収束への加速
見事、無事に二十一世紀に到達したニ者は、だが思った以上にその世界にもとから居たものとして扱われていた。
彼らは四十五年前、突如として姿を消した扱いになっていたはずなのだが――。
「お久しぶりです――」
深く頭を下げる赤髪の女に、ゼクトは彼らしくもなくうろたえた様子で挨拶を受けた。
ゼクトの理解は、彼女”アイリン”と二言三言交わすだけで結果に至る。つまり、彼女がどれほどまで現状を理解できていて、またこの世界がどのような変遷をしたのかを認識できさえすれば現状の看破はたやすい。
「――ええ、”時衛士”の記憶をサルベージしたんですよ」
それは指示にない行動であるし、その行為が衛士の劣化した脳を完膚なきまでに破壊し得る手段だったとしても、彼女はそれほどの理解は無いが故に決心は簡単だ。
だがアイリンは、腐っても機関の技術者である。考えなしの行動など、考えられないのだが。
「”そうしなければならない”というような気がしまして」
曰く、ある日を境に時衛士の夢をみるようになったそうだ。
それは彼女だけではなく、エミリアや船坂、ミシェルやイワイ――この時空の、遡行する前の未来で衛士と深く関わっていた面々がその夢を共有していたらしい。
だが、眼が覚めて覚えているのは漠然と、彼の夢と見た、というだけ。
この不可思議な現象に、然るべしと決断したのはアイリンだった。
「あたし……私達が得た新たな記憶は、これから一年後の事でしたが――そう、しないため……なのでしょう。彼が、それを望んだのでしょう?」
「理解が早くて助かる。ああ、そのとおりで、だから早速本題に入りたいのだが」
アメリカに居たはずのゼクトとアンは、なぜだか日本に移動していた。
そして輸送された棺桶――後に強制冬眠装置と名付けられたソレも、同様に彼らと共にある。
気がついたのは、地下五○○メートルの空間。その重力子操作を可能とする装置が安置されている部屋であるものの、まず始めの異変は見てわかるところ存在していた。
街に出てみれば、まず人が居なかった。
一万人前後の人口が、今では戦闘員、技術者、研究者、それに伴う兵站のためにのこった連中を数えれば、五○○にも満たないのだ。随分と寂しくなった理由は、つまるところ――機関としての成果が著しく低下しているために、今後五年以内に目覚しい結果を残さなければ解体すると釘を刺されたからである。
おそらく、機関が解体された先で待ち構えているのは、研究施設としての役割のみだ。
元来通りの――極めて理想的な終焉。
在るべきでないものが、失せた事によって生じた未来は、ゼクトが思い描いたままに実現していたのだ。
なぜここまで都合が良いのか不安になる。
対面するアイリンが、彼の横で沈黙している少女をチラチラと気にしているものの、ゼクトが考えるのは全く別のことだった。
つまり、だ。
「奴も、ただでは眠らぬということか……」
因果律による世界への影響は、彼がその力を得る一年ほど前に世界へと伝播したことになる。
もっとも――時空の特異点に至らずに、この長い時間世界に留まっていれば当然だろう。実質的に、数億年の中で十年も世界に居ないゼクトが、自力以外に影響を及ぼす手段などないのだから。
背後を振り向き、空間の端に追いやられる棺桶へと歩み寄る。
最中、アイリンは現状報告を淡々と続けた。
「現在では戦闘員も、殆どPMCの仕事を継いでいますし、一年の業務の九割以上をPMCで行なっています。また、先ほどの装置の話ですが――」
時衛士を救済するためだけに創り上げたプログラム。
それを成すための推奨スペックを、その装置は最低限の範囲にすら届いていなかった。だから加速し、この未来へと至ったのだが……問題は、老いたPCのシミュレーションが完璧であったかどうか。
これで失敗ならば、最初から組み直さなければならない。
またここで、どれだけの時間を費やせばいいのか――。
「――理論上は可能で、指示通り装置はハイエンド仕様で維持していますが」
煮え切らないと言ったような、歯切れの悪い言葉。尻すぼみする台詞に疑問を抱いて横並ぶアイリンを見れば、苦虫を噛み潰したような苦渋の表情で顔の筋肉を固めていた。
どうしたというのか、なんて白々しい疑問を彼は返せない。
衛士が言うような下卑た冗句を言えるほど彼の中に――見た目に反して――余裕はないし、ユーモアセンスも、第三者が聞けばただの悪口だ。
だからただ一言、「そうか」と二の句を切り捨てて告げるだけなのだが。
だからといって、ゼクトが絶望したわけではなかった。
そもそも時間遡行が完成した理由は、ゼクト・プライムを”観測者”としての位置に置いたからなのだ。
時間というのは観測者が居て初めて成り立つ概念だが、その時間に抗い遡行するというのもまた同様である。
理論上は可能である――頭でっかちの科学者たちは、偉そうに告げるのみだ。もっとも仕方のない話しだし、誰がどう聞いても当然の反応なのだが、時間遡行の原理と理論を”理解”しているだけでは”観測者”足り得ない。
生きている限り時間は絶対だ。故に、生きている限り時間の中に存在する事が必定となる。
だが、遡行というのは不可能だ。どう足掻いても夢見話であり、いわゆるタイムスリップやタイムマシンなどは仮想のお話で大活躍。しかし彼らが遡行の中に到来することはあり得ず、故に観測者はおろか、真実に理解することなど出来ない。
純粋な子で無い限り否定は頭の隅にでも募るし、だから体感に最も近い想像が得られない。
だから、その時間遡行は、どの時空を以てしても彼の存在がなければ不可能だった。
――つまり、彼が想定したその現象が思ったとおりに作動しない理由は、彼が不在だからという理由に尽きる。
悲観こそできるが、その結果は未だ、悲嘆の対象にはなり得なかった。
棺桶の蓋は半透明の強化ガラスに換装されていた。
中に見える、青白い顔をする青年はやつれていて、お世辞にも健康的とは言い難い。
これで頭の中もやられているのだから、半死人を少し超えたところに居るのだろう。
「叩き起こせ」
無情に命ずるゼクトの声に、驚いたのは両脇の二名。アンは、非道い、とでも言うように目を見開き、アイリンは、ゼクトのプランを知らぬが故に無鉄砲な命令にただ驚愕する。
「ゼクトさん――」
ここに来て初めて口を開くアンを制して、ゼクトは強化ガラスに拳を軽く添える。ドアを叩く要領で二度ノックすれば、急かされたようにアイリンは慌てて棺桶に飛びついた。
ガラス脇の操作キーを叩けば、蓋全体がディスプレイのように様々なブラウザが立ち上がり、無数の情報を駆け巡らせる。温度、体温、湿度、脈拍、血圧、意識レベル――血中の酸素濃度、または身長体重、内部の圧力まで。彼女はさらに操作し、最後の選択肢を決定し、確認、再確認をスルー。
すると、棺桶の頭と足元の排気口からゆっくりと冷気が流れ始め、外と中との気圧を合わせ始める。
活動のための栄養を点滴として打ち込む操作をするのは、棺桶内で活動するマニュピレーターだった。
「目覚めるまで、一日から三日ほどの時間を要します」
「急く事ではない。ならばその内に、もう一度――『空間指定の時間遡行』を始めるとしようか」
時間遡行――とは言うが。
実質的には世界中の重力子に干渉して異常な超重力を発生させた後に生じる空間の歪みを利用して、時空に干渉する手段である。だから実際に時間の中を飛べるのはそういった”素養”のある人間か、指向を以て指定した者を含めてソレ系列の能力者のみである。
だから、誰もが時間を逆行できるというわけではなく、また真実を言えばこの世界の時間をそのまま戻すわけではない。
別の時空の、同じ世界への移動というのが正確無比である。
また、ゼクトの生涯でそれを実行したのは手の指を折りきらぬ程度の回数だ。殆どは、時空の加速による周回を主として、新たな世界の誕生から過程へと至っていた。
だからこそ、影響を世界ではなくごく一部分に制限した時間遡行というものの開発に難儀したのだ。
指定した空間内総ての時間を巻き戻す。それは人であっても、モノであっても、見境なく。
結局、ほんのひと手間で終えると思えた施行は、日を跨いで五時間が経過して終了した。
午後六時から開始したソレである。参加していたゼクトはともかく、図らずとも徹夜を強いられたアイリンは、さっさと帰宅していってしまった。
残されたゼクトは「こんなものか」と嘆息とともに壁を背にして座り込み。
アンは、棺桶の手前で座ったまま動かない。
言葉を交わすにはあまりにも多くの話題がありすぎて、だが彼らはそれを悠長に選択して談笑するほどの余力が残されているわけではなかった。
故に訪れる沈黙。静寂は、鼓膜に電子音のような耳鳴りを感じる。
空気は緩いのか張り詰めているのかわからないが、ともかく冷たい。
季節は六月――地上波、ちょうど、雨季に見舞われていた。
その静けさが、ゼクトの神経を研ぎ澄ます。
常に点灯している眩い照明が――突如として、ストロボを焚いたかのように瞬いた。
そんな異変を察知してアンへと目を向けるが、彼女は動じた様子もない。これほどの強烈な明滅ならば、いくら深い眠りでも目覚めそうなものだが、それが否というならば、個人的に得た怪異なのだろう。
だからより、意識を集中してこの現象を解明する……が、理解よりも早く知覚が正答にたどり着いた。
時間が細切れになっている。
それまで知覚していた時間の狭間、その刹那に全てが停止し、停止した分を加速して取り戻す。
時間が停止したのが二秒程度なら、その二秒を一瞬にして通過して、次の三秒目の尻に直結させるような――奇妙と言うには程がある、異質な肌触り。
この具合は確実に時間干渉が執り行われていて、さらに言えば、”時間が停止した”と理解した最中には、身体が動かなかった。
時間の流れが遅くなるのは、重力干渉が強い時である。
現時点で重力が極めて高くなる原因と言えば……。
錆びた金具が音を立てる。
キィ、と金属音が静かに響き――視界の隅で、半円の強化ガラスが開く。
イメージするのは悪鬼。
青白い肌は既に人を逸しており、幽鬼のように心もとなく起き上がる姿に実体感は無い。
双眸からは既に蒼炎が噴出しており、開かれた口からは蒸気のように煙が噴出する。おそらくは、この室温よりも極めて低い吐息なのだろう。
『ゼクト――プライム……ッ!』
くぐもった、声にならぬ声が叫ぶ。
認識した瞬間、その影は高く天井へと残像を伸ばしており――遺体のような姿が着地したのは、円筒の黒い装置が鎮座するその手前だった。
距離にして二十メートル弱。恐るべき身体能力、とはいえない。なぜならば、未だ半解凍状態にある彼の肉体が、まともに稼働するわけがないのだから。
だから今の跳躍で、多くの部分が傷ついたし筋肉は引き裂けただろう。
だというのに、その時衛士は思わず背筋を凍らせるほど狡猾に、座り込んだゼクトの姿を捉えていた。
照明の明滅が終える。
身体がにわかに重くなるのは、青年の加速能力が発動しているからなのだろうか。
見るからに”暴走”という二文字を彷彿とさせる姿は、ただ告げる。
『オレは――至れなくて、いい。だから――よう』
腰を落とし、拳を構える。
応じずには居られず、ゼクトは半死人という配慮を切り捨てて構えた。
――この刹那に始めよう。
オレとお前との、因縁の決別を。
因果の切断を。
これまでの総ての、
『決着を――』
そこに悔恨はなく。
復讐心などはとうの昔に投げ捨てられて。
純粋に戦士としての意味もなく。
過去と未来との決別――というわけではなく。
死ぬ前に。あるいは、この世界と別れる前に。
最後に始めるのは、最期の収束へと加速する契機の死闘。
今度出会ったら殴るとまで宣言されていたのを思い出し、ああ、ならば致し方なし――と思いを馳せるゼクトは、だが拳を握る。
殴られたままで終えるわけがない。
だが殴り返せば、向こうの拳も再度飛来する。彼らに残された最後の武器は加速でも遡行でも無く、最凶の肉体だった。
かくして火蓋が落とされるのは。
どちらからともなく、地を蹴ったその瞬間だった。