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希少保護生物指定女子。  作者:
Ⅷ.月夜の約束
40/41

3

 どんどん日が短くなり、吹き付ける風は一段と冷たくなって、冬の気配が色濃くなってきていることを肌で感じる。図書館からの帰り道、橙色の光が雲を照らす空の下でシュカと話す内容は、やはり劇や練習についてだった。


「明日は衣装合わせか。シスルたちが張り切ってたから、楽しみにしてるんだ」

「確かに気合入ってたね。『当日はその鳥の巣頭も完璧に整えてやる』って目をギラギラさせたふたりに宣言されて……。あれはちょっと怖かった……」

「ああ……。私も『主役なんだから誰よりも気合入れるからね。覚悟するように』って言われた。お手柔らかに頼みたいけど、無理だろうねえ……」


 遠い目になってふたりしてため息を揃える。今更逃亡もできないので受け入れるほかはないだろう。夏妃は気を取り直すように台本をめくりながら、確認したかったことを尋ねる。


「えーと……、あ、これ。最後の幕の台詞に出てくる『宝玉を王に差し出し』っていうところ。詳しい説明がないけど、これは龍玉のことでいいのかな」

「うん。龍玉は黒龍が龍族にもたらしたものだから。それを王に渡す、その場面だよね」

「えっ」


 何でもないことのようにさらりと新事実を伝えられ、ぎょっとする。まじまじとシュカの白い頬を見て、瞬きした。


「シュカって、本当に詳しいよね。図書館で調べても分からなかったことまで細かく知ってるし」

「そうかな? 歴史が好きなだけだから」


 笑って首を傾げるけれど、腑に落ちない気持ちが残る。独学でここまでの知識が身につくものなのだろうか。


「ねえ、シュカの家の人も詳しいの? 詳しい文献があるとか?」

「あれ、そんなに私に興味がある?」


 桜桃色の瞳が細められ、笑みの種類が変わった気がした。彼女がふとした瞬間に見せる凄みがあって、思わず足が止まった。

 シュカも足を止め、じっと見つめられて戸惑う。動揺を押し込めるようにして、少しだけ目を閉じてから答えた。


「……興味は、あるよ。シュカって自分のことは話さないし。どうやってそんなに歴史に詳しくなったのか気になるし。迷惑だった?」

「ううん。嬉しいよ」


 首を振って、歩きだす。視線が外れたことでほっとして、その背中を追った。


「でも、他に詳しいひとがいるわけでも、良い文献があるわけでもないから、ナツキの参考にはならないと思うなあ」

「そうなんだ……? それだとなおさら、どうやって勉強したのか気になるんだけど……」


 困惑する夏妃を振り返って、彼女は後ろ向きに歩きながら笑う。


「実はね、全部見たから知ってるの。……なんて言ったら、ナツキは信じる?」


 聞き返す声がかすれた吐息に変わる。言葉の意味を理解して、頭が真っ白になった。

赤々とした斜陽の色が差し込んだ彼女の瞳が鈍く光り、一瞬銀色にきらめいたような気がして気圧される。

 その時、強い風が吹いて髪で視界が遮られた。慌てて払っている間に、シュカの悲鳴が聞こえた。


「いたっ」

「えっ、シュカ!?」


 見れば、彼女が後ろ頭を抑えて道にうずくまっている。その背後には外灯の柱。……何が起きたかは訊かなくても明白だった。


「だ、大丈夫っ?」


 膝をついて彼女の顔を覗き込む。潤んだ桜桃色の目はいつも通りで、ただ痛みに歪んでいる。


「痛い……瘤になるよこれ……」

「ふくらまないようにしっかり押さえて。ええと、どうしよう」


 日没が近づいてあたりは薄暗く、往来もまばらだ。王都の地図を思い浮かべて、よし、とシュカの腕を掴んだ。


「『銀の杯亭』に行こう。西区の中でも北寄りだし、シュカの家より近いよね?」

「え? でも……」

「このまま帰すのも心配だもの。寄っていって」


 半ば強引に手を取って大通りを進んでいく。そうしながらシュカの顔を見ずに出した声は、落ち着こうと意識してもこわばっていた。


「シュカ、さっきの話だけど」

「……うん?」

「シュカの言うことが冗談なのか本当なのか、私にはわからない。けど、シュカが話してくれるのならちゃんと聞くよ。私、大事なことを隠されたまま試されるのは好きじゃない」

 遠くから夕暮れの鐘の音が響く。その余韻が消えるころ、ぽつりと声が耳に届いた。


「……うん、そうだよね。ごめん」


 続く言葉はなくて、彼女がそれ以上話すつもりはないのだと知る。無理に聞きだしても仕方ないし、そのつもりもないけれど。

 それ以上の会話はないまま、暮れていく王都の街を歩いた。





「頭痛がひどくなったり、ぼーっとしたりはしないかい?」

「平気、です」

「なら、よく冷やしておけば心配はないかな。少しでもおかしいなと思ったら言うんだよ」

「はい」


 ソファに座ったシュカと目線を合わせてしゃがんでいたエルヴァが立ち上がり、入れ替わりに厨房から袋に入った氷をもらってきてくれたシルエラが近づく。


「さあ、しっかり当てて。冷たすぎないかい? もう一枚タオルを巻こうか?」

「いえ、大丈夫です。すみません、面倒をかけて……」

「何を言ってるんだい、具合が悪くなるより悪いことなんてないよ。いいから気にしないで休んでいきなさいな」


 恐縮するシュカを宥めて甲斐甲斐しく世話を焼くシルエラを眺めながら、エルヴァに訊ねる。


「シュカ、大丈夫ですか」

「ああ。出血も脳震盪の症状もないし、腫れもすぐに引くと思うよ」

「そうですか。良かった」


 ほっと胸を撫で下ろす。エルヴァは、なんだか緊張した様子でシルエラと話しているシュカの方を見ながら言った。


「彼女の家はどこだかわかるかい? ひとりで帰すわけにもいかないし、使いをやって家のひとに知らせた方がいいと思うんだ」

「ああ、そうですよね……」


 でもなんとなく、シュカは固辞しそうな気がする。先程交わした会話でも、自分や身内のことをあまり知られたくないようだった。


「あの、私がシュカを送っていったらだめですか」


 それならシュカも気をつかわずに済むし、受け入れてくれそうだと思ったのだけれど、エルヴァは渋る様子を見せた。


「ナツキが? しかし、それだと帰りは君ひとりになってしまうだろう。今はウィルもいないし、君も特殊な立場を明かした後だ。賛成はしかねるな」


 冷静に窘められてしまった。じゃあどうしよう、と思ったところで横から肩を叩かれ、軽やかな声がエルヴァに言う。


「エルヴァ様、それなら私が一緒に行きますよ。それならいかがでしょう?」


 白い頬を縁取るように束を残した藍色の髪を揺らして微笑むのはミカだった。もう一方の手にはシルエラが頼んだものか、ほかほかと湯気を立てるカップがふたつ載ったトレーを載せている。香りからすると、おそらくはハーブティー。

 そのひとつを夏妃に手渡すミカの提案にも、根っからの紳士であるエルヴァは秀麗な眉を下げて首を振る。


「確かにひとりではなくなるが、君もうら若い女性だ。護衛役として数えるわけにはいかないね」


 すると、意見を却下されたというのにミカは嬉しげにほんのり頬を染める。

「エルヴァ様にそう仰られると悪い気はしないわよね」とこっそり耳打ちされた。気持ちはよくわかるのでつい力強く頷いてしまう。麗しの美貌の紳士に女性扱いされたら、ときめいてしまうのが女心というものだ。

 不思議そうな顔をするエルヴァに、ミカは重ねて言った。


「お気遣い感謝します、エルヴァ様。でも、私は王都中の警邏の配置と巡回時間が頭に入っていますから。危険な道を選ぶような愚かな真似は致しませんよ」

「王都中?」


 思わず声を上げてしまった。ミカはそれは綺麗にウインクを決めて目配せをくれたが、到底信じがたい。情報を集める役目を負っているという彼女には当たり前のことなんだろうか。エルヴァは驚いた様子もなく、思い悩むような表情になった。


「君がそう言うならそうなんだろうけれどね……。祝典前で、警備に変更があったという話は?」

「ああ、それもウィルから聞いています。それも踏まえての『王都中』ですから」


 あっさりと頷いたミカの口から出た名前に、え?と声にならない声が漏れる。動揺している間に、エルヴァは納得してしまったようだった。


「そうか、わかった。それならミカ、君に任せよう。確かに、私などよりも王都で生まれ育った君のほうが詳しいだろう」

「ありがたいお言葉です」


 胸に手を当てて恭しく一礼した彼女は、シュカの方に近づいていってティーカップを渡し、にこやかに話しかけている。疑問を口に出せずに立ち尽くす夏妃の硬い表情に気づいたエルヴァが、心配そうに呼びかけた。


「ナツキ?」

「え? ……あ、」

「どうしたんだい、ぼんやりして。まさか、君もどこか怪我を?」

「いえ、それは本当に大丈夫です! その、ミカさんの話にびっくりしただけですから」


 嘘ではない部分を選んで口にすると、彼もああ、とミカの方に目をやった。


「あの子は優秀だね。必ず、頼んだ仕事以上のことを自分で考え、実行してくれる。頼もしい、なんてものじゃない。本当に助けられているよ」


 混じりけの無い称賛の言葉が、ちくりと胸に刺さる。羨ましい、と思った。何でもそつなくこなし、期待以上のものを返すことができる彼女が。到底、同じにはなれない。

 ああ、こんな妬むような気持ちになんてなりたくないのに。比べたって仕方がないがないから、自分にできることをと決めたのに。何度でも、同じようなことでぐすぐすと思い悩んでしまう自分が情けない。


 俯くと、エルヴァの手が肩に置かれて、すぐに離れていった。何も言わなかったけれど、「焦ることはないよ」と彼の声が聞こえるようで、本当に魔法みたいに心を読むひとだなあと思うと肩の力が抜けていく。

 彼を見ているとよくわかる。人には相応の役割があるし、自分以外にも、それ以上にもなれない。それは諦めではなく許しだ。羨ましいと思うことは尽きなくても、それさえ自分の一部なんだから。


 ふと思い出して、ハーブティーにようやく口を付けた。ふわりと広がる花に似た香りとぽかぽかと胸のあたりがあたたかくなる感覚にほっとする。落ち込んだときにはあたたかいものを食べるんだよ、とシルエラがよく言うけれど、なるほど大事なことだと実感した。


 少し気持ちが浮上したところで、そのシルエラが立ち上がってにっこりと言った。


「さあ、みんなでごはんにしよう。シュカも食べていくだろう?」


 えっと戸惑った顔をしたシュカは、慌てた様子で首を振る。


「そんな、お邪魔になりますから、帰ります」

「邪魔なことなんてあるわけないだろう! ナツキの友達なら身内も同じだよ」


 目をとがらせたシルエラがとんでもないとばかりに腰に手を当て、シュカはぽかんとする。エルヴァが苦笑しながら口を挟んだ。


「シュカだって家のひとが待っているだろうし、無理を言ってはいけないよ」

「そうは言ってもねえ、父上。ナツキが友達を連れてくるなんてはじめてのことなんだよ? もっと話を聞きたいじゃないか」


 友達のいない子どもみたいな言い方はやめてほしい……と肩を縮めながら、ハーブティーを飲みつつ成り行きを見守る。


「シュカ、お家の人は厳しいのかい? 遅くなったら叱られるとか」

「いいえ、その、気にしないと思いますけど……」

「気にしない? こんなに可愛い女の子の一人歩きを心配しないなんて、どういうことだい」

「シルエラ、言っていることが滅茶苦茶だよ」

「滅茶苦茶なものか。まったく、こんなに細い腕をして。ちゃんと食べさせてもらってるんだろうね? さあこっちにおいで!」


 と、彼女の傷をかばいつつも引きずるような勢いで、シュカを食堂の方へと連れていってしまう。やはりここでもシルエラに逆らえる者はいないようだ。肩を落としながらエルヴァが戻ってきた。


「あの子の強引さにはまったく、困ったものだ」

「シュカも戸惑ってはいるけど迷惑には思ってないみたいだし、大丈夫ですよ。今日はちょっと元気がないというか、様子がおかしかったから、むしろ良かったのかも」

「そうか。ならいいんだが」


 苦笑する彼の言葉にかぶさるように、食堂の方から夏妃を呼ぶ声が聞こえてくる。顔を見合わせて笑った後、促すミカと一緒に部屋を出た。





 わいわいと食事を終えた後で宿を出ると、白い月が高いところで光っていた。その形はじわじわと真円に近づいている。吹き付ける冷たい風と一緒に、いよいよ本番が近いのだということを肌身で感じた。


 数歩先を歩くミカは自らの言葉通り、迷うそぶりもなくすいすいと路地を縫うように先導していく。暗い道は避けて必ず警邏の姿が見える明るい通りを選び、彼らと親しげに挨拶を交わしている。


「あれ、ミカじゃないか。こんな時間に何してるんだ?」

「うふふ、両手に花で秘密のデート中。羨ましいでしょ?」

「まったくだね。こっちは祝祭が終わるまで恋人と会うこともままならないっていうのに」

「元気出しなさいよ、仕事ができる男はモテるわ」

「フラれる前提か?」

「まあまあ。お勤めご苦労さまー」


 何度目かのやりとりのあと、手を振って警邏の男たちと別れる。夏妃も彼らに会釈で挨拶して、隣りのシュカに小声で囁いた。


「……ね? ミカさんてすごいひとでしょ」

「……うん。驚いた」


 こそこそと話しながら、彼女のほっそりした背中に畏敬の眼差しを送る。くるりと振り向いて、彼女は二人を手招きした。


「ほらほらお姫様たち、離れないでちゃんとついてきて。ええと、シュカちゃんのおうちは南区寄りなのよね?」

「はい。でも、鍛冶通りまでで大丈夫です。そこからはすぐ近くなので」

「そういうわけにはいかないわ。おうちの人に連絡も入れないで引き止めちゃったのはこちらなんだもの。ちゃんと説明しに行くわ」

「本当に、平気ですから」


 きっぱりとした口調にはそれ以上の追及を許さないものがあって、物怖じしないミカですら息を呑んで足を止めた。


「……そう? 鍛冶通りなら、もうそこだけど」


 彼女が指差す路地の出口の先は広場のようになっていて、家路を急ぐ者や何か談笑しながら歩く若者などの姿が見える。この時間でも賑やかな喧騒のある界隈らしく、その点では心配はなさそうだったが、シュカの一貫した頑なな態度には不安を覚えた。


 ではこれで、とミカに向かって頭を下げるシュカの手をとっさにとる。それでも適切な言葉が浮かばなくて、結局はたった一言しか言えなかった。


「また明日ね、シュカ」


 彼女はこちらを見返し、やはり底の見えない瞳で笑った。


「うん、また明日。おやすみなさい、ナツキ」


 するりと手から抜け出して、一度だけ手を振るとそのまま振り返らずに路地から駆け出ていった。


「なんていうか……、不思議な子ね、彼女」


 隣に並んだミカに、ためらいつつも頷く。


「はい。ぼんやりしてるのに、たまに妙な迫力があるっていうか。それに歴史にすごく詳しくて、誰も知らないようなことまで知っていたりするんですよ。……確かに謎は多いかも」

「誰も知らないような、か。ふうん」


 考え込むように頬に手を当てて首を傾げたミカは、こちらに視線を寄越すと切り替えるように微笑んで言った。


「遅くなるとエルヴァ様達が心配するわ。戻りましょうか」


 頷いて、来た道を今度は二人で歩く。


 実はここまでの道すがら、誰とでも気さくに楽しそうに会話を交わす彼女を見ていて、いつかのウィルと彼女のやりとりを思い出していた。昔なじみだという二人の間の空気には遠慮がなくて、とても親しげで、気後れしたのを覚えている。二人がとてもお似合いだと思ったことも。


 それを思うと胸のあたりがつかえるような、よくわからない感情で息苦しくなる。自分が二人の何にこんなにも複雑な気分を抱いているのかがわからなくて、自己嫌悪に陥りそうになる。

 なにか自分のなかの大切なものを見つけられていないもどかしさが、ずっと心のどこかにひっかかっていた。


「ウィルってさあ」


 ふいにミカが口にした名前に反応して、心臓が跳ねる。彼女を見ると、こちらを見て何か思い出すように目を細めていた。


「あいつ、おかしいのよ。この間顔を合わせた途端、ナツキちゃんのことばっかり訊いてくるの。元気なのか、食事はとっているか、よく眠れているか、練習は順調そうか。過保護な母親みたいだったわ」


 そのときばかりは胸のもやもやよりも恥ずかしさの方が勝り、肩をがっくり落として両手で顔を覆った。


「そうなんです……。最近はもう、ずっとそんな調子で……」


 いままでのエピソードのあれこれが浮かんできて悶えそうになる。


「あはは、苦労するねえナツキちゃん。でもねえ私、あいつに関してはいい傾向だと思うのよね」

「え?」


 手から顔を上げて、頬を扇ぎながらミカを見る。どきりとするような優しい目が夏妃を見ていた。


「ウィルはね、昔から面倒見がいいしわりとなんでも要領よくこなす器用なやつだったわ。でも、大した努力もなく結果を得られるって言うのは良し悪しでね。代わりになんの執着も熱意も持ってなかった。五十年くらい前、ウィルが最後に王都に滞在していたとき、ちょうどシロガネ祭の期間だったの。その催しの中に、弓の遠当てをして合計点を競うっていうものがあって、二人で参加したわ。子どもの部の優勝商品は希少な銀蔦製の弓で、子どもたちの憧れの的だった。この催しでの優勝者はちょっとしたヒーロー扱いで、一目置かれる存在だったから」


 なんとなく先の展開が分かったような気がして、それでも黙って続きを待つ。ミカもじらす必要はないと思ったのだろう、あっさりと続けた。


「その年、優勝したのはウィルだった。ほとんど弓なんか扱ったこともないくせに、その場で大人たちに教わったらあっという間にこつを掴んだみたいで、あっさりとね。それをみていた準優勝の男の子が、あいつに食ってかかった。なにかずるをしたんだろう、そうでなきゃおかしいって。彼は何年も何年も、勝つために練習してきたんでしょう。それを初心者同然のやつにひっくり返されて面白くないのはわかるけれど、完全に逆恨みだわ。そう言ってやろうとしたんだけど、ウィルはその前にその子の前に行って弓を差し出した。『そんなに欲しいのならあげる』って」

「ちょ……っと、それは……」


 思わず呻いてしまう。ミカも苦笑し、やれやれと言わんばかりに首を振った。


「あんまりな態度よね。当然、相手の子は激怒して、取っ組み合いの喧嘩になった。どうして相手が掴みかかってきたのかわかってない顔で、ウィルはやられっぱなしだったけど。そこに騒ぎを聞きつけて兵やコルナリナ様がやってきて、仲裁、もといウィルは制裁を受けたわけなんだけれどね」


 あのコルナリナならそれこそ容赦なくやりこめたことだろう。合掌したい気分になる。

 ミカはため息をついて続けた。


「コルナリナ様にぼこぼこにのされたウィルの介抱に行ったら、地面にぶっ倒れたままで、あいつなんて言ったと思う? 『やり方がまずかったよ。次からは目立たないように気を付ける』ですって。ああ、全然理解してないなあこいつ、って私にもわかったわ。腹が立ったから踏んづけてやってそのまま家に帰ったけど、ウィルは宿に戻ってきたときにはけろっとしてた。きっとあいつの中の私は、よくわからない乱暴者の幼馴染み、程度の認識でしょうね」


 夜空を仰いだ彼女は、白い頬を緩めた。


「だからね、驚いたのよ。あいつがナツキちゃんの帰りを宿の前で待っているのを見た時。あなたの顔を見てあいつ、心底ほっとした顔をしてた。城でも、城下に降りて警備の訓練に加わってからもずっと、あなたのことばかり気にかけて。あの薄情者がこうも変わるのかと思うと、不気味なくらいよ」


 あんまりな言いぐさな気もするけれど、彼女の語る昔のウィルと比べると今はまるで別人なのだから確かに驚く。夏にまだ彼を疑っていた頃、疑いをぶつけたときのことを思い出す。あの時の冷たく突き放したような表情や態度も、確かに彼の一部分なのだろう。


「ねえ、ナツキちゃん。勝手な話だろうけど、あれの幼馴染みとしてお願いするわ。ウィルをよろしくね。ややこしくて大事なことをはっきり言えないへたれ男だけど、あなたのことは誰より大事にしてる。できれば見捨てないで傍にいてやって」


 いつの間にか、足を止めたミカに両手を取られていた。真摯なまなざしと言葉に戸惑う。


「でも……、ウィルは会ったときから親切だったもの。私が何かしたとは思えない」

「あら、それならエルヴァ様たちにも訊いてみる? ウィルの様子は前と比べてどうですかって」


 自信ありげに笑う彼女には何か確信があるようだ。なにひとつ確かなものを持てずにいる夏妃は、胸の内にわだかまるものをどうにかしたくて、ぐるぐるとさだまらない思考のままに口を開いた。


「あの、だけど、そういうのはウィルのことをちゃんと理解しているミカさんがしてあげた方がいいんじゃないかと思うんです」

「え? 私?」

「だって、ミカさんとウィルは美男美女でお似合いだし、大人だし、仲良さそうだし、私が会えない時にもウィルに会えるような関係なんだし……、って、私、何言ってるんでしょう……?」

 胸の内にずっと抱えていた疑念を、全部口に出してしまったことに気づく。じわじわと羞恥が込み上げていて、顔の温度が上がっていくのがわかった。顔だけでなく、体中が熱い。今すぐこの場から逃げ出したい。穴があったら埋まりたい。


「ミカさん、あ、あの……」

「ナツキちゃん!」

 手を振り払い逃げ出してしまおうと思った瞬間、逆に手を引っ張られて彼女にぎゅっと抱きしめられた。藍色の髪からはとても良い匂いがして、ふわふわと柔らかくて温かくて、よくわからずにひたすら動揺する。


「え、え?」

「ああもう、かわいい~!!」


 こちらの動揺など全く意に介していない様子で、この細腕のどこにそんな力が、と驚くほどの勢いで彼女にぎゅうぎゅうと抱きつかれる。ちょっと、いやだいぶ苦しい。ギブギブ、と腕をタップするとようやく気付いた彼女に解放してもらえた。


「あ、ごめんね、大丈夫?」

「だい、だいじょうぶです……」


 ぜえぜえと息を整えて、心もち彼女から距離を取る。自分はかなり恥ずかしいことをしたはずなのに彼女のとった行動は不可解で、いまもなんだか物足りなさそうに手をわきわきと動かしている。怖い。

 警戒しているこちらに気づいたようで慌てて腕を下ろした彼女は、今度は微笑ましいものを見るような目をこちらに向けた。


「そっか。ナツキちゃんにずっと勘違いさせちゃってたのね」

「勘違い、ですか」

「そう。私とウィルが恋人同士なんじゃないかとか、そんな風に思ってたんでしょ?」

「ち、がうんですか……?」


 恐る恐る訊くと、ミカはふと息を吐いて、俯く。そして肩を震わせ始めたかと思うと、声に出して笑いだした。


「ふふ、あっはは、ないない! ないわー!」


 彼女の見たことのないほどの遠慮のない笑いっぷりに、ぽかんとしてしまう。


「ご、ごめん、考えたこともなかったから面白くて。あのね、ウィルに会ってたのは純粋に情報収集のため。エルヴァ様にもこっそり会いに行ってるからね、あいつ」

「えっ」

「内緒よ内緒」

 それにしてもウィルに教えたらどんな顔するかなあ、と目尻に浮いた涙をぬぐいながら、ミカは襟元からなにかを取りだした。ちゃり、と音を立てて首からさがるそれには、見覚えがある。


「銀守り……?」

「そう。私が恋人からもらったものよ。ナツキちゃんはまだ知らないだろうけど、銀守りには自分の瞳と似た色の石が嵌ったものを恋人と交換する慣習があってね。まあ大げさに言えば、「私の心をあなたに預けます」っていう意味合いかな」

「へえ、素敵ですね」


 そういえば学校でも、付き合っている男女がネクタイを交換していたりしたっけ。実はちょっと憧れだった。


 ふと、王城での騒ぎの時にウィルに銀守りを残したときのことを思い出す。彼は何も言わなかったけど、慣習のことは知っていたはずだ。知らずにかなり恥ずかしいことをしていたのだと知り、また頬が熱くなる。

 意味合いとしては間違っていなかったけれど。自分は彼を信頼して、あの時心を預けたのだから。


 ミカの手にある銀守りには、夏の蒼空のような鮮やかな青色の石が嵌っていた。それが彼女の恋人の瞳の色なのだろうと知る。同時に、自分の見当違いの思い込みを自覚して項垂れた。


「あの、すみませんでした、ミカさん。勘違いで、おかしな態度をとったりして」

「いいのよ、気にしないで。これでまたウィルをからかえるネタが増えたんだもの、感謝したいくらいだわ」


 からりと笑う彼女はこだわりなくそう言ってくれたが、ウィルの苦労の種を増やしてしまった気がして表情がひきつる。ごめんウィル。


「そもそも元はといえば、あいつが言うべきことをきちんと言わないから招いたことでしょう? まったく、変なところで弱腰で不器用なんだから」

「言うべきこと?」

「ナツキちゃん、いいの。あなたはそのままでいて頂戴」


 肩を掴まれ真剣に頷かれ、釣られるように頷き返してしまったが、全く釈然としない。


「さあさあ、帰りましょう。やきもち焼くかわいいナツキちゃんも見れたことだし、今日は良い夜だわ」


 スキップでもしそうな上機嫌な様子でミカが歩きだし、それにのろのろと続く。まだ熱い頬を夜気で冷えた手のひらで冷ますように覆って、ふと先程の彼女の言葉が引っ掛かる。


 やきもち。嫉妬。だれに?

 いつの間にか胸の内のわだかまりがすっかり消えていることにやっと気づく。何故消えたのか? ――ウィルとミカが恋人同士ではないことを知ったからだ。


 考えながら、自分の胸元から銀守りを取りだしてみる。ウィルはこれを夏妃に返すとき、突然額に口づけて言った。いつか、思うことを聞かせてほしいと。それは、夏妃の中の彼への気持ちを聞かせてほしいという意味だろう。

 あのときは恥ずかしくて深く考える余裕はなかったけれど、胸の内のもやもやしたわだかまりが晴れた今、答えは見えかけていた。


 この世界にひとりきりになったはじめから傍にいてくれたひと。身勝手な疑いをぶつけても、全部受け止めて一緒に泣いてくれたひと。誰を信じていいかわからないこの世界で、一番最初に信じたひと。心を預けたら、心を返してくれるひと。彼は夏妃にとって、そういう存在だ。


 そうして彼に対する気持ちをひとつずつ見つめたら、すとんと納得してしまった。

 何ひとつ難しいことなんてなかった。すぐそこにあるものを見ていなかっただけだ。あの夏の日から成長なんて一つもしていないんじゃないかと呆れてしまう。


 急に目の前の雲が晴れたみたいな気持ちで足を動かしながら、路地を挟む屋根の間から覗く夜空にひっかかる月を仰いだ。月が綺麗な夜を口実に、想いを伝える言葉もあったっけ。


 ――ああ、今、すごくウィルに会いたい。


 初めて素直にそう認めたら、余計に寂しくなった。だけど、雲の合間に虹を見つけたみたいに、心は浮き立って晴れやかだ。胸のあたりがあたたかくて、鼻歌でも歌いたいような、くすぐったいような気分になる。


 遅れている夏妃に気づいたミカが振り返り、何か言いかけた彼女の瞳が見開かれる。ぽかんと口を開けて、その足が止まる。


「ナツキちゃん?」

「あ、すみません」


 ぼんやりしていたことを詫びて追いつくが、彼女は戸惑ったようにこちらの顔を見つめていて動かない。どうしたんだろうと思いながら見つめ返すと、彼女は吐息のような声で呟いた。


「驚いた。今、すごく大人っぽい、別人みたいな顔をしてたから」


 え、と自分の頬に手を当てても、見えないのだからわからない。


「すごく可愛かったから、またぎゅっとしてもいい?」

「それはやめてください……」


 なんだ残念、と笑ったミカの手がこちらの右手をとる。それ以上そのことには触れず、二人で黙って歩く。何も言わなくても、彼女にはすべてがわかっているような気がした。

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