三年目経過
衛士にとって我慢ならなかったのは、すっかり頭の中から抜け落ちていた大切な記憶が、不意によみがえる事だった。
忘れていたことさえも、忘れていたならばそれは仕方がないし、むしろ今ならばそれが良かった。
しかし、思い出したその時。
なぜ忘れていたのか、どうしてこんな事を忘れてしまったのか――酷い自己嫌悪が彼を苛む。腹の奥底で息を潜めていた大蛇が、衝動的に内蔵を食い散らかして腹を突き破ってくるかのような痛みが、胸の奥から溢れだした。
だから手を伸ばそうとした。
静脈を探して、気の迷いで購入した薬物の世界に浸ろうとした。
現実から一度だけ逃げて、態勢を立てなおして、まず一度だけ、痛みを消して。
暗闇の中、二年近く生活する賃貸アパートの自室で、己の荒い息遣いだけが聞こえる。
窓から差し込む月明かりが、鋭い銀色の針に反射する。きらびやかな液体が、ゆっくりと滴った。
針先が肘裏の脈へと向かう。
指先がにわかに震えた。まるで、校舎裏で隠れて喫煙するのを、教師に咎められぬか不安がるように――そういった悪事に手を染める、ウブな子供のように。
針先が青黒い脈に触れようとして、音が遮った。
傍らに置いたゼクト手製の警報装置が短い電子音を二度繰り返し――午後六時三○分。
アンの危機を、そいつは律儀に報告した。
時衛士の廃人への道を遮ったのは、奇しくも少女が機微に感じた命の危険だった。
バッグの下敷きの下に隠してある拳銃は最終手段であり、この時間帯ならば恐らく確実に衛士が助けに来てくれると信じている。そんな彼女は無論、衛士がタチの悪いフラッシュバックに襲われているとも知らないし、違法薬物を購入していたことも知らなかった。
「はぁ……はぁ……ッ!」
仕事場から出て数分ほどしたあたりで、妙な気配が後ろについたのに気づいた。
行き先が同じだからだろうと思っていたのだが――それが、三○分以上歩く街の郊外にまでぴったりとついてくるのだから、これはまず危ない人間だと判断してまず間違い無いだろう。もっとも、彼女がポケットの中で押した無線機は送信機能しかなく、その効果はある意味で防犯ブザーよりも有用だった。
問題といえば、即効性が無いところだろうか。
不安のせいで胃が痛くなる。緊張のせいで腹の奥底から電撃が迸るような痛みが苛んだ。
足音が近づいてくる。早くなる――そう認識した瞬間、気がついた。
彼女が歩く大通りの周囲から人の気配が失せている事に。
そして、無意識に、路地へと入って目的の廃屋へと足を向けてしまった事に。
気配が、熱が。
細い手首に、触れる。
そのあとはもう、早かった。
「や、いや――」
声を上げるよりも早く無骨な汗っぽい手のひらが口をふさぎ、力任せに片腕は後ろに捻り上げられる。身体が密着し、熱い息が首筋に吐きかけられて……。
男はそれ以上、動かなかった。
『嫌だってよ、なあ、てめえの猿以下の脳みそでも拒絶くらいわかんだろうが、よお?』
男の悪意よりも濃密で粘っこい、そして鋭利で、触れた瞬間には既に喉を切り裂かれる錯覚を覚えるような殺意が、撒き散らされていた。
その男がその場で唯一理解するのは、それ以上動けば確実な死が待っていることであり、恐らくこの側頭部に押し付けられた銃口は、冗談でも脅しでもなく、どうあっても殺すためだけに唸るだろう事だった。
理解できぬ言語に、男は唸るようにアンを解放する。
彼女は前につんのめるようにして逃げ出し、そうして彼から距離をおいて、振り返った。
アンは知っていた。
衛士が日本語で喋る時は、”昔”の夢を見ていた時だと。
そういった時は決まって機嫌が悪く、彼女にも容赦なく、意思疎通の測れない言語で接触する。
それは彼にとって誰にも触れてほしくない領域があるのだと、アンは理解していた。己の中で忘れてはいけない何かを忘れぬように……そして、そういった自分に対する戒めなのではないかと、彼女は察していた。
「どうする、アン。こいつの生殺与奪権はお前のものだ」
「お任せでお願い」
「……ったく、お前も容赦ねえよな」
このまま彼に任せれば、最低でも生殖機能が失われるだろうに、彼女は告げる。
もっとも、そんな気概でなければ生き抜けなかったがゆえに鍛えぬかれた肝である。それは彼女のこれからにとっても、彼女と行動を共にする彼にとっても、良好な成長だった。
「まあいい、先に帰って、飯でも作っといてくれ」
「うん」
彼女は頷き、何事もなかったように踵を返して自宅へ向かう。
衛士はゆっくりと側頭部に押し付けていた銃口を下ろして――。
轟いた銃声は僅か一発。
その後、誰にも届かぬ叫び声が、その閑静な廃墟地帯に数分間だけ響き渡った。
二月一日。
この熱帯地域にも冬は到来する。
だが日本のような寒さは無く、最低気温が摂氏十度を切ることはなかった。
だから気温の変化のせいだ――というわけではなさそうだった。
ゼクトは全てが終えたといった。
その政党はあの暗殺を契機に自然解体され始めたが、その実、不満を覚えていた軍部によるクーデターを助長していただけだというのが判明した。されど軍部も、得体のしれぬ暗殺者に身を震わせ、また見え隠れしたアメリカに本部を置くPMCの存在に、それ以上の深追いはなかった。
だから、衛士がその一年半の騒動よりもやつれてきたのは、そういった問題が原因では無かったのだ、とアンは理解する。
彼の不良の原因を看破出来ぬのは、体調面は極めて良好だからだ。
といっても、ここ最近は日がな一日横になっていて眠りに付いている。横になっているだけかと思われたが、いつ呼んでも返事はなかった。
もっとも、この間のように緊急招集をかければ音の速さで駆けつけるのだが――この調子ならば、まだ部屋にこもりっきりで自慰にふけっている方がまだ健全だと、彼女は思っていた。
食事も二日に一度。
仕事もせず、この前などはどこで入手したのか、未使用中身入りの注射器を発見した。
ゼクトも戻らずもう半年近くが経つ。
定期的に連絡と送金が来るが、不安は絶えない。
三月一日。
「……今日が節目だった」
三度目の今日に至って、衛士はそう呟いた。
思いを馳せるのは、己の全てが狂ってしまったあの日。青年が”居ないことになった”この日。
戻った三ヶ月前が、ちょうど今日だった。
だからといって何かがあるわけでもない。
やることもなく、腹も減らず、ただ息をして、夢想すれば良い。
あの日に思いを馳せることしか、この男にはできなかった。
五月四日。
ついに三年目に至る。
それを忘れずに居たゼクトから、衛星通信が無線機を鳴らす。やかましいノイズに耳を抑えながらアンテナを伸ばして、キーを操作した。
『久しぶりだな、調子はどうだ』
所々にノイズが走るが、その男の声は変わらない。聞き覚えがあり、唯一彼が縋ることの出来る存在――そして裁くべき男だった。
「最悪だ。身体はどうってことないが、記憶がどうにも曖昧になってくる。昨日の飯がなんだったか思い出せん」
とは言うが、その実、衛士の最後の食事は一昨日だった。
しかし彼の記憶力が徐々に失われつつあるのは事実であるし、処理能力が落ちているのは確かだった。
だから彼は本能的に左目を眼帯で塞いだし、ここに来てから、鬼火が噴出することはなかった。
「さっさと帰って来い。オレがこんな調子じゃ、すぐに異変を悟られちまう。それに寂しげにしてるぞ、あんたに会いたがってる」
もう目的は果たしたんだ。
さっさと選択をして”終わらせて”くれ。
”期限”が近づいている――無意識が口にする。その言葉に暫くの沈黙を置いたゼクトは、唸って、息を吐いた。
ノイズが走る。
胸に、一筋の痛みを覚えた。
それは心に走る小さな軋み。その亀裂は、あと数回か、あるいは数百回同じ痛みを負うことで大きくなるだろう。
『わたしは機関の権限でPMCを動かした――ああ、そうだ。世界抑圧機関だ。わたしが居なくとも、そもそも重力子は発見されているし、その研究はわたしの因果律によって時空操作にもっとも近い位置に昇華していた』
「……機関は、あんたが創設者じゃなかったのか」
『全ての責任を負うことを条件に、全ての情報を偽装させてもらった。言わば現場監督で、影武者のような存在だ。時空操作の能力は、辛うじて認められたからな』
「技術はどこまで?」
『時間遡行は完成寸前だ。もっとも、時間遡行で至った時空は久しぶりだから、少しばかり時間がかかるがな』
呑気な話だと衛士は思った。
その男は既に世界の裏に回った。そして容易に、世界を動かせる地位に至った。
その話を聞きながらも、衛士はもう嘆息を零すしか無い。
この男は衛士の不調の原因を理解し、やがて己が自由になることを悟っているのだろう。この世界は再び、あの終わらぬ輪廻の循環を得る。
己が死ぬのは、別段どうでもいい話しだった。
生きたいと思ったこともあったが、一昨日の夕食のメニューと一緒に死への恐怖も、どこかへ忘れてしまったらしい。
「……てめえは、戻ったら一発殴らせろ」
だが、この男に人としての感情までが失われたのかと言えば、断じて否である。
だから衛士は怒るし、その怒りも他者の事を想ったがためである。
隣の部屋で寝息を立てる少女――米国に居る男が、数百の繰り返しの中で求めた存在だ。
彼女を蔑ろにしてまですることがあるだろうか。
大切な女だ。この前だって、恐ろしい強姦魔に襲われかけたのだ。
だというのに、これ以上何を望む。
ふざけるな、冗談じゃない。
これ以上ガキみたいなわがままをするなら、地の果てまで追い立てて大口径弾をぶち込んでやる――。
虚ろな眼で窓の外を見上げる。
雲に隠れた月は、曖昧な月光で辺りを照らす。夜空に散らばる星に関心はなく、吹けば飛び散りそうな儚さだけがあった。
あぐらをかいて、扉を背にして。
それが錆びた音を立てて僅かに開いて、衛士は糞まみれの汚い言葉を飲み込んで、仕方なしに言葉を選んだ。
「まあいい、あんたはいつになったら戻ってくるんだ」
『貴様はわたしに、朽ちろと言ったな。貴様はあの時、五年をやると言ったな。それが総ての間違いだったのだよ。貴様がわたしを拘束できたのはあの瞬間でしか無く、逆に朽ちるのは己だとわかっていながらも貴様はそれを見逃した。そいつが、どうしようもない”荒くれ”のお前の、どうしようもない”甘さ”だというのに』
「喧嘩を売りてえなら他に行け。このまま話し続けたいなら、オレが握力自慢し始める前に用件だけ話せ」
怒りと暴力を嘆息に変換して吐き出して、だが粗暴な言葉で応戦する。
せめて彼女が不安にならないように怒鳴らない展開になれば良いが……電話と違ってスピーカーから響く言葉に紳士的対応を望みながら、耳を傾ける。
『もう戻りはせんよ。今回のクーデターを防いだとしても、次がある。それを防いでも、また次が……イタチごっこだ。そこまで付き合いきれん』
国内の政変を防ごうとのたまったのは、スピーカー越しに動くその口だった。
衛士は最初、その男の言っている意味が理解できないながらも、こめかみに青筋が浮かんだし、その凄まじい激昂に溢れる鬼火を、押さえつけようともしなかった。
されど、この男と付き合って早三年。さらに妙なところで似通ったところもある。
彼がああにのたまった理由を、衛士は一拍置いて叫ぶその間に、理解してしまった。
「オレをここに、釘付けにするためにか」
クーデターを防ぐために必要な人材はこの青年である。
彼もそれを理解し、話に乗ってしまったからこそ放浪が出来なかった。
そしてまた、アンを保護する役目もあるから動けず――だからこそ、ゼクトの身は自由になった。
衛士に邪魔をされず、目的の少女も絶対的な信頼のもとで保護され、当初通りの作戦を実行できたわけだ。
言外の解説をゼクトは理解し、唸るような肯定の後。
『話は後だ。貴様とでは、顔を合わせん限りすんなりと話ができそうにもないからな』
面と向かっても、どちらかが食って掛かることによって話が一直線に進むことがないのだ。
タイミングを測って発言する通話ならばなおさら、話は進まない。
「来いってか、てめえが来い」
『一ヶ月後に迎えを寄越す。それまでに”身辺整理”を整えておけ』
「てめえ、話を――」
『ではな。くれぐれも厄介事を起こすなよ』
ぷつり、と。それはまるで無情に途切れて声が途絶えた。
衛士は、また言葉の届かぬ相手に怒鳴りつけようと想ったが、背後でまた、ゆっくりと蝶番が鳴らす音が間延びしたように続くのを聞いて、マイクロフォンを置いた。
振り返り、寝間着姿の少女を見上げる。
無防備な、白いワンピース一枚の彼女は、さらに胸に枕を不安げに抱いていた。
「ゼクトさん……?」
「ああ、しんぺ――」
「もう戻ってこないって、本当?」
「らしいな。んで、だから、仕事を――」
「もう逢えないの? どうして?」
「会いに行くんだよ、奴は腰が重いから。重すぎて社長椅子とケツが癒着しちまってんだ。油かカミソリを土産に持ってきゃ上等だろ」
「会いに……って、どこへ?」
「アメリカだ。一ヶ月後に迎えが来るらしいから、その間に身辺整理を、だってさ」
遮られる前に一息に説明してやれば、ハの字に眉尻を下げ同情したくなるほどの淋しげな表情は、ゆっくりと綻びて笑みに変わる。
まるで子供のようだ。だが、これくらい無邪気さのある娘のほうが、可愛げがある。
「もう、ずっと一緒ってこと?」
「まあ、少なくとも奴とはな」
「……エイジは? どこかへ行くの、ゼクトさんみたいに」
また、表情が歪む。心配するなと頭を撫でてやりたいところだが、彼女と己との間に、そんな親しみがあっていいものでもない。
いずれ去る者だ。
必要以上の情があれば、衛士はともかく、彼女が辛いだろう。
「あんまり、オレに気を許すな。欲求不満で何するかわかんねえぞ」
惹かれていれば、ならばこちらから引き剥がせば良い。
寸前まで最高の思い出だったとしても、最後の最後で最低にしてしまえば万事解決する。ようは過程ではなく、結果なのだ。
そうすれば結果で判断されて、過程さえも昇華されることはない。
「エイジは、そんな人じゃないよ。私知ってるから」
「うっせえ、黙れ。部屋に戻って寝ろ、明日も仕事だろう。ヒモにかまってたって、堅結びしかできねえぞ」
「……どういう事?」
「――深い意味は無い、なんか”それっぽい”事言っただけだって」
「それっぽいって何?」
「ああうっせえよ、もうなんでもないから。ちょっとかっこいいかなって思っただけだから!」
白状するように叫んで、白旗変わりに両手を上げる。
衛士はなんだか怠くなって――胸の中に広がる妙な暖かさを覚えながら、手を振って彼女を追い出した。
アンは微笑みを湛えて扉まで歩くと、そこで一度振り向いて、
「じゃあね、おやすみ」
「ああ」
錆びた音、扉の閉まるその音と共に、彼女は部屋を後にした。
五月十日。
自身で指定した日時も適当に、その日に輸送ヘリが降り立った。
そそくさと乗り込んだ衛士とアンは、内壁の椅子を下ろしてシートベルトを装着する。
ゆっくりと地面から引き剥がされていく感覚を覚えながら、窓の外の景色が小さくなるのを見送り――。
「幾つかの補給地点を経由するので、一週間ほどかかります」
「あいよ」
黄土色の制服に身を包む屈強な男が、丁寧に頭を下げた。
五月二十日。
「悪天候のため、あと五日ほどかかります」
「はい」
補給地点で待機する衛士らに告げる。返事をしたのは、横になる衛士の隣で座るアンだった。
五月三十日。
「まさか賊に襲われるとは思いませんでしたね。もう、明日には到着します」
補給地点から少し離れた位置でぶっ放された地対空ミサイルを華麗によけた後、適切な場所で着陸した一行は、二日ほどかけて盗賊を殲滅。
安全を期して迂回ルートを選択した彼らがその基地に到着したのは、結局出発してから二十日が経過してからだった。
五月三一日。
「つかれたぁ~、エイジは大丈夫?」
「正直、ちょっと辛い」
船酔いならぬヘリ酔いした衛士の気分は決して酔いものではなかったが。
「気分はどうだ」
悠然と出迎えた懐かしい顔を見た時には、怒りで表情が凍結する。
良くもその顔を見せられたもんだな、とか。
移動に不備がありすぎだろうが、とか。
頭の中で過ぎる無数の言葉を飲み込んで、衛士は笑顔のまま手を差し伸べた。
「お陰様で、良好だ」
「そいつは良かった。君は?」
握手に応じず踵を返すゼクトに、衛士は舌を鳴らしながらも、久方ぶりゆえに目を輝かせる彼女との応酬を眺める。
アンは嬉しげに何度も頷いて手を握り、そうしてから、涙目になった顔を両手で覆った。
「色男だな」
「貴様に言われたくはない……早速案内しようと思ったが、まずは部屋を用意しよう」
六月一日
一日ばかりの休養を置いて、呼び出されたのは衛士だけだった。
打ち放しコンクリートしか見えぬ殺風景な通路。ダクトを巨大化させたかのような一本道の道中に、扉や人の影は見えなかった。
その突き当たりには、その通路一杯に広がる大きな鉄扉が押し込められていた。枠に嵌めた蓋のような鉄扉を押し開ければ、そいつは錆びた音を立ててその向こう側へと衛士を誘う。
一陣の風が通路へと吹き抜ける。
生ぬるい空気が体を包み、そうして、外へ出たのかと錯覚するような広い空間が彼を出迎えた。
――見上げれば首が痛くなるような高い天井。
隅から隅まで走れば息が切れるような広さ。隅には棺桶のような何かが鎮座している。
その中央に、さながら心柱が如く聳える黒い円筒。その手前に、箱型の操作パネルが鎮座していた。
経験が、不意に既知の違和感を衛士に蘇らせる。
その空間は、この世界で唯一衛士が知る場所だった。
重力子を操作して、ゼクト・プライムの力を利用して時間遡行を可能にする装置。それが無防備に置かれる場所は、かつて日本支部で見たものと同じだった。
アメリカ、ドイツの支部でも装置はあったらしいからそう不思議なことでもないが……。
されど、衛士の情動を動かすには十分な演出であり、彼の瞳が勝手に潤むのは、ゼクトの予想範囲内だった。
「どうした、入るなり早々泣きべそをかいて。そこまでわたしに気を許したのか?」
見慣れた制服姿で腕を組む男は、操作パネルによりかかって鼻を鳴らす。
衛士は慌てたように手の甲で涙を拭ってから、鼻をすすって咳払いをする。一度に忙しいようだったが、そうしてまでも体裁が悪いままなのだから、どうしようもない。
「うるせえ」
ともあれ、何が目的かはわからないが、こんなものを見せるためにわざわざタイの居住を引き払わせたのではないのだろう。
すっかり、まるで何事もなかったような乾いた瞳で睨めば、ゼクトは白々しく息を吐いて睨み返した。
「ところで、一つ聞きたいことがあるんだが……」
「なんだよ今更。そんな気の利いた訊き方するなんて、どんな大問題を隠してんだ?」
そんな、衛士の挑発じみた軽口を受け流すまでもなく切り捨て。
衛士の芯に叩きつけられるような衝撃は、その男の口が発していた。
「貴様の姉の名は、なんといったかな?」
「――ッ!?」
脳裏によぎる無数の記憶。
命を脅かす数多の経験。
悪夢。恐怖。そういった曖昧な概念だけが、記憶にもやをかけて過ぎていく。
姉の名前……ゼクトは言ったが、衛士は正直な所、姉の存在など”身に覚えのない”事だった。
だから本当に、目の前の男が何を目的にそう告げるのかがわからず、怖くて、不安で、故に震える指先を、そんな感情と共に腿に押し付ける。
答えを口にして、何かが起こるのが嫌で沈黙した。
未知の恐怖に、押しつぶされようとする中で、静寂を破ったのはやはりゼクトしか居ない。
「ならば家族の名は? 貴様には、確実に居た筈だ。まさかその歳になって、キャベツ畑やコウノトリを信じているわけではないだろう?」
ゼクト・プライムはおそらく本当に、その問を投げている。裏の意味はなく、だがその向こう側に真の意図があるのは確かだったが――本当に分からない事を問われても、どう足掻いても彼の期待に応えることは出来ない。
なぜだか息が詰まり、額からどっと溢れる汗をそのままに、衛士は答えられずに居た。
名前など知らない。意識したこともない。
確かにいたのだろう。だが……記憶にないのだ。
本当に居たのか。ゼクトは衛士を拾ったといった。その後、何某かに預けたのだと告げたような覚えはあるが――偽証ではないのか。嘘、なのではないか。
知ったことか。
知らぬのだから、仕方がないではないか。
「なるほど、よくわかった。まさかここまで”似てくる”とは思いもよらなかったな」
「なんだよ、何が言いたいんだ、てめえは!」
わけもわからぬ内に話が進み、そして衛士が理解する必要もなさそうな現状。
まるで実験体である己が、そうとも知らずに研究者に具合を訊かれたかのような――手のひらで踊らされているような不快感。
催す怒り。
だが、握った拳は、力を入れたその先から抜けていった。
「もういい、戻って休め。まだ一年ほど、時間はあるのだから好きにさせろ」
「はあ? まだ三年目の六月だ。実質、二年近いじゃねえか」
五月で一周するこの期限は、つまりまだ一年と十一ヶ月を残すばかりである。
吠えればいなされ、殴ろうと思えば力が抜ける。
まるでタチの悪い夢でも視ているようだが、この息苦しさは、怒りは、まことに忌々しいことに、現実そのものだった。
「ワケはその時話そう」
「その時って――」
言葉を遮る要因は、男が懐から抜いた拳銃の銃口が、決して冗談では済まぬ方向へと向いたからだった。
躊躇なく銃爪が絞られる。
銃口から飛来する弾丸は、容易く衛士の胸元に食らいついて――。
「くッ――矢、だと……!」
衣服を貫く注射器状のそれは、胸に深々と突き刺さって内容物の液体を注入する。
それと共に、意識は突如として揺らぎ、視界が歪み、全ての感情、思考から青年は解放された。
体中の力が抜けて、衛士はその場に膝から崩れ落ちる。
誰も抱きとめる者は居らず、痛々しい音を立てて衛士は床に叩きつけられるのを、ゼクトは歪んだ表情で眺めていた。
ああ、厄介だ――ここまで似ているとは。
胸中で呟く言葉をそのままにしたゼクトは、衛士の首根っこを掴んで引きずった。
だが似ているということは、つまりこの己が直接的な対処法を知っているということだ。
しかし、間に合うかどうかは定かではない。
何よりも……。
「ッたく、重いな……」
蓋を開け、その棺桶のような入れ物に衛士を投げ込む。すると生体反応に呼応するように起動した箱の内部は、淡い蒼色の輝きが灯り出した。
大きく吐き出す息と共に蓋を載せ、押し込んで密封する。
これで時衛士の肉体は暫くの間、その活動を停止する事になる。
記憶力、演算能力、処理能力の低下、及びアドレナリンの過剰分泌は、これで抑えられる筈だ。
ゼクト・プライムは恩知らずの男ではない。
だから最後の大仕事は、その恩人の意に反して機関をたちあげてまでも、成し遂げようと思っていた。
だが生涯きっての難関は――始末の悪いことに、この最後の仕事であった。
時衛士の救済。
その曖昧で漠然としている計画は、一年目から構想されていたものだった。