その男、神の眼につき。
これまでの遺恨を残さずに雌雄を決する。
己の終わりの始まりを告げる――なんて大層な目的が、この戦闘開始時の念頭に置かれていたわけではない。
つまるところ、その青年の本能として戦いたいというのが大きく残っていたのだ。
理解できぬわけではないし、だからといって呆れるわけでもない。
むしろ、”らしい”とさえ思う。
暴走した時衛士が、それほど理知的で理性的だったらならば、通常時の彼には同情するしか無いのだから。
「幻想に囚われて、貴様は……ッ!」
凍りついた肉体をきしませて、肢体は音の速さで肉薄する。
反応――よりも早く、鉄拳は鋭く男の腹部に食らいつく。染み出す極度の冷気に衣服が凍りつき、真正面から受けた拳が、一撃で数本の肋骨を叩き割っていた。
後退する事を良しとしないゼクトは、その腹の奥深くに拳を飲み込んで――無防備に晒される青年のその横っ面を、忌々しげに殴りつけた。
したたかに、というよりは強烈すぎる一撃は、炸裂の瞬間に急加速を迎えて衝撃をぶち込んだ。衛士の顔は蹴り飛ばされた等身大の人形のように容易く横を向き、一瞬に数百キロの重圧を込めた一発を無防備に喰らった青年は、それを然るべしとするように吹き飛んだ。
だが、衛士は吹き飛んだという程気持ちのよい反応は見せない。
まるで強い引力によって地面に張り付いているかのように、あるいは超重量の巨漢を殴りとばしたかのように、片足で地面を擦りつけながら、大きく四股を踏むように地を叩く。
小気味良い音が響き。
ゼクトの舌打ちが続いた。
一撃が炸裂すれば致命傷で、さながら致死量の猛毒を塗られた牙のような狡猾な一発は、彼らの肉体が共に放つ必殺にして常套の攻撃手段である。
だが、それをまるで使い捨ての駒のように喰らい続ける彼らには、維持があった。
神の恩恵を受けたから、では無い。
彼らは昇華し特別な人間になった――そう錯覚していた事に、誰からともなく気づいたからだ。
肥溜めのような望みもしない循環に巻き込まれ、人生の総てを粉々に砕かれた彼らは確かに特別ではあろうが、決してそこに前向きな意味合いは無い。
特殊な能力はあって便利だが、だが人が幻想に変貌した彼らには、ただ理不尽に自由を渡された。されどそこには、彼らが足掻いてでも血反吐を吐いてでも手に入れたかった大切なものだけが喪失していた。
彼らが自由を使って選ぶ手段はただ一つ。
だから必定――同じ穴に堕ちた狸は同族嫌悪を催し、己を視ているように虫唾を走らせる。握った拳は、自分を殴る代わりに、相手を修正するためだけに血に濡れる。
”神の恩恵”が、たとえ”神の視界”だろうと、そこからの視点だからこそ観測者足りえるのだろうと、結局のところ彼らには関係のない話だ。
彼らは彼らを理解し合う必要がない。
拳を交わす理由は、感情の爆発ほかならない。
己らは木偶の人形でも、使い捨ての駒でもない事を証明するように――。
死にたいわけではないのだろう。
その青年は、殊更”生”というものに執着していた。
今では肉体も朽ちて半死人――というよりは完全な死体だが。なぜか動くその青年は、生を求めて拳を握る。
理不尽な展開が気に食わなかった。
そのくせ、終わらぬ人生に苛立った。
だから必死に生き抜けば救済があるのだろうと思えば、同じ境遇の男を救済するハメになった。蚊帳の外にされた己は、ただの手駒でしか無く――崖から落ちたはずなのに、虚空に見えぬ足場が続いているかのように、終わりも始まりも知れぬ道無き道を歩いているような絶望感に、躍起になった。
大切だった人の記憶は、果たして存在していたのだろうか――。
己は果たして、正規の人間だったのだろうか――。
やがて自分さえも信じられなくなって。
待たされた五十年の中、死に絶えた青年の拳は深く手のひらに食い込んだ。
果たすべき義務は果たし、もはや義理も失せたのだ。
好きにさせろ。
だから――あの屈辱的な敗北を、塗り替えさせてもらおうか。
鬼火をくゆらせる青年の、最後に願ったささやかな渇望。勝利への道が、生の実感をさせてくれる――。
真正面から突き出された対の拳は、互いに全くもって不本意なことに、それぞれが最高峰の破壊力を誇ったまま衝突する。
骨が軋む。悲鳴を上げる。ヒビが入る。嗚咽が混じる。亀裂が走る。涙目になる。やがて耐久値が、その砲撃が如き破壊力は拳を砕いた。
痛みに涙が溢れて、だが踏み込んだ足が後退を許さない。
ゼクトのもう一本の腕が再び衛士の頬を狙い、衛士の拳がゼクトの顎下から飛来する。
反応が鈍ったのはゼクト・プライム。人としての痛覚が、その行動を遅らせた。
凍えた拳が顎先を捉え、力任せに打ち上げる。岩をも砕く高速の一撃が脳の芯にまで浸透し、ゼクトは瞬間的に白目を剥いて脱力する。
後退を嫌うゼクトの腹部を蹴り飛ばせば、彼はそのまま肉体をくの字にへし折って滑空。壁にたたきつけられ、大げさな衝突音をかき鳴らして地に落ちた。
息が切れない。鼓動が高鳴らない。
脈拍は無いし、そのままの意味で冷血だし、脳だって機能していない。
意識はあるのか定かではないが、ある程度何かを考えられる時点であると判断して良い――が。
青年の思考は断片的なものであり。
言ってしまえば、カタコトの外人が必死に思いを伝えようと外来語を駆使しようとするような風体だ。
『来い――来い、来い、来い!』
死んでは居ないはずだ。
生きているなら立ち上がれ。
かかってこい。
返り討ちにして、
『来、がッ!』
舌が劣化した血液と共に宙を飛ぶ。
勢い良く閉じた口が、滑っていた最中の舌を噛みちぎったのだ。
そして、そうしたのは――意識するよりも早く懐の潜り込んでいたゼクトの拳。打ち上げられた顎は、衛士がそうしたよりも格段に早い一撃だった。
世界の加速。
自身しか加速できぬ衛士には知覚できぬ、己以外の総ての加速。それに乗じたゼクトは故に、確実に衛士の上位に立った。
「来てやったが、次は何が望みだ」
『ぐッ、がッ』
くぐもった声。回る舌のない衛士には、真っ当な発言ができなくなる。
「まるで怨霊だな。自らの死を理解できぬまま、貴様はそうして生者を演じ続けるわけか」
『で――』
「幻想に囚われ続けた貴様は、いったいいつになれば現実を捉えるわけだ」
『――ッ』
「起こしてやる。負かしてやる。徹底的に、貴様がこの世界に居られぬように叩きのめしてやる。覚悟しろ、貴様はその死を凌駕する死を得るのだ」
格好つけた脅し言葉とは裏腹に、舌を噛み切った衛士の猛攻はより勢いを増していた。
縦横無尽の徒手空拳が、その速さも極まって執拗にゼクトに食らいつく。避けるために加速に乗じて行動をするが、その接触の間際を予期され、無為に終える。
応対する速度が徐々に速くなる。相対的に、ゼクトは己が圧されているのを理解した。
右からの拳を避けた瞬間、さらに踏み込んで砕けだ左が鳩尾を襲撃する。外側へ回りこんで寸でで回避するも、続く蹴撃が狡猾に横腹を屠っていた。
胃の腑が引き裂け、砕けた骨が内蔵を貫く。
血の味を覚えたゼクトは、腹立たしげに粘っこい鮮血を口から吐き捨てた。
呼吸に混じって、血が赤い泡となって口から溢れる。ひゅうひゅうと高い音が漏れだした。
流石に生身で受け続けるのは自殺行為――だが。
右を避け、左を避け、蹴撃をたたらを踏んで後退、それらをなんとかやり過ごす。
ここで衛士はさらに踏み込んで来なければならず、ゼクトは衛士へ向かって前進。互いに引き寄せられるように進み、加速する世界は、衛士の予知からなる肉体の加速を一瞬だけ凌駕する。その一点においては、衛士が合わせざるを得ないために、確実に起こりうる刹那の間隙だった。
拳が衛士の顔面に食らいつく。継いで、大きくのけぞった青年の横っ面に、通過した腕で追撃――肘鉄が強打し、膝打ちが脇腹を撃ちぬく。
脇あたりに過ぎた衛士の頭を、ゼクトは抱え込む。脇に挟んだその首を支点にして、腰を落とし、床を踏みにじり、身体を捻る。
すると衛士の冷えた肢体は易々と持ち上がり、ゼクトは勢い良くスイングする。風を切り、世界の加速に乗じた速度が通常の数十倍の勢いを以て衛士に襲いかかり――手を離せば、彼は当然のように吹き飛んだ……筈だった。
「……ッ!」
言葉も失せる。
投げ飛ばした筈の衛士は、その屈強な腕を握ったまま中へ吹き飛んだのだ。
故に追随するように浮かび上がるのはゼクトの肉体。加速も何も、無防備になった身体が出来る事は何もなく。
『オレの――勝ちだ』
拳が顔面に叩き込まれる。
何度も、何度も、皮膚が裂け頬骨が折れ鼻骨が砕けようとも、何度も、何度も、拳が執拗に撃ち込まれる。
そうして着地の瞬間。
時衛士の頭の中から失念していた着地手段は、結局失せたまま――衛士はゼクトの下敷きになるように背中から勢い良く床に叩きつけられた。
無数の骨が粉砕する。肉が裂け、その灰色の床にじっとりと青黒い血が溢れ始めた。
その上に横たわるゼクトは鮮血を垂れ流し……。
時衛士の肉体が棺桶の中に押し込められる。
それを見守った少女は、胸に手を当てたまま、心配そうな眼差しを向けていた。
「始めよう」
彼女の手が強化ガラスの蓋を下ろす。キーを叩いて言われたとおりに施錠すると、黒い円筒の手前の操作パネルに立つ血まみれの男は、おぼつかない指使いで操作した。
――眼の前の装置が唸り声を上げ始める。
神の視界を覗き見る観測者が、それを見守った。
そして、もう一人の観測者は――ゆっくりと、穏やかな速度でその権利を剥奪されていった。
肉体が肌の色を取り戻し、裂けた皮膚を、筋肉を、砕けた骨を、機能しない肉体の総てを、修復する。
鍛えあげられた肉体が弱体化する。
蒼い双眸は、既に失せていた。
緩やかな、淡い輝きの中――棺桶の中の時間だけが巻き戻る。
これで全ては、本当の最初に遡行する。
棺桶の輝きが失せた時。
最後の観測者は、笑みを湛えたまま、操作パネルにもたれかかるように倒れこんだ。