最終決戦:邂逅
――届かない。
手を伸ばしても、叫んでも、喚いても、何もそこには届かない。
走っても、蹴っても、跳んでも、そこには至れない。
加速する。
予知をする。
透視する。
遠隔視を利用する。
だが、どれほど全てを超越した何かを有していたとしても、それが先に進むための術である限り、己は目的地へと至れない。
もう二度と。
過ぎ去った時を駆ける手段は、無いのだから。
だから青年のただ一つの願いは夢想の中でしか叶わず、だから今こうしている抵抗が果てしなく無駄な事で自分を傷つける事でしか無いのを理解しながらも、青年は抗わずには居られない。
これが正しいと信じていた。
ゆえに、彼にはそれしかない。
もう夢のなかで風化していくしかない記憶を胸に、復讐することが全てだとするならば、それに従うしか無い。
『――エージ』
闇の中で、堕ちた意識のその深淵で、懐かしい女の声が耳に届いた。
幻聴でも、幻覚でも無い。
ただの記憶の回想。
しかし、聞こえてしまった。
青年は確かに、その声を知覚してしまった。
「……姉さん」
信じるしか無い。
今まで、たった一つのそれだけを目指して走り抜けてきたのだから。
今更立ち止まる事など、できるわけもない。
この一年近くを要してささやかな希望観測地点に到達した今、この五分間に始めよう。
最後へと至る選択を。
意識が蘇る――。
青年が小さく唸り吐息を漏らすのを、アイリンは分厚い防弾ガラス越しに眺めていた。
近くのデスクに乗る複数のモニターには、生体反応、心電図、脳波図などが連なって表示されている。その全ては、彼が金具で四肢を壁に張り付けられる空間内で観測されていた。
「さて、これからどうするつもりだ?」
世界抑圧機関日本支部は地上からおよそ五○○メートルほど地下にある。
そしてホロウ・ナガレを始めとし、レックス・アームストロング、スコール・マンティア、ナルミ・リトヴャクらがアイリンに追随して招かれたその部屋は、さらに十メートルほど下った地点にあった。
『生体実験室』と銘打つその部屋には、壁や据え置きの机に観測用のモニターを埋め込んであるが、現在稼働しているのは、ガラスの手前にあるデスクのPCのみだった。
「どうすると思う?」
いたずらっぽくアイリンは微笑み、ナガレは忌々しく舌を鳴らす。
腕を組み、壁にもたれかかる彼を一瞥したレックスは、肩をすくめてアイリンに訊いた。
「ボクらは処分しないのか?」
「きみらを連れてきたのは時衛士だけど、そうしろって命じたのはあたしたちよ? きみらは何か勘違いしてない?」
「あなたこそ、ちょっと違うんじゃあないですか?」
問い返すのは、神父服姿のスコールだった。
なにを? と、流すような気軽さで彼に訊く。スコールは含みのある笑みを浮かべながら告げた。
「わたしは、その気になればいつでもあなたを殺せるんですよ」
そう、口にするが早いか。
黒衣を翻したナガレは即座に拳銃を引き抜き、軽やかな身のこなしで素早くスコールの懐に潜り込み――空間に神父の肉体が固定される。為す術もなく、その顎下を叩き上げるかのように銃口が顎を柔く叩いた。
「お前こそ何もわかっていないらしいな」
「何を、でしょう?」
「時衛士もお前らもどうでもいい。俺は、アイリンが装置の在り処を知っている限り、そうそう好きにはさせねえってんだよ」
恐らく、彼女はその為にナガレを連れてきたのだろう。放置しておけば恐らく不利益にしかならぬ二名が、確実に彼女へと牙をむくのを理解して。
『――届かない』
殺意に、緊張に、空気がピリピリと張り詰める。
そんな中、スピーカーから鮮明に漏れる声音は、衛士から発されたものだった。
『どこにも届かない。どんなに強くなっても、未来が見えても、加速しても』
気がつけば、顎に銃口を押し付けられたまま、引き金に指をかけたまま――誰もがガラス越しに青年を注視し、言葉を傾聴していた。
ガラスと言えど、それはマジックミラーである。
目の前に誰かが居ると理解しているわけでもないだろうが、されど、ひとりきりではないことを彼は知覚する。
炎も宿らぬ瞳は虚空を見つめ、青年は呆然と言葉を紡いでいた。
『でも、さあ』
やつれた、いくらか老けたように見える衛士の顔が、にわかに微笑む。
その表情に生気が宿り、幼さが戻った……かにみえた。
『待っててよ。オレ、いくから』
そうして――眼の下に深いクマが刻まれ。
頬がこけたように見え、髪の色素が薄れたように見えるのは、決して照明の加減のせいではないだろう。
時が加速する……わけではなく。
加速度的に膨れ上がったのは、夢想の中でより大きな存在になっていた絶望だった。
「死ぬつもり……かしらね」
呟いたのはアイリンだったが。
とうの昔にそれを悟ったレックスは、マジックミラーの脇の鉄扉を突き破るようにこじ開けて中に侵入する。金属の反響音が鼓膜を突き破るかの如くひどく大きく響いたが――それに顔をしかめる頃には既に、舌を噛み切ろうとしていた青年の歯は、レックスのグローブを噛み締めていた。
「ははっ、死んじまえ」
それを眺めるナガレが漏らし、能力によって束縛されているスコールは怒りを咀嚼するように歯を噛んだ。
意識を集中――不可視の諸手が、顎に押し付けられる銃身を鷲掴みにする。
そうして力任せに弾けば、拳銃は容易く宙空を回転し、音を立てて床を転がった。
「神の身許に身を捧ぐ準備は十分ですか?」
「使いっ走りが吠えるんじゃねえよ」
「黙れ、裁くぞ、貴様を!」
「だったら殺すぞ下っ端がァッ!」
実行は――未だされない。
握りしめた拳が振り上がるその瞬間に、放棄された拳銃がひとりでに浮かび上がり、彼の後頭部に押し付けられたからだ。
どちらかが先に手を出せば、確実にどちらかの死が訪れる。
そして両者は、この時の死を良しとはしない。
やがて、どちらからともなく身を引き、能力が互いに解除される。拳銃は音を立てて床に落ち、離れたナガレを睨みながら、自由になった身体を噛み締めるように顔の前で手を握ったり開いたりする。
「……馬鹿ばっか」
それを眺めていたアイリンは、まったく予想通りの行動にため息混じりにそう呟いて、視線を衛士に戻す。
「――あの馬鹿ッ」
そしてまず目に入るのは、いつの間にか室内に侵入し、衛士を壁に固定するための金具を外そうとするナルミの姿だった。
健気なのは良いことだが――そう、現状では決して感心できない行いに対する評価を飲み込みながら、目の前のデスクに歩み寄り、キーボードを叩く。
モニタの最前面に表示される操作パネルに命令が入力され――眼前、ガラスの奥で青白い閃光が瞬いた。
何かが光った。誰もがその程度の認識しか出来ない速度で輝いたソレが、ナルミに触れる。その瞬間に彼女は全身の筋肉を硬直させ、ぴんと身体を伸ばした体勢で微動だにせず、ゆっくりと倒れ始めた。
レックスは電撃が迸ったのを理解し、手早く彼女に手を伸ばして優しく受け止めてから、その場に寝かせる。白目を剥いたままの彼女のまぶたを下ろしてやってから、背後の鏡を睨みつけた。
「貴女は、何が目的なんだ!?」
『世界抑圧機関は重力子を研究した結果、重力の操作から空間を歪ませる事に成功した。しかし時空間への介入は不可能かと思われたが――』
スピーカー越しに説明される機関の変遷。その主体となるのは、この機関の中心とならざるを得ない時間遡行を可能とする装置についてだった。
それに耳を傾けながら、レックスはいかにこの状況を脱するかを考えていたが、不意に意識が頭上から降り注ぐ声に集中した。
『一人の特異点能力者の登場によって、この機関は初めて”時間操作”の力を手に入れた。男の名は”ゼクト・プライム”。この機関の創始者であり、現在の首長を務めている』
彼女の言葉の意図が、やや不明になり始めたからである。
しかし、その言葉には疑問を抱かずには居られない。
なにせ、この機関がそれほど最近に成立したわけではない筈なのに――たった一人の男が創設し、トップを務め続けているという事はあり得ない。国際連合に根回しされ、世界的な存在に認められているほどの存在が、五○年そこらで出来上がるわけがない。
早くて一○○年。そして彼が知るかぎりでは、それ以上の時間が経過している。
ならば何故――口にするよりも早く、スピーカーはノイズを走らせた。
『時の支配者――その男は幾星霜の中で死ぬことを忘れ、時空を馳せる者』
「馳せる……?」
『幾ばくかの時空を繰り返し、同じ時を繰り返す。己の野望が咲き誇る未来を信じて』
まるで歌うかのように彼女は言った。
『そして、時空に干渉する特異点能力者のサンプルは、時衛士が初めてだった』
含みがあるような言い方で、告げる。
どこか冷たく。
気がつけばその声に熱が無く。
レックスは、気づいてはいけないことに、知らなければいいことに勘付いてしまったような感覚に陥った。
――それまでの能力者がサンプルだと、試供品が如くだと言い切れるのは、それらの限界を見極めて、またそれらが無念のまま散ったからなのだろう。
だが、時衛士までもをそう言い切れるのは?
そもそもそう言えるのは、普遍的な少年だった彼を拾ってきた時点で彼が特異点能力者として目覚める事が確定していて、またその能力が時空間に関連した何かだと発覚していなければならない。
もっとも、覚醒した時点からサンプルとして扱い始めたのならば話は違うが――どうにも、彼女の言い方から察するにはそんな楽観視できるようなものではないらしい。
ゼクト・プライムが繰り返した幾度目かの時空で、時衛士を発見して能力の発覚まで順調に進んだのかもしれない。
その可能性が一番高い。
そうなのかもしれない。
レックスが、言い聞かせるように頭の中で繰り返す。
そうなのだ。
そうに違いない――。
『エイジくん』
アイリンが言った。
壁に張り付けられたままの衛士は、にわかに双眸から蒼い鬼火をくゆらせながら鏡を睨んだ。
「違う!」
『あなたは』
「そんなわけがない!」
『どうして――』
「黙れぇえぇえぇえぇえッ!!」
『――時の衛士なんていう、大層な名前に見合った能力を有しているのかしら?』
時は時間のこと。
衛士は日本古代、警衛や護衛にあたった兵士のこと。
そして青年の能力は時を予知し、また限られた時間の中を自在に行き来する。
時間が静止したかのように、それまで叫んでいた青年の声が途切れた。
舌を噛み切った様子はなく、意識を手放した気配もない。
アイリンがマイクに触れる。
ノイズが走る。
ガラスの向こう側で、だが青年は正確にアイリンを睨みつけていた。
「……どういう事だ」
さしものナガレも、彼女の発言に興味を惹かれる。
含みのある台詞に、スコールもにわかに動きを停止させていた。
「まあ、つまる所」
背後で鉄が軋む音がする。
キイ、と響く開扉音を聞き流しながら、彼女は続けた。
「キミは、あの男によって造られたってわけね」
意味深に言って、あとは訊かれたことだけに答えれば良い。
彼女はインカムのスピーカーから聞こえてくる音が途絶えたのを確認してから、嘆息した。
やれやれ、まるで通訳だ。流れ続けていた固い口調の言葉をわかりやすく言い終えた彼女は、心底疲れたように肩に手をやり、大して凝ってもいない筋肉をほぐす。
だが、まだ何も終わってはいない。
言ってしまえば、ようやく始まったようなものだ。
「どっ」
間抜けなどもりが耳に届く。
「どういう……こと、ですか?」
振り返る。その先に居るのは、長い金髪を後頭部で一括りにする少女の姿。
アイリンが去り際に、後の対応を任せたミシェルだった。
「あら、管制室はどうしたの?」
「戦闘も終わって、事後処理だけですので……アイリンさんを、追って来ました」
「そう、悪い子ね」
優しく微笑んで。
腰のホルスターから拳銃を引き抜こうとして、身体が動かないのを悟る。
そして黒衣が、眼前に立ちはだかっていた。
「ミシェルに罪はねえだろうよ」
「な、ナガレ……さん」
彼女の呟きのような声に、ナガレは軽く苦笑する。
「もう敵同士だ。さん付けはねえだろ」
「す、すみません」
恐縮そうに頭を下げる彼女を見て、なにやら郷愁にかられたような、妙な喪失感が胸の奥底を駆け抜けた。
ため息をつき、それを吐き出す。
――乾いた金属音が、金具か何かが床に落ちたのだと認識してから、彼女の背後で、それが総計で四度繰り返された。
その後に、短い床を叩く音。固いゴムか何かが、床を鳴らしたのだ。
コツコツと足音が響き、外耳が広がったかのようにその強烈な気配を強く感じた。
足音が、気配が背後で止まる。
風がそよぐ。扉が開け放されているからなのだろう。
髪が揺らいだ。
無骨な手が、彼女の肩を髪を巻き添えにして力強く掴んでいた。
「詳しく話して――」
時衛士の視界が暗転する。
顔面が、岩で覆われたかのような冷たく堅固な感触に飲み込まれた。
身体が力任せに背後へと押し込まれる。顔を支点にして、肉体は大きく反り返る。バランスはごく自然に崩れて、足先が天井を向いた――が、身体が完全に背中から倒れこむよりも早く、後頭部がモニタを乗載するデスクに叩きつけられた。
液晶にヒビがはいり、スチールデスクが大げさにへこむ。
大仰すぎる盛大な音をけたたましく反響させて、デスク上の全てを周囲に吹き飛ばしながら、青年はやがて不安定なデスクの上で静止する。
強烈な痛みが身体の中を突き抜けていく。指先までが痺れるような、舌の根が歯茎に貼り付いたかのような違和感を覚える最中に、視界がゆっくりと開けていった。
「詳しく話してやろう」
照明を頭から被る男は、最後の整髪は何年前かという程の長い髪の隙から見える眼で青年を見下ろしていた。
こけた頬に、虚な瞳。
およそ骸に近い風貌は、されどまだ若い男の声を響かせる。
降参するように上げられる両腕をそのままに、指を摩擦する――よりも早く、男の拳は諸手に突き刺さる。
まるで磔のように両手を拳で固定された衛士は、柔軟性を取り戻しつつある舌を働かせた。
「誰だ、てめえ……!」
「ふん、忘れたか……いや、そもそも、真のわたしの姿というのを、貴様に見せた事はなかったな」
「なんだと……?」
「なぜわたしが、どの時も立体映像を介して貴様らと邂逅していたかわからんだろうな。貴様らが、言葉以外の全てを偽られていたとは知らぬだろうな」
意味がわからない。
何が言いたいのか、判然しない。
だが、予感だけはして。
青年の脳に与えられる未来の記憶には、その男の名は正確に刻まれていた。
「今のわたしは速かったろう?」
不敵に笑む。
不気味に口角が吊り上がるその表情は、わかっていても怖気が走るようだった。
「ゼクト・プライム――それがわたしの名だ、時衛士。出来損ないの模倣者よ」