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村長の家は、両隣の家と比べても特に変わったところのない木組みの建物だった。目印を挙げるとすれば、玄関の上に掛けられた緑色の龍をかたどったモチーフくらいだ。
ベンチが置かれた広場のような空間に面しているので、早朝とはいえそれなりに視線を集めている。夏妃は、ウィルが用意してくれた藍色の頭巾のようなもので髪を隠していた。これで「黒色」なのはわからないはずだが、視線を痛いほど感じる。
ウィルが玄関のドア横についた紐を引く。中からくぐもったベルの音がしたので、それが来客を知らせるチャイムのようなものなのだろう。間もなく、ふくよかな体格の女性がドアを開けて快活に出迎えた。
「いらっしゃい。待ってたよ、さあ入って入って」
彼女がてきぱきと招き入れてくれたおかげで、不特定多数の視線から逃れられてほっとした。女性は夏妃に目を向けると、腕の中の仔犬に気付いて愛嬌のある深緑の瞳を少し大きくした。
「おや、どこかで見たようなルヴトだね。ティリオが拾ってきたのによく似てるが」
ルヴトというのはこの仔犬のことに違いない。いきなり核心を突かれてぎょっとした。身構える暇もなく、彼女は破顔して気安く夏妃の肩をたたいた。
「なるほどね。道理で戻ってきたあの子の機嫌が良かったわけだ。宥めるつもりで待ち構えてたオレアは拍子抜けしてたが」
「あ、あの……」
「はじめまして、お嬢ちゃん。私のことはシルエラと呼んでおくれ。ティリオは私の孫なんだ」
え、と驚きが声に出た。彼女は40代の半ばほどに見える。龍の結婚適齢期がいくつなのか知らないが、夏妃の感覚からすればずいぶんと若いおばあちゃんだ。
「ウィルから大まかな事情は聞いてるよ。さあ、このタオルで足をふいて。怪我はないだろうね?」
甲斐甲斐しく世話を焼かれて対面の身支度を済ませると、シルエラが一つ頷いた。
「よし、これでいいね。長が待ってるよ、こっちへおいで」
隣りのウィルに促されて、すたすたと廊下の奥へ歩き出した彼女に続いて部屋に入る。向かって左手にあるテーブルセットに座る老人が立ち上がり、笑顔で彼らを迎えた。
「よく来たね」
ウィルが頭を垂れ、挨拶した。
「無理を聞いていただき感謝します。申し訳ありません、こんな時間に」
「いやいや、若い者の訪問を受けるのはどんな時でも嬉しいものさ。年寄りになると寂しくていけない」
夏妃は村長の顔を見つめてぽかんとしていた。
「村長」と聞いて夏妃が勝手にイメージしていたのは、白いひげを垂らした気難しそうな老人だった。たぶん、RPGやファンタジー小説の先入観があったのだと思う。
しかし、実際に目にした「村長」は全くイメージとは違っていた。
淡く緑色が残る白髪はきちんと手入れされ、上品なラベンダー色のシャツとワインカラーのベストを着こなす姿はまさに老紳士と呼ぶにふさわしい。背も高く、無駄のない身のこなしと相まって、さぞかし若いころは美男子だったのだろうと思わせる。
窓から差し込む光で金緑色の瞳が深みを増す。目が合うと思わずどきりとした。刻まれた皺さえ魅力的な、映画俳優並みの彼の佇まいに息を呑んだ。……男性の色気というものをはじめて実感した気がする。
呆けている夏妃に、村長はゆるやかに近寄ってきてにこりと微笑んだ。
わあ、悩殺。じゃなくて。
「は、はじめまして。椎名夏妃と申します」
「はじめまして、ナツキ。私はこの緑龍の村で長を務めている者だ。名は、エルヴァデゼジァルパスヴェルデヴィラ。エルヴァと呼んで欲しい」
エルヴァは夏妃とウィルを促して長椅子に座らせた。二人の向かいに彼が腰かけると、シルエラが人数分のお茶と、グラタンに似た料理をそれぞれの前に並べた。ほかほかと湯気を上げる料理を見ているうちに、ようやく空腹を自覚した。腕の中の仔犬も物欲しげにくうんと鼻を鳴らす。
「さ、お前さんのご飯はこっちだよ」
シルエラが夏妃から仔犬を抱きとる。テーブル脇に置いたミルク皿の前に下ろすと、仔犬は夢中で食事にありついた。
エルヴァが声に出して笑い、夏妃たちを見る。
「君たちもどうぞ。遠慮せず、年寄りの食事に付き合ってくれないか」
彼の自然な紳士ぶりには本当に頭が下がる。この短時間でファンになりそうだ。
ちらりとウィルを伺うと、彼も微笑んで頷いてみせる。ではありがたく、と教科書を膝に置き、頭巾に手をかけて背中に落とした。
ほう、と息をつく音がふたつ部屋に響く。視線を上げると、エルヴァと傍らに立つシルエラが感嘆の眼差しで夏妃を見ていた。
「……これは、驚いた。本当にきれいな黒色だ」
「ええ、こんな色にお目にかかれる日が来るとはねえ」
たじろぐ夏妃と目が合うと、二人は我に返って慌てた。
「すまない、不躾だったね」
「いいえ。ご飯、いただきます」
ごまかすように笑って、フォークを取り上げて料理に手を付ける。
失礼にならない程度に観察してみたが、こんがりと焼けたチーズの下の野菜はブロッコリーやジャガイモに似ていて、味もそう変わらなかった。しいて言えば、知っている野菜より柔らかくて甘みが強いことくらいか。
シルエラと目が合った。
「すごくおいしいです」
素直にそういうと、シルエラは応えて嬉しそうに笑った。
「そうかい。食後にケーキもあるからね」
「楽しみです」
ほのぼのと食事を進めて人心地つくと、お茶を一口飲んでテーブルに戻したエルヴァがさて、と切り出した。
「さっそくだがナツキ、詳しい話を聞かせてもらってもいいかな」
途端に緊張が舞い戻ってきて、固い声で答える。
「はい」
「緊張しなくていいよ。君のわかる範囲で構わないから」
柔らかな言葉には彼の気遣いを感じる。それでも、荒唐無稽だと自分でも思う話を語るのは簡単ではなかった。