最終決戦:覚醒
狂気が理性を凌駕した瞬間、青年は観測者から支配者へと成長する。
僅か五分だが、時の中で生きる全ての人間は、時衛士の支配から逃れるすべは決して無かった。
だが、それを理解するのはホロウ・ナガレのみであり、僅かに重力が増すその空間で、男はその重圧を威圧と認識し、にわかな畏怖を覚えていた。
その重圧が少しばかり揺らいだその時、ナガレは咄嗟に後退して飛び込んでくる三人へと対峙し――二人は白熱した弾丸を無情なまでに付焼刃に撃ちこみ、あるいは念動力で銃器を奪い取り、頭部を撃ちぬくことで殺害してみせたりする。
爆音が空間を衝撃で歪め、収束する重力がにわかに霧散する。
大地が抉れて溝を作り、鮮血は蒸発――その一方で、レックスの背を護るように立ち尽くす神父服の男はただ腕を組み、目に見えぬ力で浮かび上がるアサルトライフルが、連続する発砲音をけたたましく響かせて、為す術もなく誰かの頭が誰からともなく弾き飛ばされていくのを、鮮血で大地を浸して、個性のない音を立てて倒れていくのを眺めていた。
空薬莢が乾いた音を立てて血溜まりの中に沈み、硝煙が立ち込め焼けた火薬の臭いが鼻を掠めた。
そして残った一人は、ショットガンを片手に衛士へと襲いかかる。
倒れこんだ青年に覆いかぶさっていたセツナは、彼の腹に突き刺した忍者刀を引きぬいて、大地を弾くようにして背後へと背中から飛び込んだ。
ショットガンがシャウトしたような声と共に、一発の弾丸をセツナへと撃ちこんでいく。
銃床を外した短いショットガンは、さらに弾倉を拡張することで最大装填数を十二にする。セミオートで、加えてポンプアクションのないソレは、淡々と目の前の敵に釣鐘状のスラッグ弾を撃ちこんでいく。
それを始めに受け止めた時、忍者刀は金切声をあげながらその表面を抉られ、角度をあげてその腹で衝撃を目の当たりにした瞬間――容易くへし折れ、刀身は宙空を回転しながら、身近な死体の腹に突き刺さって停止した。
間髪おかずに無限の射程を誇る刺突がセツナへと襲いかかるが、
「……ふっ!」
鈍く輝くもう一刀は、超人じみた反射神経、動体視力に伴って振り払われ、スラッグ弾はその中心線からちょうど真二つに切り裂かれて、セツナの両脇を通り過ぎていく。
さらに発砲、発砲、発砲――されど、巨大獣を仕留めるための弾丸は、その男を掠めることすら出来ない。避けるのならまだしも、真正面から切り裂いていくその行為はひどくタチが悪かった。
舌を鳴らし、懐から取り出した弾倉を入れ替える。
その、当然としてあらわになる間隙の内に、セツナは肉薄した。
翻る短刀。スカートのように音をかき鳴らす無数の短刀が、イワイへと射出。殺到する短刀の切っ先が触れたのは、弾丸の装填はちょうど終えた時だった。
大地を蹴り飛ばして後退、されどパワードスーツに爪を立てて引き裂いていく鋭い刃が、癒着する装備ごと強化された肉体を貫いた。
鮮血が飛び、肉が薄く切り裂ける。
思わず漏れる久方の痛みを噛み殺し、イワイは己に刺さる短刀の一本を掴みとる。同時に、肩、腹、腕、腿を貫く刃がさらに深く、骨へと達した。
胸を狙う、おそらく大本命だっただろう刃だけを受け止め、掴み――巻き取ろうと唸り声を上げたウィンチに抵抗を見せるように、引き寄せる。
ワイヤーはそこでピンと張り詰め、セツナは大地に食らいつくように踏み込み、イワイは力の限り引っ張りあげるが、その均衡は頑として崩れず。
故に、ワイヤーと並行になるように突き出したショットガンが火を吹いた。
弾丸は回転する事を知らぬまま、虚空を穿ち、疾走。
さらに発砲は、反動が喪失したかのような素早さで連続する。
忍者刀の切っ先に弾丸が触れる――その次の瞬間に、まったく同じ軌道をとったスラッグ弾が、先行した弾丸の尻を叩き上げていた。
発砲、発砲、発砲。
そのけたたましいシャウトがほぼ長い発砲音として響き。
切り裂く以前に、その衝撃に耐え切れなかった刀身がにわかに曲がり、ひしゃげ、表情を歪めたセツナはそのまま忍者刀を手放し、這いずる程の低姿勢へ移行。弾丸が頭上を通過するのを認識しながら、腰の金具を手早く外す。
すると、短刀ごと巻きついたウィンチが腰部からするりと滑り落ち、がしゃん、と音を立てて投棄された。
身軽になったセツナは地を蹴り駈け出し拳を握る。
対するイワイは、同様にショットガンを投げ捨て――身に刺さる短刀のワイヤーを一纏めにして、勢い良く引きぬいた。
鮮血が尾を引く。
激痛が瞬間的に全身の筋肉を引き締め――反射的に、拳を突き出した。
肉薄した拳が頬に迫る気配を覚える。セツナへと突き出した拳が、ちょうどその顎下に触れんとしていた。
距離は共に一寸も無い。
その一撃が、互いの勝敗を左右するのは明白だったが。
結果は、いつまでも保留されていた。
――肉体の自由が奪われる。
身体は気がつけば、その空間に縛り付けられたかのように、停止していた。
ホロウ・ナガレが、空間を支配したのは、おぞましいほどの直感を信じたからであり――この乱戦に乗じて姿を消した機関の行方も気になるが、遠方から近づいてくる気配に注視するための行為だった。
時衛士の命は失われようとしている。
これが僥倖なのかは不確かだが、正しいことであるのは間違いなかった。
されど、それを崩そうとする気配を感じる。
その影が、長く伸びる一直線の道路の向こう側から、徐々に近づいてきていた。
エンジン音が大地を振動させ、装甲車が眼前でアクセルをフルスロットルで加速している。故に認識した数秒後には、既に距離を半分近くに減らしていて――。
「また特異点か……」
独特の重圧を知覚したナガレは、ぼやくようにうなだれた。
厄介だ。厄介すぎる。
誰がどう救けようとも、それが何者でもあろうとも、結局この男は受け入れないというのに。
嘆息混じりに、血溜まりの中に沈む青年の姿を捉え、銃を向けようとして、全身の肌が粟立った。
感じるのは恐怖。
それは決して青年の強力な能力にどうしようもない絶望感を覚えたから、ではなく。
目を見開いて血まみれの紅い歯を剥いて嗤いかける青年と視線が交錯した――その狂気じみた顔から感じられるのは、狂暴な獣そのものだった。
早急に殺害しなければならない。
本能のまま、ナガレは頭部に照準し、引き金を絞ろうとして。
耳につんざくブレーキ音が鼓膜を突き破り、目の前に飛び込んでくる装甲車のフロントが、ナガレの認識する世界の全てを吹き飛ばしていた。
「なっ――」
なぜ能力が適用されない。
悲鳴はそんな凄まじいブレーキ音にかき消され、無防備に構えるナガレの――その眼前、鼻先が触れたほどの距離で、それはようやく停止した。
運転席から飛び降りるのは、全裸の女性。透き通るような金髪が、この薄暗い空間で良く目立っていた。
無機物を纏わないが故に、ナガレの能力は適用外となる。彼女はそのまま装甲車を回り込むと、同時に、ナガレは視線でそれを追うように装甲車から飛び退いた。
「エイジ!」
叫び、既に死に体の青年へと駆け寄っていた。
歩み寄れば鮮血が散り、音を立てる。素足が汚れるのも構わず、彼女はそのまま倒れた青年へと抱きついた。
まるで愛しの恋人と再会したかのような、表情を歪めて目尻に浮かんだ涙を流しながら、声も言葉もなく、見つめ合った後、ゆっくりと唇が揺れあい――。
させてはいけない。
ナガレの脳裏に、彼らのくちづけの、その不吉さだけが妙なまでに際立って不快感をもたらしていた。
それは決して、嫉妬ではない。
なにか、取り返しの付かないことになるような気がして、引き金を彼女に照準し、発砲。
マグナム弾が高速で彼女の頭部に向かうが、焦燥が手元を狂わし、顎を横から吹き飛ばす形となって彼女に直撃した……筈だった。
弾丸は確かに顎を穿った。
肉を弾く音と、血が噴出して地面に溜まる音もした。
だが――眼の前の彼女は、熱っぽく頬を赤くしたまま、綺麗な横顔のままで、青年と口付けを交わしていた。
ナルミ・リトヴャク。
特異点と適正者との狭間を彷徨っていた少女は、人知れず覚醒した後。
ある種の狂気となる愛情を以てして、再び時衛士との接触を果たし――覚醒したその能力は、
「……は」
青年の口から、乾いた笑いを漏らさせていた。
「く、はっ! くだらねえ、つまらねえ」
蒼い鬼火が、さらに勢いを増す。
双眸から滾る炎が、まるで指向性を持つかのようにナガレの方向へと揺れていた。
「てめえはいつまでもここで留まるつもりか? いつまでも、ここにオレをとどめているつもりか?」
殺したいんだろう、この機関を止めたいんだろう。
悪魔の取引を彷彿とさせる不気味さで、衛士が一方的に言葉を投げる。
「なあ、言ったよな? てめえが仲間に手を出さない限り、オレはお前に力を貸してやるって」
だから、わかるだろう?
悪戯な笑みで、まるで子供が無邪気にねだるような顔で、
「能力を解除しろ」
ナガレの無意識が、狂鬼の身体を、己の能力から解放した――して、しまった。
セツナの拳が頬を穿つ。
イワイの鉄拳が真正面から顎を貫く。
共に尋常ならざる腕力が、特攻してきた勢いを容易く凌駕し。
二つの肉体が、弾けて真反対の方向へと吹き飛んだ。
ナルミが青年の身体から離れ、青年はむくりと身体を起こす。
何事もないように、腹部の切創は綺麗に結合していて、
「……おい、お前、まさか」
破壊された両手は、見事なまでに完治していた。
「治癒、能力――」
さしもの衛士でも、二度目の死地は到達し得ないだろう。
殺すべきならこの場所、このタイミングだった。
にわかな絶望に、侵食される。
何か、抗いようの無い何かに魅入られた気がして。
死神が、その指先で頬を撫でたやさしい気配を覚えていた。
が――。
脇から、突如としてけたたましい発砲音が響き渡る。
眼前で行われている虐殺が早くも終盤に差し掛かった時、まず始めに飛び込んできた影は巨漢のものであり。
時衛士の頭上へと振り下ろされた大剣は――両手を掲げた青年の手に、やわく触れ、硬い強烈な衝撃が、頭上から股下までを一直線に貫いた。
踏みしめる大地に亀裂が入り、衛士が表情を歪める。だが、その青年が巨躯が放つ大上段からの斬撃を受け止めたのは事実であり、その男、船坂の歯軋りが、時衛士の胸を叩いた。
その音が、硝煙の中で標的の見分けがつかず間違えてしまった、なんて好意的に捉えられるその行動を、否定したのだ。
故に、誰もがわかる。
その男が全力で殺そうと思ったのが時衛士であり。
「そこ、までだ」
先頭に立つ褐色の女が、衛士の制止を促す。
対峙する二人を中心にして扇状に展開する機関員が手にする銃器は全て、彼を殺すためだけに、その銃口を向けていた。
「そういうことか。……まあ、そうだよな。オレが”そうする”つもりなのは、誰の目にも、明らかだったしなあ」
傍らで、怒気に満ちる顔で機関員を睨むナルミとは対照的に、拍子抜けしたように、青年の声からは悪意も力も、全てが抜け落ちていた。
色がない。熱さがない。
その対比があるからこそ、沸き立つのはにわかな恐怖である。
「だけどよお、てめえらはよお」
大剣を受け止めながら、じりじりとその鉄塊が頭部に押し迫っているのを理解しながら、彼は続ける。
「オレを殺すのも、救けるのも好きにしろ。だけど、てめえら、その力を――」
発砲。
言葉を遮り、一度だけ火を吹いたアサルトライフルが、青年の肩を貫く。
大きく揺らめいた衛士はそのまま姿勢を崩し、押しつぶされようとする中で大地を駆り、大剣の脇に回りこむ。
衝撃が大地を砕き、振動が周囲に伝播する。
その間に肉薄した褐色の影が、よろめいた青年の側頭部にアサルトライフルを押し付けた。
「……エミリア、さん」
衛士が彼女を睨めば、彼女は目を伏せ、視線を泳がせる。
されど、その口は言葉を紡いでいた。
悲しみを帯びる――同情の台詞を。
「貴様がもう少しだけ、他人を恨むことが出来れば、結果は違っていただろう」
「……なんだと?」
「復讐を誓った時点で、もう貴様のこれからの世界に、正解へ至る選択肢はないんだ」
「……ああ、そうかい。あんたも、あなたも、そうなんですね」
――もはや何も見まい。
青年は彼女から目をそらし、だからといって、今度は誰かを見るということもない。
彼が声をかけるべき者たちも居る筈だった。
この場に居ない、だが気にかけてもいい者も居る筈だった。
だが、彼女らが忠実に行った作戦は、その発案者の思惑通りに彼を失望させていて。
思わせてしまった。
「もう未来に至らなくて良い。これから先なんて、もうどうでもいい」
己が暴走しても帰る場所がある――そんな保身のために護っていた仲間が、その大切な居場所が、弱者故に、どれほどの能力を得ようともそれがなければ堪えられぬこの世界から退避するための空間が、もう要らないと。
青年はどうしようもなく、そう想ってしまう。
言ってしまえば醒めたのだ。
どれほど愛情を注いでもなつかぬ小動物を前にするように。
どれほど苦難してもクリアできぬゲームを前にしたように。
なぜ己は、これほどまでしてこいつらを守ってやらねばならぬのだろうと。
なぜ家族を殺したような連中を、だが下っ端は関係ないと言い切れるのだろうか、と。
絶望が力になる。
今思えば、この世界に入るその時も、絶望が始めだった。
家族の死――考えれば、この能力に至るのも、この機関は予測の範疇だったのかもしれない。
「オレは、この五分間に生きよう」
青年の無邪気な笑みは、失われ。
彼が指を鳴らすのを、誰もが阻止する事ができず――。
ホロウ・ナガレは意識が吹っ飛ぶ感覚だけを、鮮烈に知覚した。