プロローグ ②
「エージ、寒くないの?」
制服姿の姉が、カップルよろしく腕を組んでそう尋ねた。
衛士は同様の制服を着て、同じ格好の生徒たちが歩んでいく道を共に歩きながら苦笑した。
「姉さんがそうしてくれるおかげでね」
かえって熱いくらいだ。
頬が、耳まで真っ赤になって熱を孕むのを覚えながら、それでも離れてくれず、あまつさえイタズラっぽく笑う彼女に、敵わないと諦めたのは少し前の話である。
「でも私ももう三年生だけど推薦で大学決まってるし、もっともっとエージで遊んじゃうよ?」
嫌らしい笑み。だけどなぜだか、それがひどく心地良かった。
いつまで経っても弟から離れられない姉。
どこまでもダラダラと続く坂道。見たことも、歩いたこともない道だったが、それを疑問に思うことはなかった。
「あんまダラけてると推薦取り消されんぞ」
「大丈夫よ。学校だと完璧だもん」
「家でも完璧にしといれくれよな」
嘆息混じりに告げてみる。
もうそろそろ、というか普通ならば交際相手の一人くらいいてもおかしくない年齢だ。
彼女の美貌があれば言い寄ってくれる男がいるだろう。そして友人の話だと、実際にそういった相手が出てくることは在るらしい。
が……ダメ……!
断られる……!
圧倒的謝罪っ……!
そもそも「ごめんなさい」と言うより、「無理」と切り捨てるらしい所を聞くに好きな相手が居るのではないかと思ったが、それさえも無いらしい。
それを聞いて、少しだけ安心する自分に気づいたのは、墓場まで持っていく秘密である。
「よ、エイジ!」
「おはよう、エイジくん」
「おす、トキ!」
そんな頃合いにやってくるのは二人の男子学生と、一人の女子学生。高校生活で苦楽を共にする主なメンバーだ。
名前はそれぞれ――。
「おはよう、なんだよみんな揃って、珍しいじゃんか」
名前。
出てこいない。
いや、そもそも……顔をあわしているのに、衛士にはその顔が見えていなかった。
のっぺらぼうではなく、影がかかってその奥が見えない。ただ声だけが聞こえた。肩を叩けばそれがわかった。だがそれだけだ。あれほどに仲良く、あれほど楽しいヒビを過ごしたのに、顔もわからない。見えない。記憶に、無い。
それがきっかけになったのかもしれない。
鼓動が、妙に力強く耳に届いたような気がした。
「いやな、ちょうどさ――」
彼らの声が遠くなる。
自分だけが、孤立してしまったような、妙な感覚。
異変はそこから始まった。
体の周りに妙な膜が出来たような、白昼夢の中に迷い込んでしまったような不可思議な感覚。
そして――耳に劈く発砲音。
映画やドラマで聞く『バキューン』なんてものではない、パン、という簡単な破裂音じみたソレ。
それと同時に友人の一人が側頭部に穴を開けて、膝から崩れていった。
衛士はただそれを呆然と見る。姉は悲鳴を押し殺して衛士に抱きつき、残った二人は困惑し、悲鳴を上げながら頭を抱えた。
発砲音。
もう一人の友だちが、同様に頭に穴を開け、血を吹き出しながら倒れていく。
発砲音。
残った一人は胸を撃ち抜かれ、涙を流しながら最期に衛士を見て、口元を動かし、何かを言った。が、聞こえない。鮮明に聞こえる銃撃音、そして近づいてくる足音だけを聞いて、彼女の絶命を見守ることしか彼には出来なかった。
身体が動かなかったのだ。
『エージ!』
かろうじて聞こえた声は、まるで分厚い壁を通して届いているかのようだった。
――後頭部に鈍い衝撃を覚える。
何か硬いもので殴られたようで、視界が揺らぐ。膝の下が消えさってしまったかのように衛士は立ち続けることができなくなっていた。
為す術もなく倒れる。
その最中に見るのは、妙な男達に連れ去られていく、姉の姿だった。
心電図の反応が忙しない。
あれほど静かだった鼓動がここに来て激しくなっているのを見て、褐色白髪の女はただ困惑した。
医者を先ほど呼んだが、僅か一分一秒が長く感じられる。ここで、不意に反応が途切れてしまったら。そんなマイナスの想像が頭の中に染み付いてしまって、彼女はどうしようもなくソワソワと、歯をかみしめて腕を組み、貧乏揺すりを押さえられずに彼の顔を注視した。
「落ち着けエミリア。こっちまで落ち着かんわ!」
時衛士が眠る寝台、その対面にはプロレスラー顔負けの巨躯を持つ老人が居た。白髪頭をオールバックにする、ただ居るだけで威厳溢れる彼はハーガイムと呼ばれる『特異点』だ。
つまりは、今二人に心配されている少年と同じ存在であり、世界抑圧機関の粋を集めた能力者である。
「こ、これが落ち着いていられるかッ!」
「黙れやかましい! わたしにではなく、むしろだったらエイジに呼びかけてやれェッ!」
「だ、だがわた――」
エミリアの言葉をかき消すのは、心臓さえも圧迫するほどの凄まじい威圧だった。
ただの気配。そこから放たれるプレッシャー。目に見えないし、物理的なものですらないソレは、同様にハーガイムも感じたようだった。
身体が重くなるのを感じながら彼へと目を配ると、ハーガイムはただ頷いた。
「重力子がこの部屋……いや、エイジに集中している」
「重力子が? アレは、重力を司る素子だろう?」
「同時に特異能力を使用するために切って離せないものでもある」
重力子は機関が時間操作のために、それを制御する装置を作ったのがきっかけでその存在が解明された。
そして特異点とは、その重力子を肉体に備えて、重力子を制御する能力を持った個体の事である。そこから本能が、その個体の本質的な部分を呼び起こして重力操作、そして特異能力を呼び出し扱う。その過程を無意識に行えるのが特異点だ。
だから、重力子自体が個人にそれほど集中することはない。
それこそ、周囲の人間に、重力異常が感じられるほどに。
「つまり、これは……」
「ああ、機関はとんでもないものを拾ってきたということになるな」
この現状から考えられることは、時衛士の持つ特異能力がより強力になるという事。あるいは変質し、全く異なる能力を有することになること。あるいは、肉体が堪え切れなくなる事だが――彼の肉体、主に負担となる心臓は生憎にも半分機械だ。それ故に、後者の危惧が実現することが無い。
となれば考えられるのは、特異点としてさらに成長して、敵にも、味方にとっても脅威となりうる存在になるという事だった。
重力が二倍になってしまったのかと言うほどに身体が重くなる。
立っていられない程というわけではないが、戦闘機のパイロットの気持ちが今なら良くわかった。
その異常なまでの集中が一際強くなった時、まるで地球の束縛が消え失せた。
そう思えるほどに、今度は身体が軽くなった。
空中に浮いているのではないかと錯覚するほどの身軽さ。不意過ぎる現象。忙しない異変。
だがそれを良く味わう暇など、エミリアには無かった。
――時衛士の目が開いた。
口を開けて呼吸して、瞳がゆっくりと病室を見回していた。
思わず叫びそうになるのを抑えて、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「ようやく目覚めたか。この寝坊助が」
姉がひん剥かれて輪姦されて、四肢を切断されて首を投げられた。
胸糞悪くなる、また死にたくなるほどの光景を、永遠と思われるほどの時間、ずっと見ていた。目を瞑ろうとも瞼が言うことを聞かず、身体が動かない。まるで背中におもりでも乗せられているかのようだったが――。
気がつけば白い色を見ていた。
否、それは色だけではない。蛍光灯や、目立たない模様がある。天井だった。
叫びだしたくなる。
唇が震えて、開いて、糸を引くのを理解しながら、喉の奥からせり上がる悲鳴が、もうあと少しで吐き出される。
「ようやく目覚めたか。この寝坊助が」
それを遮ったのは、エミリアのそんな言葉だった。
胸の中で蠢いていた悪感が少しだけ和らぐ。目だけを動かして声のする方を見れば、白髪で片目を隠しているものの、残った目が充血していることが良くわかった。
「……オレは、どれくらい寝ていたんだ?」
「一ヶ月ちょいだ」
ハーガイムが答えた。またそちらに目を向ければ、今度はいつもと変わらぬ還暦過ぎの、だが年齢より遙かに若く見える老人の姿があった。
「一ヶ月か。筋力衰えてるな、たぶん」
「安心しろエイジ、お前の為のトレーニングは既に考えてある。だろう、ハーガイム?」
「ああ、時間が許す限りお前を鍛える。その準備は万全だ」
「そうか。良かった」
そう、良かった。
これでまた元に戻れる。否、戻っただけではダメだ。もっと先、誰も敵わぬくらいにもっと強く。
あの悲劇を繰り返してはいけない。
あの惨劇を許してはいけない。
復讐だ。
恨みが恨みを呼んでもいい。惨劇が惨劇を繰り返してもいい。
元々はこの私情のためにこの機関に来たんだ。
奴らを、協会を潰す。この生命に変えても。
――衛士は半身を起こす。ともに一切の痛みや障害が無いことを確認してから、四肢、そして胸にいくつも付けられる電極を引き剥がして床に捨てた。
寝台から降りて久しぶりに立ち上がる。ただ降りて立つだけでよろけてしまう己に、それだけの衰弱や衰えを覚えながら、点滴針を引きぬいた。
「ハーガイムさん、今から頼めるか?」
「今から? 無理だ、医者に見てもらわないと……」
「点滴に心電図。もっと具合が悪いならこれだけじゃ済まない筈だ。なら残るのはただの確認。今のオレにはそれすら惜しいんだ」
「おい、エイジお前……」
その背後でエミリアが口を挟む。が、それを制するのはハーガイムだった。
言っても無駄だと首を振る。エミリアはそれで理解し、肩を落とした。
「好きにしろ」
「ごめんなさい、エミリアさん」
「いや、いい。起きてくれただけで、それだけでな」
振り返らずに衛士は言って、
「なら来い、時衛士。だが少しでも異変があれば迷わず病院に搬送するからな」
「構いません」
強い意思を持つ眼光。
まるでどこかで決意をしてきたかのような、迷いのない瞳。そして今までの時衛士とは違う妙な違和感。
別人のような彼は、それでもあの少年としてハーガイムを見つめる。
かくして、殆ど寝起きで訓練が開始して――。
ハーガイム曰く”地獄の一週間”が経過し、現在に至る。
時衛士はさしたる事情も知らずに特異点を始末して尚、その被害者二人を連れ帰るという、ごく難易度の高い任務を僅か数分で片付けるという偉業を成し遂げて、機関にてようやく”復活”した。