二年目経過
「エイジさんは、日本のご出身なんですか?」
彼女は不敵にそう訊いた。
特に隠すつもりもなく、旅行なんてそう珍しいものでもない時代だ。貿易関係でもあるし、説明するならそこいらの御曹司が知り合いに居るだの何だのと行っておけばいいだろう。
衛士は当然のように虚言を頭の中で構築してから、自然に首肯した。
「そうだけど、突然どうした?」
彼女と出会って早一年。
青年の精神構造をすっかり変えてしまったあの半年よりも長い期間だったが、彼らの中で芽生えたものと言えば、絶対的な信頼関係以外は無いだろう。
なんにしても衛士はアンに対して興味や関心はあまり濃厚なものではなく、アンにしても、ゼクトの友人で、手駒という印象でしか無い。もっとも認識するのは、そこに”友情”やら”戦友”などという衣がかぶさっている状態なのだが。
「いえ、ただ私と歳があまり変わらないみたいだから、何をしてたのかなって……気になりまして」
彼女は十八。衛士も同様だが、実質的には十九――五分間の時間遡行の分を考えれば、ちょうどもう一度ばかり誕生日に届きそうな日数が稼げるわけだ。
「まあ、ヤツの勧めで”そういう所”に居たからな……」
その歳にしては随分と目に余る戦闘能力と冷徹さは、少年兵からの経験を伺わせる。だが、だというのに妙なところで詰めが甘かったり、無駄が多いところを見れば即席を連想させた。
もっともアンにはその違いはわからないし、その言い分でなるほどと理解することも出来る。
「……この国は、どうなるんでしょうか」
「なるようになるだろうな」
そういう所、から争いごとを思い浮かべただろうアンが、不安げに口にする。
なるようになるとは言ったが――現状、何も起こっていないのが事実だ。
結局衛士が直接手を下したのは夏のあの時だけであり、そうして彼らも政治も、目立った動きは未だ無い。
ゼクトはまたどこかへ出ていってしまったし――陸軍に喧嘩を売ることもできないから、この展開はむしろ望むべく望まれたものなのかもしれない。
そう、改めて考えて安堵した五月七日。
それが、最後の日常だった。
五月八日。
誰かが知り得るはずもない無線の周波数に声が乗ってがなりたてたのは、日を跨いで三時間ほどが経過した時だった。
酷いノイズの音にすっかり頭が冴えてしまった衛士は、気怠い身体を起こしてマイクを取る。同時にアンテナを伸ばすと、スピーカーから響く声はいささかまともになってきた。
「――誰だ、こんな時間に。大事な一言目を間違えれば、そいつを最後の言葉にしてやんぞ」
『夜分遅くに申し訳ない』
適切な言葉を頭に、
『コードネーム”神の眼”、話し通りだ、助力を貰いたい』
不躾な誘い文句は、恐らく落ちぶれた娼婦さえも誘えぬほど乱雑なものだった。
「話し通りだァ? てめーの頭ン中で完結してるのを口にしてみろ、話はそれからだ」
『話が……通っていないのか? あんたの保護者から、話を持ちかけられたんだが』
「保護者?」
『ゼクトと名乗る男だ。我々は政府に雇われたPMCで、極右派を止めるために作戦行動をとっている』
「勝手にやってろ、それがあんたらの仕事だろうが。言っとくが、オレは無職だ。んなアブねえ稼業にゃ首突っ込んでねーんだよ」
なんにしても、信頼出来る後援で無い限り、ヘタに動きたくはない。
何よりも、いい加減ゼクトの言いなりで動くのも嫌になってきたのだ。これまでは確かに、機関で課せられた仕事を仕上げてきたが、やはり自分で考えて動くほうが楽である。
今回のように、もとの基盤が出来上がっていて、明確な作戦がたてられている上で動くのは、あまりにも機転が利かずにやりづらい――と、彼はその胸中で苦言を呈していた。
口に出せば何を言われるか、わかったものではない。
『頼む。礼は十分にさせてもらうつもりだ』
「――ああ、わかってる。最初から受けるつもりだよ、初回だからな」
『……どういう事だ?』
「ガキみてえに騒いでみたかっただけだ。もう問題ない。んで、何時にどこへ、何を持ってきゃいい? 白旗は、自決用の手榴弾は必要か――」
五月十日。
橋のように細い陸地は、隠れ家から半日ほどジープを走らせた場所だった。
顔合わせは、ひとまずこの僻地で。
唯一保有する火器である軽機関銃を担いで、衛士は大きく息を吐いた。
「あんた一人か?」
海沿いの荒野。遠目に見える波打ち際には、ゴム製のボートがさみしげに打ち上げられていた。
「ああ。要らない人員を動かすつもりはない」
「オレがあんたらを殺すつもりだったら?」
この男一人では、さすがに抵抗しようもない。むざむざ、死にに来ているようなものだ――そういった意味で告げたのだが、彼はどうやら受け取りどころを違えたらしい。
「損耗はこのわたしただ一人。得られた情報は、新たな敵の発見……上々じゃないか」
碧眼で鋭く衛士を睨んでから、愛らしくウインクをしてみせた。
その長身痩躯には似つかわしくない優しい顔つきで、声は見た目の若さに反していささか低い。
腰に固定したM14には安全装置がかかったままだし、それ以外の武装は、腹から股ぐらへ、股間を保護するように伸びるナイフ以外には無い。一見、衛士でさえ間抜けと言いたくなるが、どうやらそうでもなさそうだ。
つまり、彼には”ここで死ぬわけがない”という絶対的な確信があるらしい。
無論そこに信頼関係というものが繋がるわけではなく、曰く――誰であろうと、己を殺せるはずがない、と。
「まあいい、まずオレが聞きたいことはなぜあんたら白人がここに居るか、だ」
色を塗り忘れたような白い肌には、この地域の日差しはいささか厳しいだろう。
「わたしは向こうから渡ってきただけだ」
「ベトナムに行かなくていいのか?」
現在は、お隣ベトナムで戦争が開始したばかりの時代である。
もっとも、ベトナム戦争など映画での知識しかない衛士には、にわかに信じがたい、現実感のない話だが。
「もっと強い部隊が行っている。それに――この騒ぎに乗じて、軍事クーデターを起こそうと連中は躍起になっているのを阻止せねばならんしな」
タイの歴史に疎い衛士にとって、それがとんでもない大事なのか、それともちょっと厄介な出来事なのかの判別がつかない。
だが彼らが政府に雇われていると言った以上、結局不満が募っているのは軍部なのだろうし、それを利用するのはやはり例の政党なのだろう。
しかしタイ陸軍とてベトナム戦争に参加しているはずである。加えて、ラオスでもドンパチをかましている真っ最中のはずだった。
「つーことは、攻撃対象はどこだ?」
「南部――第四軍管区の基地に、目標が来訪する」
「へえ」
「今回の仕事は、暗殺だ。全ては来月――その時に終える」
「そうかい、ならちなみに聞くが……どうやって軍を振り切るつもりだ? 基地ってこたァつまり、ヘリはあるし戦車はあるし、兵器はあるし人員も十分だ。代わってこっちは、頼りねェPMCに得体のしれねえガキが一匹――正気じゃねえだろ、捨て駒なのは明らかだ。正直、オレは……」
「ハーガイム――」
「……ッ、な、ん……なんだって、そいつが、どうした?」
突如として言葉を遮り、食い気味に吐き出す人名。
ああそういえば、どうして、何故気が付かなかった……頭の中でぐちゃぐちゃになる思考を統率しながら、衛士はわかりやすい狼狽をしてみせた。思わず後退りして、なぜだか軽機関銃に手を掛ける。
その態度の変容にむしろ驚いたのは、その巨身の方だった。
なぜただ”名乗っただけ”なのに、ここまで驚かれるのか。
ともあれ訊かれたからには、理由とフルネームを告げるしかない。
「――ゼクトという男から、こうすれば協力を仰げると言われたものでな。わたしの名はハーガイム・ワグナーだ」
なるほど、そういう事かと合致がいった。
つまり衛士はどうしてもこの作戦に乗らねばならず、また暗殺という性質上、どうしてもこれは成功させなければならない。
今ようやくわかったことだが――どうやら本当に必要な時以外は、本当に呼ばれないらしい。
そこで一つ、衛士は納得がいかない点があった。
ハーガイムは未来での師だ。だが、その時聞いていた年齢は六○歳。
となれば、現時点で十となるのだが。
「歳は?」
「十九だが……」
あの爺、いい歳して妙なサバを呼んでいやがったのか。
舌を鳴らしながらも――とろけたように緩むその表情を見て後退りするのは、今度はハーガイムの方だった。
思わず尻に力を入れる。あの”ただならぬ雰囲気の男”が紹介してきた青年である。どんな趣味があるか、わかったものではない。
「あんた、もしかして海兵隊に居たんじゃないのか?」
ハーガイムは、今度こそ本気で驚いた。
なぜ知っているのか――この男が知る由もない、接点すら無い事実を、なぜ知ることが出来たのか。
腰の銃を意識して、だがなぜだか、ハーガイムは目の前の男に驚異こそ抱けども脅威を抱くことはできなかった。
妙な安心感があるというのか……敵意を、感じないからか。
その真剣な眼差しを受けて、ハーガイムは頷いた。
「わたしの班は、上層部からの命令でここに来た。PMCというのは嘘っぱちだ。そしてどうやら、その上層部も、どこかからの命令でそう指示をしたらしい」
「そこまでする理由に、心当たりは?」
「ないに決まっている。わたしも、そして母国も」
理解できない命令は、こんな僻地へと彼らを追いやった。何の恨みがあるのかと怒りするが、これが一つの仕事ならば仕方がないと納得するしかない。
そのやりとりで、衛士は理解した。
それほどの権力がある存在。そして、ゼクトが度々姿を消す、その理由を――。
「……まあいい、わかった。手伝うよ、その仕事」
作戦開始は約一ヶ月後。
場所は、そこから更に南に降りた軍部基地。
命運は、そこに託された。
六月十六日。
『一応言っておくが』
背後で通信キーを叩く音がする。少し離れた位置で、パラボラアンテナを構える男がいる。
衛星通信の為の全てを他者に託した衛士は、ヘッドセットだけを着けて男の声を聞いていた。
『貴様やわたしが居るこの世界は、貴様が世界史の授業で習った通りの出来事が起こる”新しい未来”だ。貴様が居たあの世界の過去ではなく、貴様がこの世界に来た時点から貴様が作る未来だ』
だから全てが歴史通りに起こるというわけではない。
だが、衛士らがこの世界に来た以前は、全てが知っている通りのものになっている。
ややこしいこと極まりないが――”貴様が作る未来”というのでよくわかった。つまりは今までと何かが変わったことはない。ただ文化が五○年ほど退行、見知った人間がことごとく消え去っただけなのだ。
『貴様が期待することは何もない。もしかしたら、なんて希望は捨て置け』
「オレの因果律が――」
『阿呆が。だからどうした、貴様が背負う因果律は単一”死”のみ。つまりは貴様は他者を死という運命に巻き込むというわけだな? そうだな? そうしたいのだな? 阿呆が、どちらにせよ記憶が回想する事は決してないし、殊更ハーガイムが前世のような強力さを発揮することもない。彼は新兵で、未だ発展途上なのだ』
「……わかってる。言ってみただけだ」
言い返す余地もなく希望を踏みにじられて、だがせめて心ばかりはくじけぬように吐き出した。
衛士はそうしてから立ち上がり、インカムを外してアタッシュケースを地面に置く男の傍らに屈むと、操作を横割りして通話を切断した。
『トキ、時間だ』
昼半ば。空から燦々と降り注ぐ太陽光を一身に浴びて、衛士は構える狙撃銃の照準器を覗きこんだ。
地面に横たわり、白く褪せた黄色のヘルメットを被る。さらに背景と同色の迷彩服に身を包んだ衛士は、さらに顔にペイントを、身体に砂を掛けてソレを待っていた。
「熱い、ヤツ殺す前に熱でオレが死んじまう」
遠くから、ブロロロと呑気なエンジン音をふかして迫ってくる一台の――装甲車。
なんてこった、これじゃあまともな狙撃銃じゃ通用しないし、足止めにタイヤをぶち抜こうにも、奴さんは履帯だ。
ああどうしよう、これじゃあ無理だ。
小声で喚きながら、だが口角ばかりはつり上がっていた。
位置を隠す必要もなく、そしてたった一撃で余すこと無い最大の攻撃力をぶち込む作戦に、真っ当な狙撃銃を選ぶわけがない。
時衛士は大味の攻撃を望む。
地上で幾億の弾丸を用いて幾千の兵隊を殺すなら、上空から核爆弾でも落としたいと望む男だった。
そして一点豪華主義、あるいは大艦巨砲主義。
青年にとって不測の事態は、大口径ライフルでさえも貫通できない分厚い装甲が用意された時だけである。
狙うのはスモークが貼られた窓ではなく、一見戦車なのか装甲車なのか判別のつかない車体前部だった。
見てくれはトラックに装甲をつけた、でっぷりとした衛士好みの外見。分厚く、重装備感が堂々と出ているが、武器を装備していない。
距離はおよそ五○○メートル。風は、無風に近い。
銃身に載せられる白い布が、吐息にだけささやかに揺れる。
鼓動が高鳴る。
脈拍が乱れるような錯覚。
汗が額から流れて頬を伝い、あるいはまつげに落ちて目に入る。
大きく口を開けた基地の門目掛けて走る装甲車。距離はおよそ三○○。衛士はその中間地点に銃口を置き――頭の中に直接流れてくる”五分後までの未来”の情報の中で、この弾丸が確実に装甲車に直撃する記憶を、幾度も繰り返して確認した。
一年間も封じていた狙撃技術が、この時を以て、全身への血流と共に体中に蘇った。
風が頬を撫でる感触を鋭敏に感じ取る。
僅かに修正。一ミリ以下の誤差をゼロにする。
武者震いを力任せに押さえつけ、肩に押し付ける銃床をよりきつく身につけた。
装甲車が目標地点に到達まで――、十秒。
銃爪に指をかける。
九、八――時間が、僅か一秒がひどく長く感じる。感覚の暴走はなく、加速は現在停止している。
七、六――三、ニ。
一。
零。
カウントダウン、タイムアップと同時に銃爪を引き絞った。スマートに、僅か十数キロばかりの重さを人差し指でのし掛けてやった。
爆発。
破裂音が小気味よく周囲数キロに及ぶ地点にまで響き渡り、屈強なボクサーの右ストレートよりもきつい衝撃が右肩に直撃した。
瞬いたマズルフラッシュが一瞬だけ視界を隠し。
五○口径の徹甲弾が、コンマ以下数秒で、装甲車のエンジンを食い破っていた。
――再照準。レバーを引き、弾丸を装填。
悪態すら聞こえること無く、車は一度、爆発した。
装甲が引き剥がされて宙空を舞い、真紅を超えて白熱した火焔が破裂する風船のように上空へと舞い上がる。
太陽さえも凌駕する凄まじい輝きが、地上から放たれた。
『上等だ、あれでは即死――』
イヤフォンから聞こえる誉れを無視して、今度はガソリンタンクを撃ちぬいた。正確な位置がわからないため、車体裏側の燃料補助タンクを撃破すると、そこは再び凄まじい衝撃に装甲車を勢い良く弾ませて、一回転させてみせた。
再度起こる爆発。
これで、仮に対衝撃や耐熱に備えていても、死亡は確実だ。
衛士は疲れきったように息を吐いてから、無警戒故に行動の遅い陸軍の様子を眺めながら立ち上がる。
「思ったよりも、早くカタがついたな……」
残り三年はどうしようか。
考えながら、横倒しになっているバイクを起こして、挿しっぱなしのキーをひねった。
エンジンが小気味よく振動をもたらし、衛士はライフルを背負ったまま、その二輪へと跨った。
――震えが止まらぬ諸手を意識しながら、衛士は風を感じる。過ぎ行く、白熱した炎のような色の枯れた景色を横目に見やる。
一年前、この世界に来た。
その前は、とんでもない戦いに挑んでいた。
それは果たして――”何のため”だったか。
果たして何が目的で”五年”という期限を設けたかわからぬ。が、明確に、鮮明に、いつでもその残り時間だけは、頭の隅でチラついた。
――残り、三年半。
それが何を意味するかを、青年は亡失しつつあった。