任務:傭兵『レックス・アームストロング』と交渉せよ ②
入って右手側のユニットバス。短い廊下を挟んだ寝室兼居間には、カウンターが付いた台所があって、その壁際に寝台を置き、窓際に小さなテーブルを配置してあった。それだけの質素な部屋だが、少なくとも外よりは上等であり、空調からの熱風が常に部屋を温めていた。
衛士はコートをテーブルの椅子に掛け、ギターケースを壁に立てかける。遠慮無く腰をかけると、台所からコーヒーが注がれたカップを二つ手にするレックスがやってきた。
「砂糖は入れるかい?」
「いや、どギツいブラックで大丈夫だ」
「じゃあこれ。口にあえばいいけど」
衛士の前に、焦げた灰から抽出したように深い茶系の液体が並々注がれたカップが置かれた。レックスが腰をかけるのを見ながらそれを手に取り、口へと運ぶ。皮膚が火傷しそうなそれを唇につけて――”視た”未来に己の生存を認識し、口に含む。
毒は入っていないようだ。
「ああ、美味しいですよ」
舌にこびりつくような苦さが残る。後味も何も、感想が苦い以外しか残らないソレは、されど身体を温める。同時に眠気が走る頭も冴えてきた。
これで風呂にでも入れれば完璧だ。
それで、と衛士は大きく息を吐いた。
ぬくぬくと温かい空気に触れながら、気が抜けてしまいそうな心を引き締めてレックスに対峙する。
「あんたに対しては無条件で情報は教えよう。もっとも、オレが説明できる範囲内のことだけど」
現時点ではとにかく彼に信用してもらうしか無いのだから、この選択は決して間違ったものとは言えないだろう。
仮に彼が協会側に回ったり、あるいは既に協会の手先だとした場合はまたその時に処分するだけだし、特に問題があるわけでもない。協会が知らぬ機関の秘密が、未だ残っているようには思えないからローリスクハイリターンだ。
「そうかい? なら遠慮なく……キミたち機関は世界掌握を目的とすると言ったね。それほどの軍事力、あるいは資産を持っても協会という組織に妨害される、手こずってしまうようなものなのかい?」
身をゆだねるとすれば最も重要になるだろう事柄だ。
ただ貧弱な組織に雇われて、おごり高ぶったオーナーに無茶な仕事ばかりを押し付けられて死ぬのなんて誰もしたくはないだろう。
だが機関が持っている力、その強みというものをどう説明すればよいのだろうか――にわかに思惟して、衛士は頷いた。
右目の眼帯に手をかけ、引き剥がす。それを握ったまま手をテーブルに置いてから、閉じた瞼をゆっくりと開ける。
濁った白い瞳がレックスを射ぬく。
途端に、彼は思わぬ気迫を感じたようだった。咄嗟に武器になりそうなカップに手をかけて内容物をふりかけようとして、それを寸でのところで抑える。それほどまでに、レックスはその瞳に何かを感じていた。
――現在、衛士の右目は何も見えていない。そしてそれが本来の右目だった。
随時、五分間の未来を見続ける左目とは違い、こちらの能力は意識的に発現することが可能となっていた。
五キロ前後の遠隔視に、透視、透過能力。
そしてなによりも、目覚めた時に新たに得た、おそらく能力の真骨頂と言える能力……。使い続ければ五分で限界となり、ソレ以上はまともに使い物にならなくなるそれらだ。使い所はしっかりと見極めなければ単純に身体の負担になってしまうだろう。
「純粋な軍事力で言えば、アメリカにやや劣る程度だ。核を持っていないから交渉という立場まで登れないが……その他に、この世界には存在しない特殊な技術を保有している」
今でこそ世界と均衡している機関だが、その気になればどうとでもできると宣言……しているわけではないが、そういった事を匂わせている。この地上での援助が無くとも最低一○○年は生存できる環境にある機関は日本だけだが、アメリカは軍とズブズブで抗いようが無いし、ドイツだって同様だ。
だから世界だって、そうそう世界抑圧機関というものを邪険にしているわけではない。だからこそ国連機関の一つとして存在が認められ、受け入れられたのだ。
世界を掌握すると言っても、今はただ協会を殲滅して、さらに力を見せつけ協力体制から、向こう側から支援をさせてくれと懇願する位置にまで這い上がるだけだ。目標達成はすでにあと少しにまで迫っている。
衛士はそう説明してから、右目に意識を高めた。
「協会だけが邪魔なんだ。今更になって、機関の裏切り者が創設した組織が……オレと同じ特異点と呼ばれる機関に作られた超能力者が、邪魔をする」
昂ぶる。
誘発されるように思い返される、苦い思い出。肉親が虐殺された記憶。助けだした仲間が殺された記憶。そして、自分が殺された記憶。
右目、その眼窩に蒼い炎が灯った。
そしてその直後に――精神が、その炎に炙られるように削られる。呼吸が乱れ、ただ座っているだけなのに疲弊する。
額からじわりと滲んだ汗が頬を伝って流れ落ち、衛士は大きく深呼吸した。
今にも破裂してしまいそうな憎悪を抑えこみ、心を落ち着かせる。やがて炎だけを維持して、右目の視点を少しだけ前に上に持ち上げた。
「どうした、エイジ?」
「いや、大丈夫だ。気にしないでくれ」
また深く胸いっぱいに息を吸い込む。
衛士の精神はそこで安定した。
「レックス、今の時刻は何時だったかな?」
「え? ああ……っと、午後二時○二分だけど」
「そうか、”二時○二分”だな? 悪いが、今からそれだけを意識しててくれ。ソレ以外を考えないでくれ。三分になっても四分になっても、その時間だけを意識してくれ。あんたの疑問を解消する、素敵な魔法を見せてやる」
「二時、二分を……」
袖をまくって腕時計を眺めていたレックスは、それからじっくりと、睨みつけるように時計を見続ける。
壁掛けの時計が無いために妙な緊張の中、数十秒が経過した。
あるいは一分かもしれない。その前後とも考えられるが、ともかくただ一つのソレを深く心に刻むにはあまりにも十分過ぎる時間が経ったのだ。
「覚えたか?」
「覚えられないって言ったらどうする?」
「……準備はいいか」
「何をするかしらないけど、いつでも」
レックスは軽口を叩きながらも、神妙な面持ちで衛士を見つめる。
彼はその視線を受け、そして見つめ返しながら――指を鳴らした。
その刹那。
意識が、身体の中に吸い込まれていくような感覚に陥った。
視界が瞬間的にブラックアウトする中で、目眩のようにグルグルと回り始める違和感を覚える。
まるでどこか別の空間に飛ばされたような、奇妙な感覚。
その直後に、ぷつりと何かが途切れ――闇に落ちた視界に光が取り戻された。
「……ふー」
衛士は大きく息を吐いた。
「今何時?」
そして間を置かずに訊ねる。
彼はやや怪訝な表情をして、
「だから、二時二分……ん? あれ、おかしいな……」
腕時計を凝視しながら疑念を口にする。
彼の見る時計の長針は十二から三つほどメモリが左にずれた位置に停止していて――そもそも、それまで彼自身、時刻を確認しようとするまで概ねの時刻を把握すらしていなかった。
だから思わず漏れたその時刻に、何か妙だと考える。なぜ時間を聞かれて思わずその時刻を答えたのだろうか、と。
――それは時衛士自身、隠しておきたかった能力だった。
今の”巻き戻し”で機関の誰か、あるいは協会の勘のいい誰かがこの能力に気づく可能性が高くなる。
遠隔視、透視のさらなる切り札として伏せていたものだったから少しばかりためらわれたが、今の状況で渋っていてもラチが明かないことは明らかだったから、仕方のないことだろう。
「そう、二時二分だ」
それは『時間を巻き戻す』直前の時刻である。
『時間回帰』は使用者以外全てに干渉して行われる。そして、干渉されたものは例外一つ無く全て五分前に回帰される。意識も、傷も、記憶も、それらを引き継ぐことは決して無い。
だが、それが起こったということを認識する方法ならばある。ある意味修行法というようなもので、衛士自身が行なっていたものなのだが、それは時間が巻き戻る直前に、時間が進退する事によって変化してしまうモノを強く意識することだ。
この場合はわかりやすく時計を使用したが、故意にモノを破壊してもいいし、何かを傷つけてもいい。
なんにせよ”時間が進んだはずなのに”、あるいは”壊したはずなのに”という疑問を抱けるような状況にさえなれば半ば成功である。
そういった状況に、時間が巻き戻るという概念を加えてやれば、戸惑いながらもそれを理解することができる。納得は後回しでも構わない。
かいつまんでそれを説明すると、レックス・アームストロングは目を見開いて衛士を凝視した。
――状況は衛士が眼帯を外した直後に巻き戻ったはずだ。
ならば、彼からしてみれば濁った白い瞳に突然蒼い輝きが灯った、奇妙な場面に遭遇したことになる。
そして印象的だった瞳のこともあって、レックスは大きく嘆息するように息を吐いた。
「そうかい。キミの言うとおり、その世界掌握出来る技術を持っているのは理解しよう。今でも正直わけもわからず混乱しているが、時間が巻き戻ったことだけは真実だと言い切れる。ボクが体験したんだからね」
だが、と言葉は続く。
「返答になっていないな。ボクは、協会に手こずる程度の戦力なのか、と訊いたんだ」
「正直、未知数だ。今のオレなら負ける気はしないし、そろそろ協会も本気に潰しにかかってくる。機関としては万全の状況にしておきたいんだろう」
「キミのような存在は他に居ないのかい?」
「オレみたいなのってのは居ないな。少なくとも日本には。ただ、特殊能力を持つ道具を扱う奴らが数十人居る。スーパーマンみたいな身体能力になるような、特殊な道具からなにやら、たくさんあるが――その道具にさえ使えるやつやらがいて、適正があるやつしか使えない」
「普通の兵隊でも対応できるだろうに」
「たぶんな。だが慣れて無いから、相手に超能力出されたら対処法がわからなくなっちまう」
衛士はそれから大きく息を吐いて、コーヒーを口に含む。それから右目に眼帯をして、蒼い輝きを漏らしながらも一先ず封印した。
「まあ唯一救いなのが、協会連中の能力のことだな」
「へえ、一番重要なところだけど、またなんで?」
「付焼刃っつって人為的に能力を得た連中の能力は、得た時点で既に限界、最大なんだ。成長がない。ただ個人の熟練度だけが問題になる」
その点、特異点と呼ばれる彼らの場合は未知数の成長を遂げる。
それこそが特異点と呼ばれる所以でもあり、唯一奇跡を願い、賭けられる存在でもあった。
「それに、付焼刃は空間に干渉する能力だけだ。炎を出したり、温度を上下させたり。その数は数多だが、オレのような能力は一切使えない。ごく”常識的な能力者”だ」
「はは、常識的、ねえ。その存在が非常識だっていうのに」
「まあそりゃそうだが――」
衛士は思わず震撼する。
言葉を途絶し、そして勢い良く立ち上がる。膝裏で椅子を弾くようにして、それから背もたれからコートを引き剥がして着こむ。
それから立ち上がったままコーヒーを一気に飲み干すと、壁に立てかけたギターケースをテーブルの上に置いて、ジッパーを開けた。
「ど、どうしたんだ?」
「ああ、コーヒーご馳走様。あんたは今は無関係だから、今すぐここを引き払ったほうがいい」
思い出したようにポケットから財布を取り出して、中身の紙幣を全てテーブルに叩きつける。
バラバラになった狙撃銃を手軽く組み立てながら、衛士はさらに続けた。
「どうやら勘の良い連中がここにも居たらしい。多分、あんたを追ってたやつかな。あんたは連中に手をかけてるわけだし、ただ逃がすわけにゃ、いかねえしな」
やれやれと肩をすぼめて衛士は嘆息した。箱に入った7.62mmの弾薬をコートのポケットに突っ込み、そして狙撃銃に最大数を装填する。さらにコッキングレバーを引き、弾薬に一発収めてさらに一つ。
念のために安全装置を掛けてから、ギターケースをそのままにして準備が完了する。
その頃になると、レックスも毛皮の帽子をかぶり、負紐でアサルトライフルを肩から提げていた。
バックパックを背負って、室内の荷物は全てが片付けられていのを見て、衛士は彼へと視線を移した。
「いいのか?」
「ボクを追ってきた連中なんだろ? 結果的にキミが位置を気づかせたにしろ、尻拭いくらいは出来るさ」
「……正直、助かるよ」
衛士は思わず頬を弛緩させるように微笑んだ。
「それはこっちの台詞だ」
二人は視線を交差させ――言葉を交わさず合図をしたように、同時に部屋から飛び出した。