国に下ったのですが、無論、追手が来るだろうと思い、その夜、瀬田の橋のたもとに姫宮を座らせ申し上げておき、瀬田の橋を一間ほど壊し、それを飛び越えて、この姫宮を背負い申し上げて、七日七晩かかって、武蔵の国にたどり着いたのです)
****
「今言ったことを、もう一度わたくしに聞かせておくれ」
姫宮が男にそうおっしゃったのです。男にとってはその御姿を見る事も憚られるような尊い身の上の姫宮様に直接お声をかけられてとても緊張しましたが、姫宮様のご命令に背く訳にも行かず、とにかく今言ったことを一言一句違わぬように気をつけながら、酒壺のことを申し上げました。すると姫宮は男の話を聞きながら、
「その酒壺とはどのような壺なのです?」
と、お尋ねになられるので男は、
「粗末な、つまらない壺でございます」と答えます。すると姫宮は、
「その酒はお前達が飲む酒なの?」と更にお聞きになるので、
「はあ。我々も飲みますが、それよりその酒は我々のような者たちがお祭りしている神社や、地元の寺に奉納するためのお神酒に使うために作るんです。宮さま方がお召しになるような上品な酒ではございません」
と、男はひれ伏しながらそう言いました。
「そうなの? でも、その酒壺が並ぶ景色は、のどかで良いものなのでしょうね」
男は呆然としながらほほ笑まれる姫宮様に見とれていました。宮様と言えば帝に尊いお血筋が繋がる、とても身分のお高い方ですから、男のような卑しいものには御姿も御声もずっと遠いもので、こうやって間近でその御姿を仰ぎ見てお声をお聞きするなど、想像もできない事だったのです。
それなのにこの姫宮様は、自分のことをお近くに呼び寄せられ、自分の話を聞き、問いかけて下さっている。男はすっかり感激し、姫宮様の御姿に魅入られるばかりでした。
その間にも姫宮様は酒壺の酒はどんな香りがするのか、そこに挿しかけられた瓢と言うのはどんなものかと次々お尋ねになりますので、男は殆んど夢見心地で、
「酒は田舎の酒ですから少し甘く、強くて濃い感じの匂いがします。瓢と言うのは瓢箪を縦に半分に割って、それをそのまま胴の広い部分をひしゃくのように、短い所を持ち手にして使っているんでございます」と説明しました。
「そう……。のどかで、穏やかな景色なのでしょうね。そしてそなたの故郷は広々として、澄んだ空気の、心穏やかになれる所なのでしょう」
田舎者と言うのは自分の生まれ育った所を褒められると、嬉しいものなのでございます。もちろん身分卑しいその男も、姫宮様のような高貴なお方に故郷を褒められ、それは喜ばしく思っていました。
「素晴らしいのでしょうね。そなたの故郷は。けれどわたくしはこの狭い宮中で育ち、位の見合う年老いたような公達のもとに嫁下し、邸の屋根の下で一生埋もれて生きるしかないのだわ」
姫宮の意外な告白に、男は仰天しました。
「何をおっしゃられるのでしょう。畏れ多くも帝の御娘様として大切に慈しまれている姫宮様が」
「たしかに父帝はわたくしを愛して下さいます。他の者たちもわたくしを大切にしてくれる。けれども大切にされるあまり、わたくしには何の自由もないのです。屋根の外に出る自由も無ければ、お前の故郷のようなのどかな景色を見る事もないわ。お前はさっき言っていたわね? のどかな様子も見れずに、こんな所で辛い思いをしていると。それはわたくしも同じ。わたくしはここに閉じ込められている事が、辛くて仕方がないのです」
あまりの事に男は言葉がありませんでした。時の帝の姫宮様なら、きっとこの世のどんな女よりも幸せに暮らしていらっしゃるとばかり思っていたのですから。
「お前のさっき言っていた言葉は、わたくしの心に響いたの。それに、実を言うとわたくしは時々人々の目を盗んでは御簾の外の様子をうかがっていたのよ。お前のことはよく知っているわ。ここでよく故郷を恋しがり、帰りたいとこぼしていましたね。それを聞くたびにこの者はわたくしと同じだ、わたくしもここを離れてお前の故郷のような所で暮らしたいと思っていたのです」
そう言うと姫宮様は、つと、その身を御簾の外に出し、欄干から手を伸ばして男の方へと差し伸べました。
「お前は本当に故郷に帰りたいと思っているのなら、わたくしをここから連れ出して、お前の故郷に連れて行きなさい。そしてお前の言う酒壺に浮かべた瓢が風に揺れる様子をわたくしに見せるのです」
これを聞いて男は恐れおののきました。
「とんでもない事でございます! そのような大それたこと、俺なんかに出来る筈がありません! どうかお許しください。私の故郷は姫宮様がお暮しになれるような所ではありません。そのような事は気の迷いが姫宮様に言わせているのです」
けれど姫宮様はおっしゃいます。
「いいえ。気の迷いなどではないわ。わたくし、お前のことをずっと前から見ていたの。そしてお前なら私を外の世界に連れ出してくれる。この、生きているのか、死んでいるのか分からないような、息のつまる暮らしから解放してくれると思ったの。お前ならわたくしを誰にも見つけられずに連れだせるはず。さあ、わたくしを自由にして下さい」
男は耳を疑うばかりで呆然としていましたが、姫宮はかまわず男の手を握り、男のことを真剣な目で見つめます。そして「わたくしはお前をずっと見ていたのです」と繰り返しました。
男はそれはそれは恐ろしくて、冷や汗が背から流れていたのですが、姫宮の真剣な表情を見ているうちに、ひょっとしたらこれは自分に課せられた運命なのかもしれないと思えてきました。
自分と姫宮とは何か前世からの因縁があり、ここで姫宮が自分にここから連れ出せと言っているのは、その因縁があればこそのことかもしれないと思えたのです。
「分かりました。それなら、俺の背にお乗りください。ここからお連れいたしましょう」
こうして男は、畏れ多くも姫宮を盗み出してしまったのです。
そして男は必死で逃げました。宮中は姫宮がどうしたのかは判りませんが、まったく人の気配が無くなっており、姫宮の姿を粗末な布をかけて隠したまま、あっさりと外に連れ出す事が出来ました。そしてひたすら東国に向かって、一心不乱に逃げて行きました。もちろん見つかったら自分の命がないことは分かっています。すぐに追手も来ることでしょう。
そこで男は音羽山を越え、夜になって琵琶湖から流れる瀬田川にかかる瀬田の橋に差し掛かると、姫宮を橋向こうにお降ろしし、袂に座っていただいて、自分は今渡った橋の橋げたと橋げたの間を壊すと、一見壊されているとは分からない様に壊した後を隠しました。そして自分はそれを飛び越えると、再び姫宮を背負い申し上げ、それから七日七晩の間、休まず逃げ続けたのです。そうやって二人は無事に、この武蔵の国まで逃げ伸びてきました。
当時、高貴な女性と言うのはかくされているのが当たり前でした。姿を見せると言うのは言い寄られてもかまわないと言う意思表示と思われても仕方がないほどで、顔を男性に見られると言うのは、裸を見られるも同然だったのです。顔を見せ合えばその時点で二人の関係はほぼ決定してしまいます。
しかも徐々に互いの関係を深める、恋愛への予備期間など無いも同然ですから、姿や顔を見せる関係とは、結婚や愛人関係を意味するのです。
この竹芝伝説の下男はもちろん、姫宮とそういう関係になれるような身分ではありません。姫宮の姿を見ている所を人に見られるだけでも、十分罪になる可能性がありました。だから男は恐れ、おののいたのです。その事が男を大胆な行動に駆り立てた一因なのかもしれません。