最終決戦:終焉
その華奢な肢体のどこにその豪力が備えられているのか疑問しか湧かない――胸を穿つ強打が炸裂し、胸骨を粉砕した。衝撃が肉体を貫通し、コンクリートの壁に空間の揺らぎが伝播する。
口腔から鮮血が噴出する。
心臓がにわかに動きを停止した。
だが――死ねぬ。純粋に、青年の肉体は死ぬ因果を得ていない。
痛みを麻痺し、激痛をどこかに置き去りにした衛士は鉛弾を仕込んだ手を固く握り、骨が砕けまともに動かぬ肩を回す。
本来は戦えぬどころか動くこともままならぬ致命傷だ。
だが動けてしまう。
戦えてしまうのだから、戦うしか無いのだろう。
鮮やかな紅にその身を怪我しながらも、なんら痛痒も覚えた様子もない青年の相貌は正に狂戦士。
対する老いた風貌の男は、動く骸。
そこに真っ当な人間は存在せず、ただ一撃が肉体ごと壁の一枚を屠っていく大音響の中で、されど致命傷を負いながらも掠り傷とすら認識しないニ者の戦いは故に、交わるごとに拍車がかかる。
この戦闘は言わば意地のぶつけあいだ。
せっかくの命だ、かくあれかしと強いる親心と――せっかくの命だ、好きにやらせろと反逆する子供心。彼らの関係を正確に理解する者が居たならば、単純化してそう認識するかもしれない。
だが彼らとてその認識には至らぬのだから、彼らがその深い所では親子なのではないかと、誰かが疑問を巡らせる事は夢のまた夢なのだろう。
「死にたいのだろう――」
渾身を込めた拳が虚空を穿つ。甲高い肉を叩く音を響かせて、その収まる所は青年の手のひらだった。
側頭部を狙い撃った拳は、そこで待ち構えていた手によって受け止められたのだ。そして握り、潰し、軋みあげる拳をそのまま対角線へと引き下ろす。
姿勢が崩れ、衛士の膝が男の胸を穿った。
衝撃が奔流となって胸部を貫く。噛み締めた歯の隙から温い血が溢れだし、劣化する細胞がダメージを負った先から死滅していく。
青年にもたれかかるような体勢のまま、だが男は言葉を紡ぐ。
「貴様は、死にたいのだろうッ!」
「トチ狂った事ほざいてんじゃねえ――ッ!」
ようやく三桁に至る拳の応酬は、だが未だ終える様子を見せない。
「てめえは――」
言って、顔面に拳が食らいつく。
引き剥がされる男の鉄拳から粘っこい血が尾を引き、半ばから砕けた歯牙が、口の中から零れ落ちた。
言っても無駄なのだ。
意思疎通はもはや、肉体と力と、加速した時の中でしか、ぶつかり合うことでしか交わされない。
言葉は飽きるほどに交差したのだ。それを忘れていたように青年は口にした言葉を飲み込み、歯牙の砂粒と共に口の中に溜まった血を吐き出した。
冷えきったような蒼い鬼火が男を捉える。大きく翻るように一歩分だけ退いたゼクトを追い込むように、諸手を刃鎌のように広げた青年が特攻した。
鬼火が三度、爆炎が如く轟き。
三度の加速は、安全運転の中で加速を試みたかのようだった。
段階で分けられるがゆえに、タイミングが取りにくい。
瞬間的に最大速度を手にした時は、既に男との距離を零にし――無防備な顔面に、華奢な腕から放たれる最大級の一撃が炸裂した。
打撃が思考を蹂躙する。
視覚に、聴覚に、ノイズが走った。
意識が吹っ飛び――肉体は、くの字にへし折れたまま虚空を駆った。二桁を超える拳撃を喰らった壁がけたたましい悲鳴をあげて、幾重にもなる分厚い鋼鉄の板がひしゃげ、穴を空けた。
爆ぜたような痕跡。
隔たれた筈の空間は変則的な手段で道を切り開き――その場に居る全ての者を置き去りにして、男は青年を追って駆けた。
閉鎖されていた隣の空間は、だからといって何かがあるというわけではない。
強いて言えば、なにもないのだ。
故に開放する理由もなく、だからこそその空間は閉じられていた。
「刹那的な渇望に、貴様は全てを託すつもりか」
幾度も、異なった言葉で問いかけた同じ意味の台詞に、時衛士は唸り声を上げた。
「永遠を生きる時の先駆者サマは、さすが言うことが違うな」
「閃光のたかが一筋としかなり得ぬ貴様に教えてやることと言えば、ここの真下に装置がある事だけだ」
つまる所、この青年にはここに来て二つの選択肢が与えられることになる。
一つはこのままゼクト・プライムに挑み続けるか。
そこから派生するのは二つの結果。
かくして復讐を果たすか、志半ばで骸となるか。
また一つは、厚さ五○センチのコンクリートをぶちぬいてさらなる地下空間へと舞台を移行し、どこからか武器を調達して堅固な装置を破壊するか。
だがその後は、結局追いついたゼクトとの戦闘に移行する。
「終わらねえから、てめえはわからねえだろう。最後に噛み締めて大切に思った一瞬は、いつだ?」
「後悔した一瞬ならば、偏屈な貴様を目の当たりにした今だ」
「てめえは何を失った」
「今正に失おうとしている所だが」
壁に貼り付いた背中を引き剥がす。
亀裂も何もない、綺麗なコンクリートに鮮血が人の影を描いて残す。
殺風景な、冷気が滞る静寂。
殺気だけが今、地の底から湧き出るように空気を張り詰めさせていた。
「何を探している」
「忘れたさ。とうの昔のことだ。わたし自身、何を探しているかわからないが――ソレが見つかれば、ああこれだったのかと、わたしにはわかる。それを探しているのだよ」
「ふざけやがって」
「貴様の目にはそう映るだろうが、わたしは大真面目だよ。冗談半分、興味本位で数百の終焉を見たいとは思わない」
「……それは、大切なヒトなんじゃないのか?」
「さて、ヒトだったかも定かではないが」
「てめえが言ったんじゃねえか。てめえの因果律に惹かれたのがオレだとしたら、この左目がてめえと同じだと言うなら――目的が、同じである事もまた因果っつう事なんじゃねえのかよ」
「知ったような口利きだが、どうやら多量出血で頭が冷えてきたようだな」
握られたままの拳に力を込める。
既に手は、ソレ以外の形を作ることを拒んでいた。
「不平等だろうが。教えろよ、死ぬ前に」
「確かに、死者が耳を傾けるとは、さしものわたしも思わないが――」
「なにいってんだ、てめえは」
苦笑交じりに、肩をすくめる青年の瞳は蒼く燃える。
冷徹な色。されど青年は、滾る血よりもさらに燃え盛っていた。
「てめえが死ぬんだろうが」
「遠慮するな。自決する前に殺してやる。それ以前に考えを改めるならば、待ってやってもいいが」
「だったら教えろよ」
口角は、いやらしく吊り上がる。
その表情は十七歳の子供には決して見えず、悪辣な詐欺師に最も近かった。
「オレが勝ったらな」
「貴様が勝てればな」
縦横無尽の拳は、一瞬の内に十を超える数を青年の総身に叩き込んでいた。
ただ純粋に、速い――。
一秒を数十、数百に分割する青年でさえも、それを肉眼で捉えることが出来なかった。
ただ前へ進み。
ただ前を睨むが故に得た速度。
全てにおいて、ゼクト・プライムを比べるならば劣化版でしかない青年の能力は、まったく同じ系統であるからこそ凌駕できない。
だが青年はそれを理解しない。納得しない。認知しない。
餓鬼の領分と言えばそれまでだが――決して太刀打ちできるわけもない敵を前にして畏怖こそすれ、されど諦観を催さない事が青年の特徴と言えば特徴だった。
怖いものは怖い。痛いし、麻痺して動かない部位が腐るほどある。もしかしたら腐り落ちている可能性さえある。
だが挑まぬ理由はない。
臆してなんになる。
退いてどうになる。
その拳は、何のために牙を剥いたのだ。
肉体は朽ちたが、精神は未だ健常――。
「ぐッ……らァッ!」
力任せに拳を振る。
速度は音に近く、振り払った大気は暴風となって空間を殴り飛ばす。
だがその打撃がゼクトに触れることもままならず、過ぎるように真横を抜ける男の拳が、既に肋骨のない腹部に喰らいついた。
痛烈な一撃。
直接内蔵に触れた拳が、いくつかを破壊した。
圧迫され、破裂し――噴水を思わせる勢いで喉元をせり上がり、赤黒い血を、その口腔から噴出させた。
――死。
垣間見える。
――死ぬ、のか。
意識が明滅する。
視界など、少し前から機能していない。
遠隔から見えるものも、この状況では意味を成さない。
――ここで潰えるのか。
頭の先から足の先までが痛すぎて、どこが決定的に耐え難いのかわからない。
もはや、これが痛いという感覚なのかすらわからなくなってきた。
――家族をゴミのように殺されて。復讐も半ばで終えるのか。
仮の家族だとしても。
それが青年にとっての真実だった。
「復讐など、貴様の好きにすればいい。生産性など知ったことか」
声が聞こえる。
頭の上から、いや、目の前かもしれない。
ただ、意味のわかる音となって、それは聞こえてきていた。
「貴様の敗因は、ただ一つ」
倒れているのか、立っているのかわからない。
血の中に沈んでいるのか、そもそも呼吸ができているのか定かではない。
「己の終焉を、既に決めていた事だ。貴様は、なぜ――」
――どうして生きているのに、死ぬことを考えるのか。
未来を視て、未来へ駆けて、なぜ終えようとする。
その為の力なのか――という説教まで行けば、それは単純に自己満足の域に落ちるが。
ともあれ、他人だから仕方なしと切り捨てるにはあまりにも深すぎる関係であるが為に、男は諦めることが出来ない。
「……エイジ」
意識が堕ちた直後、その空間に侵入するのはナルミ・リトヴャクだった。
「あなたは、彼に近づくことを拒みますか?」
「いや」
「そうですか」
「ただ、その男が目を覚ました時、およそ想像に易い怒りと自己嫌悪に陥るだろうがな」
「構いません」
「そうか」
肩で風を切るような威風堂々さを持て余しながら、彼女はやがてうつぶせに倒れる青年の元に歩み寄る。屈み、その身体を抱き起こしてから――濃厚な血の臭いしかせず、紅く染まるその顔に、ゆっくりと唇を寄せた。
鈍く、青年の肉体が光り始めた。
超速度での回復――喪失した骨、歯牙までもが再生し、へし折れた箇所が結合。引きちぎれた筋組織が繋がり、血が湧く。
ゼクト・プライムはそれを一瞥してから踵を返し、部屋を出る。
力任せに扉を付き破れば、耳にやかましい音が反響し――廊下で待ち構えていた影に、わざとらしく舌を鳴らした。
「何のようだ」
問いに、彼女は紅い髪を軽く揺らす。
「どこへ行かれるのですか?」
「奴が目覚めたら案内してやれ」
「……どこへ?」
「装置がある部屋だ」
――もうそれ以上は語る必要もないだろう。
両者がにわかにそれを理解し、ゼクトは通路の先に足を向ける。
乾いた足音が、静寂の中に響き。
誰もが、戦闘の継続を確信した。
ゼクト・プライムの望みどおりの結果に至るまでそれは続くだろうと思われた。
その男は、いま正に望みどおりの結果を得るために、その人生を幾度も繰り返しているのだから。