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音痴だと追放された聖女ですが、上手くなったら国が滅ぶそうです

作者: 桜野結
掲載日:2026/10/09

大聖堂の朝は、ひとつの音から始まる。


祭壇の脇でオルガンが最初の和音を鳴らし、聖歌隊の娘たちがそこへ声を重ねていく。


天井の高い身廊に、澄んだ響きが満ちていく。参列した貴族たちは目を閉じ、司祭たちは満足げにうなずく。


そこへ、わたしの声が入る。


入った瞬間に、何かが傾いた。


隣のセレスティアさまの声がわずかに揺れ、その隣の子が音を探して迷い、さらにその隣がつられて下がる。積み木の塔を下から一本抜いたように、合唱がゆっくり、確実に崩れていくのがわかる。


わかっていても、止められない。それがわたしの歌というものだ。


最後の和音を、オルガンだけが正しく鳴らして礼拝は終わった。


参列席のどこかで、咳払いがひとつ。


鐘楼のほうからは、鳥たちが一斉に羽ばたく音。わたしが歌うと、いつもこうなる。


物心ついたころから、わたしは大聖堂で育った。門の前に置かれていた赤子を、当時の司祭さまが拾ってくださったのだという。


聖歌は子守唄がわり。毎朝、高い天井から降ってくる歌声を浴びて、わたしは歌が大好きな子どもになった。


好きなものが得意とは限らない。その事実を思い知ったのは、初めて人前で歌った日のこと。


それでも、聖女の素質があるという理由で、わたしは聖歌隊に残された。祈りの力は人並み以上。歌だけが、人並みのはるか下。


歌わない聖女は、聖歌隊にいられない。だからわたしは、毎朝歌う。毎朝、合唱を崩す。


礼拝のあと、大司教グランツさまの執務室に呼ばれた。


「フィーネ・アルノー。君が聖歌隊に入って、どれほどになるかね」


「……長く、お世話になっております」


「長い。実に長い。その間、君の歌が一度でも正しい音程に乗ったことがあったかね」


答えられない。


「今朝は北の辺境伯夫人がお見えだった。礼拝のあと、夫人はわたしにこう尋ねたよ。聖歌隊に、何か呪いでもかかっているのですか、と」


大司教さまは机の上で指を組む。


「新しく来たセレスティアは、王都でも指折りの歌い手だ。彼女がいれば、聖歌隊は本来の姿に戻る。君には、辺境のヴェルデ村の礼拝堂へ赴任してもらう」


赴任という言葉が追放の意味で使われていることくらい、わたしにもわかる。


「……承知いたしました」


扉の外に、セレスティアさまが立っていた。金の髪の、絵に描いたような聖女さま。わたしと目が合うと何か言いかけて、結局うつむいてしまう。


責める気にはなれない。あの人は悪くないのだ。悪いのは、わたしの喉のほう。


荷物をまとめながら、本当は、と思う。


本当は、上手く歌いたかった。誰かに笑われるためじゃなく、誰かを喜ばせるために。


◇


ヴェルデは、王都から馬車で何日も揺られた先にある、山あいの小さな村だ。


石造りの礼拝堂は屋根の半分に苔が生え、鐘にはひびが入っている。それでも村の人たちは、花輪でわたしを迎えてくれた。


「聖女さまが来てくださるなんて、いつぶりかねえ」


「前の司祭さまが亡くなってから、ずっと空き家だったもんで」


ありがたくて、申し訳なくて、わたしは何度も頭を下げる。この人たちはまだ、わたしの歌を聞いていない。


翌朝。


礼拝堂に集まった村人の前で、祈りの歌を歌った。


最初の一節で、前列のおじいさんの笑顔が固まる。


次の節で、外の柵がめきめきと鳴った。山羊たちが柵を越えて、一目散に森のほうへ駆けていく。


歌い終えるころには、村人たちは全員、笑顔のまま両手で耳を押さえていた。


ものすごく器用な笑顔だと思う。


「……ありがとう、ございました」


誰も目を合わせてくれない。ここでも駄目か。そう思いかけた、そのとき。


「いい声だねえ」


最後列で、腰の曲がったおばあさんが、耳も押さえずににこにこしていた。村長のハンナさんだと、あとで知る。


「昔を思い出すよ。あたしの母さんも、そんなふうに歌ったもんさ」


慰めてくれているのだろう。そう受け取って、わたしはもう一度頭を下げた。


山羊を探しに行く若者たちを見送っていると、村の子どものトビが袖を引っぱってくる。


「聖女さま、山羊ってね、狼が来ても逃げないんだよ。父ちゃんの角笛でも平気なんだ」


「……そう」


「すごいね!」


褒められている気が、まったくしない。


夕方、山羊を連れ戻した若者のひとりが、ため息まじりに言った。


「まあ、森に入っても平気でしょう。この村、昔から魔物が少ないんで」


そのときは、ただの世間話として聞き流した。


夜、礼拝堂の裏の小部屋で横になっていると、窓の外からハンナさんの子守唄が聞こえてくる。孫を寝かしつけているらしい。


わたしの歌に負けないくらい、ひどく外れた歌。


なぜだか、少しだけ安心して眠れた。


それから何日か、わたしは村の仕事を覚えることに精を出す。井戸の水汲み、鶏小屋の掃除、羊毛の糸紡ぎ。どれも初めてで、どれも下手で、それでも歌よりはましだと村の人たちは笑ってくれる。


祈りの歌だけは、毎朝欠かさなかった。


村の人たちは毎朝、笑顔のまま耳を押さえて最後まで付き合ってくれる。山羊を追いかけるのは、いつの間にか若者たちの朝の日課になっていた。


申し訳なさで、わたしの肩はどんどん縮こまっていく。


◇


村外れの丘の上に、ひとりで住んでいる男の人がいる。


元は王宮の楽士で、喉を痛めて辞めたらしい。偏屈で、村の誰とも話さない。そう教えてくれたのはトビだ。


山羊の脱走があと何度か続いたころ、わたしは誰もいないところで練習しようと、その丘の向こうの林まで来ていた。


ひとりで歌う。鳥が逃げる。風が止む。気のせいか、木の葉まで縮こまったように見える。


「……ひどいな」


振り向くと、背の高い男の人が木にもたれて立っていた。灰色の目に、無精ひげ。声は低くかすれていて、ささやきに近い。


「も、申し訳ありません。すぐに帰ります」


「待て。もう一度、最初の一節だけ」


「えっ」


「歌え」


逆らえない調子だった。おそるおそる歌うわたしを、男の人は眉ひとつ動かさずに最後まで聞き、顎に手をやる。


「息を吸う場所が全部ずれている。喉で音を探しているから、探しているうちに次の音が来る。耳は悪くない。自分の外れ方がわかっている顔をしていた」


「……わかって、います」


「なら直せる」


その一言が、信じられない。


聖歌隊の先生は、わたしに口だけ動かしていなさいと言った。同期の子たちは、わたしの番が来ると、笑いをこらえて肩を震わせる。直せる、と言ってくれた人は、ひとりもいない。


「でも、わたし、ずっとこうなんです。小さいころから、毎日歌ってきて、それでも」


「毎日、ひとりで、外れたまま歌ってきたんだろう」


図星だった。


「外れたまま繰り返せば、外れ方が上手くなるだけだ。正しい音を、隣で鳴らしてくれる人間がいなかった。それだけの話だ」


それだけの話。わたしの人生のほとんどを、この人はそう言い切った。腹が立つより先に、なぜか、肩の力が抜けていく。


「あの、あなたは……」


「ノア。ノア・ベルクマン。昔、王宮で歌を教えていた」


「わたしに、教えてくださるんですか」


「暇だからな」


ぶっきらぼうに言って、彼は丘のほうへ歩き出す。何歩か行ってから、振り返らずに付け足した。


「明日の朝。山羊が逃げない程度の声で来い」


わたしはその背中に、深々と頭を下げる。


ひとつだけ、気づいたことがある。かすれて小さなノアさんの声は、それでもひとつも音を外していなかった。


◇


ノアさんのレッスンは、歌うより先に、息を吐くことから始まった。


「肩が上がっている。息は腹で吸え」


「は、はい」


「返事はいい。吸え」


吸う。吐く。小屋の前の丘で、来る日も来る日も。


次は、ノアさんが小さな声で出す音を、まねるだけの練習。かすれているのに、ノアさんの音はまっすぐで迷いがない。わたしの声は、そのまわりをふらふらと飛び回る蛾のようだ。


「探すな。もう知っている音だと思え」


「知りません」


「知っている。今、聞いただろう」


言われた通りに、知っているつもりで出してみる。


ほんの少し、ふらつきが小さくなる。


「今のだ」


ノアさんが言った。褒め言葉なのかどうかもわからない、短い一言。それなのに、わたしは丘の上で飛び跳ねそうになる。


それからの日々は、たぶん、わたしの人生でいちばん楽しかった。


朝は礼拝堂で祈り、昼は村の手伝いをして、夕方になると丘へ登る。ノアさんの小屋には、古い竪琴と、埃をかぶった譜面台と、欠けた茶器がふたつだけ。椅子もひとつしかないので、わたしはいつも窓枠に腰かける。


ある夕方、レッスンの終わりに、ノアさんがめずらしく自分から歌った。


ほんの短い、王宮で昔流行ったという恋の歌。かすれた小さな声なのに、音のひとつひとつが、ていねいに磨いた硝子玉みたいに澄んでいる。


聞いているうちに、なぜか涙が出そうになった。


「……どうして、わたしに教えてくれるんですか」


歌い終えたノアさんに、思わず聞いてしまう。


彼はしばらく黙ってから、竪琴の弦を一本だけはじいた。


「君は、外しながら、楽しそうに歌う」


「え」


「俺は正しく歌えたころ、一度もあんな顔をしなかった。それが、少し腹立たしかった」


答えになっているのか、いないのか。わたしが首をかしげているうちに、ノアさんは、帰れ、暗くなる、と言って窓を閉めてしまう。


丘を下りる足が、妙に軽かった。


ある朝、礼拝堂で祈りの歌を歌い終えると、前列のおじいさんが、耳から手を離したまま拍手をしてくれる。


山羊たちは柵の中で、のんびり草を食んでいる。


「聖女さま、上手になったねえ」


村の人たちが口々に言う。トビだけが、少し不満そうだ。


「前のほうが面白かったのに」


「トビ、それは褒めてないよ」


丘に戻って報告すると、ノアさんはいつもの無愛想な顔で、そうか、とだけ言った。けれど、そのあと淹れてくれたお茶には蜂蜜が入っている。


喉にいいから、と彼は言う。


あなたの喉にも、と言いかけて、やめる。自分の喉の話になると、ノアさんは決まって窓の外を見るのだ。


一度だけ、どうして辞めたのかと聞いたことがある。


「無理をして歌った。それだけだ」


それ以上は、答えてくれなかった。


レッスンのあと、丘を下りながら小さく歌を口ずさむ。音が外れない。外れないことがこんなに気持ちいいなんて、知らなかった。


ノアさんに褒められたい。それが近ごろの、わたしのいちばんの願い。


同じころ、トビが村じゅうを走り回っていた。


「森の縁にね、でっかい足跡があったんだよ! 大人の足より大きいの!」


「熊だろう」


「熊じゃないもん、指が変なとこについてたもん」


大人たちは笑って取り合わない。わたしもそのときは、子どもの見間違いだろうと思っていた。


その晩、礼拝堂の裏で、山羊たちがいつまでも落ち着かなく鳴きつづける。


今日はとても上手に歌えた日なのに。寝返りを打ちながら、わたしはぼんやりそう思う。


◇


夏の終わり、旅の商人がヴェルデに立ち寄った。


広場で荷を広げながら、商人は王都の話を聞かせてくれる。


「新しい聖女さまの評判がすごいんですよ。大聖堂の合唱が見違えるようになったって、遠くの町から聞きに来る客までいる」


セレスティアさまのことだ。誇らしいような、寂しいような気持ちで、わたしは耳を傾ける。


「ただね」


商人は声を落とした。


「その頃からですかね、城壁の外で魔物の群れを見たって話が増えまして。夜になると、門の上まで唸り声が聞こえるそうです。騎士団がぴりぴりしてますよ」


「物騒だねえ」


村人たちが顔を見合わせる。


わたしは、ほんの少しだけ胸がすくのを感じて、すぐに恥ずかしくなった。大聖堂の誰かが困っていればいいなんて、聖女の考えることじゃない。


それに、わたしには関係のない話だ。


そう思って、商人から蜂蜜の小瓶をひとつ買う。ノアさんのお茶の分。


夕方、小瓶を持って丘に登り、ついでに王都の噂を話した。ノアさんは蜂蜜の瓶を受け取りかけた手を、途中で止める。


「大聖堂の合唱が、評判になった頃から?」


「はい。商人さんは、そう言ってました」


「……そうか」


ノアさんは、それきり黙って窓の外を見た。王宮にいた人だから、知っている顔でも思い浮かべたのだろう。そのときのわたしは、その程度にしか考えていない。


蜂蜜入りのお茶は、いつもより少しだけ甘かった。


◇


収穫祭の夜。


広場に篝火が焚かれ、村じゅうの人が集まって、わたしに歌をせがんだ。


「聖女さまの歌で始めなきゃ、祭りにならないよ」


少し前なら、冗談にしか聞こえなかった言葉。今は、本気で言ってもらえている。


篝火の前に立って、ノアさんに教わった通りに息を吸う。


歌は、自分でも驚くほど上手くいった。音がひとつも外れない。広場に響く声を自分の耳で追いかけていけるのが、嬉しくてたまらない。丘のほうを見ると、木の陰に腕を組んだ背の高い影が立っている。来てくれたのだ。


歌い終えて、拍手が起きた。


その拍手の向こうで、何かが低く唸る。


最初に気づいたのは山羊たちだった。柵の中で一斉に悲鳴を上げ、ぶつかり合いながら隅に固まる。犬が吠え、すぐに尻尾を巻いて黙りこむ。


篝火の明かりの外、森へ続く道の暗がりに、大きな影がうずくまっていた。


狼よりもずっと大きい。背中が瘤のように盛り上がり、指の位置がおかしな前足で地面に爪を立てている。


トビが言っていた、あの足跡の主。


魔物は、まるで歌に呼ばれたように、まっすぐ広場へ這い出してくる。


悲鳴が上がった。人々が逃げまどう。その足もとを、小さな体がすり抜けていく。


「トビ!」


山羊を守ろうとしたのだろう。トビは柵の前に立ちはだかって、震える手で棒きれを振り上げている。


魔物が、その子に向かって身を低くする。


考えるより先に、口が開いていた。


歌と呼べるようなものじゃない。叫びに近い声。ノアさんに教わる前の、あのひどい歌い方。息を吸う場所も音の高さも全部めちゃくちゃなまま、わたしは声を張り上げる。


魔物の動きが止まった。


耳を伏せ、頭を地面にこすりつけるようにして後ずさる。もう一節、外れた声をぶつけると、それは弾かれたように身をひるがえし、森の闇へ逃げこんでいった。


広場が、しんと静まりかえる。


膝から崩れ落ちそうになったわたしの肩を、誰かが支えた。ノアさんだ。


「……今のは」


ノアさんの声が、かすかに震えている。


腰の曲がった影が、ゆっくりと近づいてくる。ハンナさんだ。


「やっぱりねえ」


魔物が消えた森を見つめて、ハンナさんは言う。


「この村の子守唄はね、昔からわざと外して歌うもんなんだよ。そうしないと森のものが寄ってくるって、母さんに教わった。あたしは迷信だと思ってたけどね」


外れた歌が、魔物を遠ざける。


きれいな歌は、魔物を呼ぶ。


鐘楼から逃げた鳥。柵を越えた山羊。昔から魔物が少ないこの村。上手く歌えた夜ほど落ち着かなかった家畜たち。


そして、セレスティアさまの合唱が評判になってから、王都の城壁に群がりはじめた魔物たち。


全部が、ひとつにつながってしまう。


わたしが上手くなったから、あの魔物は村へ来たのだ。


トビが泣きながら抱きついてくる。その小さな背中をさすりながら、わたしは自分の喉に、そっと手を当てた。


祭りは、そのままお開き。


礼拝堂まで送ってくれたのは、ノアさんだ。月の明るい道を、ふたりとも黙って歩く。何か言わなければと思うのに、喉が張りついたように声が出ない。


礼拝堂の前で、ノアさんは一度だけ立ち止まり、何か言いかけて、やめた。


そのまま丘のほうへ戻っていく背中を、わたしは見えなくなるまで見送る。


◇


翌朝、わたしは丘の小屋を訪ねる。


ノアさんは、いつものようにお茶を淹れてくれなかった。窓の外を見たまま、こちらを振り向かない。


「レッスンは、もうやめる」


先に言われてしまった。


「君に歌を教えたのは俺だ。俺が教えなければ、昨日の夜は何も起きなかった」


「違います。教えてほしいと言ったのは、わたしです」


「同じことだ」


ノアさんの声は、いつもよりさらにかすれている。昨夜、わたしを支えたとき、トビの名前を叫んでいた気がする。喉に響いたのだろう。


「わたしも、やめるつもりで来ました」


ノアさんの肩が、わずかに動く。


「上手く歌うのは、やめます。昔のわたしに戻ります。村のみんなには悪いけど、また耳を押さえてもらうことにします」


言いながら、喉の奥が痛くなる。


本当は、やめたくない。


外れない音の気持ちよさを、知ってしまった。ノアさんに褒められたときの嬉しさも。あの蜂蜜入りのお茶も。


全部、手放さなくちゃいけない。


「……それがいい」


こちらを見ないまま、ノアさんは言った。


「俺の声は、もう誰の役にも立たない。せめて君の邪魔にはならないようにする」


「邪魔なんかじゃ」


「帰ってくれ」


それきり、彼は口をつぐんでしまう。


丘を下りながら、小さく歌ってみた。わざと外して。わざと、昔みたいに。


けれど、うまくいかない。


外そうとしても、声が勝手に正しい音のほうへ寄っていく。ノアさんに教わった息の吸い方を、喉が覚えてしまっているのだ。


外れた歌が、歌えない。


わたしは道の途中で立ち止まったまま、しばらく動けなかった。


村に戻ると、礼拝堂の前の石段に、ハンナさんが座って日向ぼっこをしている。


「ひどい顔だねえ」


「……外れた歌が、歌えなくなっちゃいました」


隣に腰を下ろして、わたしは全部話した。上手くなりたかったこと。上手くなれたこと。それが村を危なくしたこと。もう元には戻れないこと。


ハンナさんは、うんうんとうなずきながら聞いて、最後にこう言う。


「あたしの母さんもね、若いころは歌が上手かったらしいよ」


「え?」


「上手すぎて、森のものが寄ってきて困ったんだと。それで、どうしたと思う」


わたしは首を横に振る。


「父さんと一緒に歌うことにしたんだってさ。父さんは、この村でいちばんの音痴でね。ふたりで歌うと、それはもう、聞けたもんじゃなかったよ」


ハンナさんは、思い出したように喉の奥で笑った。


「あんたの歌を初めて聞いたとき、あのふたりを思い出したんだよ。ひとりなのに、ふたり分外れてた」


それは褒め言葉ではないと思う。


けれどその話は、なぜか小骨のように、わたしの喉に引っかかって残った。


◇


王都からの使者が来たのは、それから何日か後のこと。


立派な馬に乗った司祭が、礼拝堂の前で胸を反らせる。


「フィーネ・アルノー。大司教グランツ猊下のお言葉を伝える。ただちに王都へ戻り、大聖堂の聖歌隊に復帰せよ」


村人たちがざわめいた。


「城壁の外の魔物が、日に日に増えている。占い師の見立てでは、聖歌隊の音に何か欠けたものがあるそうだ。猊下は、君の……その、独特の声が、何かの役に立つかもしれぬとお考えだ」


あれほど呪いだと言われた声を、今さら。


少し前のわたしなら、喜んで馬車に飛び乗ったかもしれない。けれど今、わたしの喉からは、その独特の声が出てこない。


「戻っても、お役には立てません」


「何だと」


「わたしはもう、外れた歌を歌えないんです」


使者は意味がわからないという顔で、わたしと村人を見比べた。


「上手くなってしまったので」


「……それは、喜ばしいことではないのか」


「この場合、たぶん、国が滅びます」


使者の口が、ぽかんと開く。


「ふざけているのか」


「いいえ、本当に」


「ならば、ここで歌ってみせよ。猊下には、ありのままを報告せねばならん」


断る理由もないので、わたしは礼拝堂の前で祈りの歌を歌った。外れない、きれいな歌を。


歌い終えると、使者は戸惑ったように咳払いをする。


「……普通に、上手いではないか」


「はい。困っているんです」


村人たちが一斉にうなずいた。山羊までがメェと鳴く。


使者は、自分だけが何かの冗談から取り残されたような顔で、わたしたちを見回していた。


その日は日が暮れるまでもめて、結局、使者は村に一晩泊まることになる。翌朝わたしを連れて帰る、と言い張って。


その夜、森がざわめいた。


鳥たちが一斉に飛び立ち、山羊が狂ったように鳴き叫ぶ。見張り台に立った若者が、裏返った声を上げた。


「来る! 森から、何匹も!」


収穫祭の夜の、あの魔物。それが群れになって、木々のあいだを押し寄せてくる。王都の城壁に群がっていたものの一部が、山を越えてきたのかもしれない。


使者は真っ青になって、馬のほうへ走っていった。


わたしは村の入口に立つ。


息を吸う。外して、外して、と念じながら声を出す。


出てきたのは、きれいな歌だった。


魔物たちの目が、一斉にこちらを向く。


◇


だめだ。


外そうとすればするほど、喉は正しい音を探してしまう。探しているうちに次の音が来る。それは昔と同じなのに、今は探した先に、ちゃんと正しい音があるのだ。


魔物の群れが、篝火の明かりの端まで迫ってくる。村人たちは鍬や棒を握って、わたしの後ろに並んでいる。トビはハンナさんの腕の中で、歯を食いしばっている。


そのとき、わたしの隣で、別の声が鳴った。


かすれた、低い、ささやくような声。


ノアさんが、そこにいた。


丘を駆け下りてきたのだろう、肩が大きく上下している。それでも彼はまっすぐ前を向いたまま、祈りの歌の最初の一節を歌いはじめた。


正確な音。ひとつも外れない、迷いのない旋律。


「ノアさん、だめです、きれいな歌は」


「黙って合わせろ」


喉が裂けそうな声で、彼は言う。


「君の耳は悪くない。俺の音を聞いて、それに合わせようとしろ。どうせ、少しずれる」


言われた通りに、ノアさんの音を聞いて、そこへ声を寄せていく。


寄せたつもりなのに、ほんの少しだけ、ずれた。


父さんと一緒に歌うことにしたんだってさ。喉に引っかかっていたハンナさんの言葉が、ようやく胸の底へ落ちてくる。


ノアさんの正しい音と、わたしの少しだけ外れた音。ふたつの声が重なったところで、空気がきしむように震える。


魔物たちが、足を止めた。


ひとりで外していたころとは、比べものにならない。ずれたふたつの音がぶつかり合って、耳の奥がむずむずするような、歯が浮くような、何とも言えない響きが生まれている。正しい音があるからこそ、わたしのずれが際立つ。わたしがずれるからこそ、ノアさんの正しさが鋭くなる。


魔物たちは頭を振り、耳を伏せ、一匹、また一匹と後ずさっていく。


ノアさんの声が、途中で割れた。


咳きこみ、口もとを押さえた手の隙間から苦しげな息が漏れる。それでも彼は、すぐにまた歌い出す。


無理をして歌った。それだけだ。いつか聞いた言葉が、頭の中で鳴る。この人は、また同じことをしようとしている。


「やめてください、喉が」


「やめたら、君がひとりで上手く歌うだろう」


かすれきった声で、彼は笑ったように見えた。


「誰の役にも立たない声だと思っていた。正しいだけで、もう人前に出せる声じゃない。だが、君の隣でなら、役に立つらしい」


わたしは、泣きながら歌った。


ずれていていい。合わなくていい。合わないふたりの声だから、届くものがある。


最後の魔物が森の奥へ消えたとき、東の空は白みはじめていた。


ノアさんは村の入口の柵にもたれて、ずるずると座りこむ。わたしもその隣に、へたりこんだ。


「……ひどい二重唱だったな」


聞き取れないほどの、小さな声。


「ひどかったですね」


ふたりで、少しだけ笑う。


◇


使者は、馬の陰から一部始終を見ていたらしい。


どうか王都へ、と震える声で繰り返す彼に、わたしは答えた。


「行きます。ただし、ノアさんと一緒に。わたしたちは、ふたりでひと組なので」


大司教さまが渋ったという話は、あとで聞いた。けれど城壁の外の唸り声は日ごとに大きくなっていて、首を横に振る余裕など、大司教さまにはなかったようだ。


王都でのことは、手短に。


大聖堂の聖歌隊は、しばらく合唱を休むことになった。言い出したのは、セレスティアさまだという。


「わたしの歌が魔物を呼んでいたのなら、止めるのはわたしの役目です」


あの人はやっぱり、悪い人じゃない。


城壁へ向かう前の晩、セレスティアさまは大聖堂の回廊でわたしを待っていた。


「フィーネさん。あなたが追放されたとき、わたし、何も言えなかった」


「セレスティアさまのせいじゃありません」


「でも、言えばよかった。わたし、あなたの歌が嫌いじゃなかったんです。そう言いかけて、やめました。あの場で言っても、からかっているようにしか聞こえないと思って」


金の髪の聖女さまは、恥ずかしそうにうつむく。


「いつか、わたしにも外し方を教えてください」


「無理だと思います。それ、教わってできるものじゃないので」


セレスティアさまが、初めて声を立てて笑う。


ノアさんとわたしは城壁の上で幾晩か歌い、魔物の群れを散らした。大司教さまは最後に、わたしたちに向かって深々と頭を下げる。聖堂の恥と言ったのと同じ口で、今度は聖堂の宝だと言うのだから、人の口というのは忙しい。


わたしは、どちらの言葉にも、あまり興味がない。


◇


今、わたしたちはヴェルデにいる。


王都に何かあれば駆けつける。それが大司教さまとの約束で、それ以外の日は、丘の上の小屋と礼拝堂を行ったり来たりの暮らし。


ノアさんの喉は、前よりさらにかすれてしまった。それでも、小さな声なら音を外さない。わたしはあいかわらず、少しだけずれる。


朝の礼拝で、ふたりで祈りの歌を歌う。


前列のおじいさんが、笑顔のまま両手で耳を押さえる。山羊たちが柵の中で、身を寄せ合って震えている。トビは、げらげら笑い転げている。


「やっぱり、こっちのほうが面白いや」


歌い終えると、隣でノアさんがぼそりと言った。


「今日も、ひどかったな」


「ひどかったですね」


礼拝堂を出て、丘へ向かう道を並んで歩く。


「後悔、していませんか」


「何をだ」


「わたしに歌を教えたこと。喉のこと」


ノアさんは少し考えてから、かすれた声で言った。


「正しく歌えたころより、今のほうが楽しい」


「ひどい歌なのに?」


「ひどい歌なのに、だ」


それから、聞き取れないほど小さな声で、続きを付け足す。


「君が隣で外すからな」


聞こえなかったふりをするのに、わたしはずいぶん苦労した。


蜂蜜入りのお茶を、ふたり分淹れよう。


上手くならないように。明日も、一緒に歌うために。

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