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たどたどしく経緯を話すと、エルヴァは難しい顔になった。
「この世界の者ではない、か。私もニンゲンという種族のことは聞いたことがないな」
「そうですか……」
見るからに博識そうなエルヴァでさえ知らないということは、この世界に人間が存在する可能性はゼロに等しいと思っていいだろう。異国人の見た目とはいえ、龍族の彼らの容姿は夏妃の知る人間にしか見えないのだから、悪い冗談のようだ。
申し訳なさそうに、エルヴァは眉を下げる。
「ニホンという名の国も、おそらく存在しないだろうな。大陸の辺境のほうや魔族、妖族との交流は少ないから彼らの領域ならわからないが」
「でも、ナツキは龍族にしか見えないんですよねえ」
シルエラが注ぎ足していってくれたお茶を口に運びながら、やはり深刻味のない声で言ったのはウィルだ。
「私から見たら龍族のみなさんこそ人間にしか見えませんよ」
巨大な龍に変身しなければの話だけれど。
エルヴァは考え込むように顎に手をやった。
「それなら、ニンゲンと我々には何か近いものがあるのかもしれないな。……ナツキ、君は元の世界の地図を持っていると言ったね」
「はい。これです」
教科書を広げ、世界地図のページを開く。
エルヴァと一緒にウィルも覗き込み、二人して唸った。
「大陸の数も形も、表記文字も違う。やはり、別物の世界だと思ったほうがいいだろうな」
「それにしても、こんなにたくさん国があってよくまとまっているな。それぞれに王がいるのか?」
ウィルに訊かれ、夏妃はそう多くない世界史の知識を絞り出す。
「この本は世界史の教科書なので、乗っている地図も昔の国の様子を表しているんです。今は植民地から独立したりして、もっと細かく分かれてますよ。王制じゃない国もたくさんあります」
「ショクミンチ?」
「ええと……。強い国が弱い国の資源とか土地とかいろんなものを目当てに、軍事的に攻め込んで支配下に置いた土地、かな。昔は少ない列強が、世界中の地域を分割して支配してたみたいです。すみません、あんまり詳しくは知らないんですけど」
自信のなさが勝手に語尾を小さくする。
「では、王制じゃない国というのは?」
「いろいろですね。議会が権限を持って統治してたり、国民が選挙で選んだ代表が政治のことを決めてたり。私の住んでいた国は、国民の代表である国会が国家権力の最高機関だと認められている、議会制民主主義ってやつでしたね」
「……難解な言葉が多いな、ナツキの世界は」
半ば呆れるようにウィルが呟いた。興味深そうに聞いていたエルヴァは、真剣な顔で頷く。
「しかし、ナツキの話は筋が通っている。理にかなった政治形態もある、かなり先進的な場所なのに違いはない。この世界にそこまで進んだ文化があるのかはわからないが……」
エルヴァの金緑色の瞳が夏妃を見て和らぐ。
「ナツキ。帰る術が見つかるか、この世界にほかの居場所を見つけるか。その時が訪れるまで、この村で暮らしなさい。我々が君を保護しよう」
「保護? ……ちょっと、待ってください」
夏妃は抱えていたカップを慌ててテーブルに戻した。
「私が言うのも失礼ですけど、不用心すぎませんか? 私が異世界人だなんて根拠も、嘘をついていないっていう保証もないでしょう。今の話を全部信じるんですか?」
「信じがたいのは確かだよ。異世界や君の言うニンゲンというものの存在も、俺たちには知りようもない」
やんわりと答えたのはウィルで、夏妃は彼に視線を移した。
「なら、どうして『人間』だなんて言い張る私を受け入れてくれるの?」
「知らないからだよ」
思ってもみなかった答えに、声を失う。ウィルは、飽くまで能天気そうに微笑んだ。
「俺も村長も世界の果てまで知ってるわけじゃない。知らない場所のどこかに君が言うニンゲンの国があったって不思議じゃないだろう。あるいはどこかで、ナツキの世界と地続きにつながっていたりするのかもしれない。それを確かめたことはないんだ。
ナツキの言うことが嘘だという根拠を俺は持っていない。ただそれだけだよ」
呆然と、ウィルを見つめ返すことしかできなかった。言葉が出てこない。のろのろと正面を向くと、目が合ったエルヴァが穏やかに頷く。
隣りでウィルが茶化すように付け足した。
「龍は情け深いし子ども好きで、加えてお節介だ。一度角を突っ込んだら絶対に引かないから、覚悟したほうがいい」
夏妃は一瞬ぽかんとして、その後思わず噴き出した。
「角? そっか、龍だからか。人間はそういうとき、首を突っ込むって言うの」
「へえ、似てるけど違うのか。面白いな」
空気が一気に緩む。足元に柔らかなものを感じて見下ろすと、さっきまで部屋の中をうろうろと歩き回っていた仔犬がすり寄っていた。膝に抱き上げると、手を逃れて夏妃とウィルの間のクッションに陣取り、さっさと寝転がる。
その頭を撫でながら、夏妃はエルヴァに申し出た。
「ひとつだけ、お願いがあります。私と一緒にこの仔のことも受け入れてもらえませんか」
「そのルヴトを?」
気持ちよさそうに目を細めてうとうとしている仔犬を見て、エルヴァが瞬きする。
「約束なんだそうですよ。もとの拾い主との」
ウィルが付け足す。エルヴァは納得したように何度も頷きながら、それでも思い悩むように仔犬を見つめた。
厚かましいお願いだっただろうかと不安になりかけていると、エルヴァがウィルに尋ねた。
「ウィル。お前はどう思う?」
「俺個人としては、彼女の希望を叶えてやりたいですけどね」
反応を探るようなエルヴァの問いかけに、ウィルはなんでもないことのようにあっさりと答える。するとエルヴァも苦笑しながら了承した。
「わかった。それなら任せよう。ナツキ、君とともにそのルヴトも村に受け入れる」
「あ、はい。ありがとうございます」
彼らのやりとりにどんな意味があるのかはわからないが、とりあえずティリオとの約束は守れたようだ。ほっと息をつくと、ドアが開いてシルエラが明るく声をかけた。
「小難しい話は済んだかい? さあ、ケーキが焼きあがったよ」
部屋に甘いにおいが立ち込めて、不思議とまた食欲が湧いてくる。立ち上がって彼女が押すワゴンに近づき、配膳を手伝った。
「すごい、おいしそう!」
はしゃぐ夏妃とは対照的に、男性陣はテンションが低い。
「シルエラ、また黒キルシェのケーキかい? 朝から重たいものは年寄りの胃にはつらいと何度も……」
「俺も甘いのはあんまり……」
シルエラは彼らをぎっと睨み、大げさにため息をつく。
「まったく、料理する甲斐のない男どもだね。ちょっとはナツキを見習ってほしいもんだ」
「一週間も同じデザートが続けばうんざりもするよ……」
「ウィル。そういえば一昨日コルナリナから手紙が届いてね。『愚息が無礼を働いていないか』と心配して」
「ごめんなさい。嬉しいな黒キルシェ大好きだ」
棒読みで言って皿を受け取り、沈痛な面持ちでケーキを見つめる青年の姿は一種異様だった。エルヴァは余計な口を挟まずに、見た目は平然とお茶を口に運んでいる。どうやら小柄で快活な印象のシルエラが、この場では最強のようだ。
一方で、会話の中の新たな名前に首を傾げる。
「コルナリナさん、って誰ですか?」
「ウィルの母親だよ。コルナリナと私は幼馴染でね。武者修行の道中に時たま手紙をくれるんだ」
……武者修行? なるほど、なんだか力強そうなお母様だ。
夏妃は自分の分の皿を手に長椅子に戻ると、フォークで柔らかい生地を崩し口に運んだ。煮詰められたジャムのような果実の甘みと酸味が口の中に広がり、自然と頬が緩む。
その様子を眺めながら、シルエラは満足そうに頷いた。
「男どもがなんて言おうが、女の子が笑うんならお菓子は正義だよ」
彼女のその言葉に反論できる者はいなかった。