音痴だと追放された聖女ですが、上手くなったら国が滅ぶそうです
大聖堂の朝は、ひとつの音から始まる。
祭壇の脇でオルガンが最初の和音を鳴らし、聖歌隊の娘たちがそこへ声を重ねていく。
天井の高い身廊に、澄んだ響きが満ちていく。参列した貴族たちは目を閉じ、司祭たちは満足げにうなずく。
そこへ、わたしの声が入る。
入った瞬間に、何かが傾いた。
隣のセレスティアさまの声がわずかに揺れ、その隣の子が音を探して迷い、さらにその隣がつられて下がる。積み木の塔を下から一本抜いたように、合唱がゆっくり、確実に崩れていくのがわかる。
わかっていても、止められない。それがわたしの歌というものだ。
最後の和音を、オルガンだけが正しく鳴らして礼拝は終わった。
参列席のどこかで、咳払いがひとつ。
鐘楼のほうからは、鳥たちが一斉に羽ばたく音。わたしが歌うと、いつもこうなる。
物心ついたころから、わたしは大聖堂で育った。門の前に置かれていた赤子を、当時の司祭さまが拾ってくださったのだという。
聖歌は子守唄がわり。毎朝、高い天井から降ってくる歌声を浴びて、わたしは歌が大好きな子どもになった。
好きなものが得意とは限らない。その事実を思い知ったのは、初めて人前で歌った日のこと。
それでも、聖女の素質があるという理由で、わたしは聖歌隊に残された。祈りの力は人並み以上。歌だけが、人並みのはるか下。
歌わない聖女は、聖歌隊にいられない。だからわたしは、毎朝歌う。毎朝、合唱を崩す。
礼拝のあと、大司教グランツさまの執務室に呼ばれた。
「フィーネ・アルノー。君が聖歌隊に入って、どれほどになるかね」
「……長く、お世話になっております」
「長い。実に長い。その間、君の歌が一度でも正しい音程に乗ったことがあったかね」
答えられない。
「今朝は北の辺境伯夫人がお見えだった。礼拝のあと、夫人はわたしにこう尋ねたよ。聖歌隊に、何か呪いでもかかっているのですか、と」
大司教さまは机の上で指を組む。
「新しく来たセレスティアは、王都でも指折りの歌い手だ。彼女がいれば、聖歌隊は本来の姿に戻る。君には、辺境のヴェルデ村の礼拝堂へ赴任してもらう」
赴任という言葉が追放の意味で使われていることくらい、わたしにもわかる。
「……承知いたしました」
扉の外に、セレスティアさまが立っていた。金の髪の、絵に描いたような聖女さま。わたしと目が合うと何か言いかけて、結局うつむいてしまう。
責める気にはなれない。あの人は悪くないのだ。悪いのは、わたしの喉のほう。
荷物をまとめながら、本当は、と思う。
本当は、上手く歌いたかった。誰かに笑われるためじゃなく、誰かを喜ばせるために。
◇
ヴェルデは、王都から馬車で何日も揺られた先にある、山あいの小さな村だ。
石造りの礼拝堂は屋根の半分に苔が生え、鐘にはひびが入っている。それでも村の人たちは、花輪でわたしを迎えてくれた。
「聖女さまが来てくださるなんて、いつぶりかねえ」
「前の司祭さまが亡くなってから、ずっと空き家だったもんで」
ありがたくて、申し訳なくて、わたしは何度も頭を下げる。この人たちはまだ、わたしの歌を聞いていない。
翌朝。
礼拝堂に集まった村人の前で、祈りの歌を歌った。
最初の一節で、前列のおじいさんの笑顔が固まる。
次の節で、外の柵がめきめきと鳴った。山羊たちが柵を越えて、一目散に森のほうへ駆けていく。
歌い終えるころには、村人たちは全員、笑顔のまま両手で耳を押さえていた。
ものすごく器用な笑顔だと思う。
「……ありがとう、ございました」
誰も目を合わせてくれない。ここでも駄目か。そう思いかけた、そのとき。
「いい声だねえ」
最後列で、腰の曲がったおばあさんが、耳も押さえずににこにこしていた。村長のハンナさんだと、あとで知る。
「昔を思い出すよ。あたしの母さんも、そんなふうに歌ったもんさ」
慰めてくれているのだろう。そう受け取って、わたしはもう一度頭を下げた。
山羊を探しに行く若者たちを見送っていると、村の子どものトビが袖を引っぱってくる。
「聖女さま、山羊ってね、狼が来ても逃げないんだよ。父ちゃんの角笛でも平気なんだ」
「……そう」
「すごいね!」
褒められている気が、まったくしない。
夕方、山羊を連れ戻した若者のひとりが、ため息まじりに言った。
「まあ、森に入っても平気でしょう。この村、昔から魔物が少ないんで」
そのときは、ただの世間話として聞き流した。
夜、礼拝堂の裏の小部屋で横になっていると、窓の外からハンナさんの子守唄が聞こえてくる。孫を寝かしつけているらしい。
わたしの歌に負けないくらい、ひどく外れた歌。
なぜだか、少しだけ安心して眠れた。
それから何日か、わたしは村の仕事を覚えることに精を出す。井戸の水汲み、鶏小屋の掃除、羊毛の糸紡ぎ。どれも初めてで、どれも下手で、それでも歌よりはましだと村の人たちは笑ってくれる。
祈りの歌だけは、毎朝欠かさなかった。
村の人たちは毎朝、笑顔のまま耳を押さえて最後まで付き合ってくれる。山羊を追いかけるのは、いつの間にか若者たちの朝の日課になっていた。
申し訳なさで、わたしの肩はどんどん縮こまっていく。
◇
村外れの丘の上に、ひとりで住んでいる男の人がいる。
元は王宮の楽士で、喉を痛めて辞めたらしい。偏屈で、村の誰とも話さない。そう教えてくれたのはトビだ。
山羊の脱走があと何度か続いたころ、わたしは誰もいないところで練習しようと、その丘の向こうの林まで来ていた。
ひとりで歌う。鳥が逃げる。風が止む。気のせいか、木の葉まで縮こまったように見える。
「……ひどいな」
振り向くと、背の高い男の人が木にもたれて立っていた。灰色の目に、無精ひげ。声は低くかすれていて、ささやきに近い。
「も、申し訳ありません。すぐに帰ります」
「待て。もう一度、最初の一節だけ」
「えっ」
「歌え」
逆らえない調子だった。おそるおそる歌うわたしを、男の人は眉ひとつ動かさずに最後まで聞き、顎に手をやる。
「息を吸う場所が全部ずれている。喉で音を探しているから、探しているうちに次の音が来る。耳は悪くない。自分の外れ方がわかっている顔をしていた」
「……わかって、います」
「なら直せる」
その一言が、信じられない。
聖歌隊の先生は、わたしに口だけ動かしていなさいと言った。同期の子たちは、わたしの番が来ると、笑いをこらえて肩を震わせる。直せる、と言ってくれた人は、ひとりもいない。
「でも、わたし、ずっとこうなんです。小さいころから、毎日歌ってきて、それでも」
「毎日、ひとりで、外れたまま歌ってきたんだろう」
図星だった。
「外れたまま繰り返せば、外れ方が上手くなるだけだ。正しい音を、隣で鳴らしてくれる人間がいなかった。それだけの話だ」
それだけの話。わたしの人生のほとんどを、この人はそう言い切った。腹が立つより先に、なぜか、肩の力が抜けていく。
「あの、あなたは……」
「ノア。ノア・ベルクマン。昔、王宮で歌を教えていた」
「わたしに、教えてくださるんですか」
「暇だからな」
ぶっきらぼうに言って、彼は丘のほうへ歩き出す。何歩か行ってから、振り返らずに付け足した。
「明日の朝。山羊が逃げない程度の声で来い」
わたしはその背中に、深々と頭を下げる。
ひとつだけ、気づいたことがある。かすれて小さなノアさんの声は、それでもひとつも音を外していなかった。
◇
ノアさんのレッスンは、歌うより先に、息を吐くことから始まった。
「肩が上がっている。息は腹で吸え」
「は、はい」
「返事はいい。吸え」
吸う。吐く。小屋の前の丘で、来る日も来る日も。
次は、ノアさんが小さな声で出す音を、まねるだけの練習。かすれているのに、ノアさんの音はまっすぐで迷いがない。わたしの声は、そのまわりをふらふらと飛び回る蛾のようだ。
「探すな。もう知っている音だと思え」
「知りません」
「知っている。今、聞いただろう」
言われた通りに、知っているつもりで出してみる。
ほんの少し、ふらつきが小さくなる。
「今のだ」
ノアさんが言った。褒め言葉なのかどうかもわからない、短い一言。それなのに、わたしは丘の上で飛び跳ねそうになる。
それからの日々は、たぶん、わたしの人生でいちばん楽しかった。
朝は礼拝堂で祈り、昼は村の手伝いをして、夕方になると丘へ登る。ノアさんの小屋には、古い竪琴と、埃をかぶった譜面台と、欠けた茶器がふたつだけ。椅子もひとつしかないので、わたしはいつも窓枠に腰かける。
ある夕方、レッスンの終わりに、ノアさんがめずらしく自分から歌った。
ほんの短い、王宮で昔流行ったという恋の歌。かすれた小さな声なのに、音のひとつひとつが、ていねいに磨いた硝子玉みたいに澄んでいる。
聞いているうちに、なぜか涙が出そうになった。
「……どうして、わたしに教えてくれるんですか」
歌い終えたノアさんに、思わず聞いてしまう。
彼はしばらく黙ってから、竪琴の弦を一本だけはじいた。
「君は、外しながら、楽しそうに歌う」
「え」
「俺は正しく歌えたころ、一度もあんな顔をしなかった。それが、少し腹立たしかった」
答えになっているのか、いないのか。わたしが首をかしげているうちに、ノアさんは、帰れ、暗くなる、と言って窓を閉めてしまう。
丘を下りる足が、妙に軽かった。
ある朝、礼拝堂で祈りの歌を歌い終えると、前列のおじいさんが、耳から手を離したまま拍手をしてくれる。
山羊たちは柵の中で、のんびり草を食んでいる。
「聖女さま、上手になったねえ」
村の人たちが口々に言う。トビだけが、少し不満そうだ。
「前のほうが面白かったのに」
「トビ、それは褒めてないよ」
丘に戻って報告すると、ノアさんはいつもの無愛想な顔で、そうか、とだけ言った。けれど、そのあと淹れてくれたお茶には蜂蜜が入っている。
喉にいいから、と彼は言う。
あなたの喉にも、と言いかけて、やめる。自分の喉の話になると、ノアさんは決まって窓の外を見るのだ。
一度だけ、どうして辞めたのかと聞いたことがある。
「無理をして歌った。それだけだ」
それ以上は、答えてくれなかった。
レッスンのあと、丘を下りながら小さく歌を口ずさむ。音が外れない。外れないことがこんなに気持ちいいなんて、知らなかった。
ノアさんに褒められたい。それが近ごろの、わたしのいちばんの願い。
同じころ、トビが村じゅうを走り回っていた。
「森の縁にね、でっかい足跡があったんだよ! 大人の足より大きいの!」
「熊だろう」
「熊じゃないもん、指が変なとこについてたもん」
大人たちは笑って取り合わない。わたしもそのときは、子どもの見間違いだろうと思っていた。
その晩、礼拝堂の裏で、山羊たちがいつまでも落ち着かなく鳴きつづける。
今日はとても上手に歌えた日なのに。寝返りを打ちながら、わたしはぼんやりそう思う。
◇
夏の終わり、旅の商人がヴェルデに立ち寄った。
広場で荷を広げながら、商人は王都の話を聞かせてくれる。
「新しい聖女さまの評判がすごいんですよ。大聖堂の合唱が見違えるようになったって、遠くの町から聞きに来る客までいる」
セレスティアさまのことだ。誇らしいような、寂しいような気持ちで、わたしは耳を傾ける。
「ただね」
商人は声を落とした。
「その頃からですかね、城壁の外で魔物の群れを見たって話が増えまして。夜になると、門の上まで唸り声が聞こえるそうです。騎士団がぴりぴりしてますよ」
「物騒だねえ」
村人たちが顔を見合わせる。
わたしは、ほんの少しだけ胸がすくのを感じて、すぐに恥ずかしくなった。大聖堂の誰かが困っていればいいなんて、聖女の考えることじゃない。
それに、わたしには関係のない話だ。
そう思って、商人から蜂蜜の小瓶をひとつ買う。ノアさんのお茶の分。
夕方、小瓶を持って丘に登り、ついでに王都の噂を話した。ノアさんは蜂蜜の瓶を受け取りかけた手を、途中で止める。
「大聖堂の合唱が、評判になった頃から?」
「はい。商人さんは、そう言ってました」
「……そうか」
ノアさんは、それきり黙って窓の外を見た。王宮にいた人だから、知っている顔でも思い浮かべたのだろう。そのときのわたしは、その程度にしか考えていない。
蜂蜜入りのお茶は、いつもより少しだけ甘かった。
◇
収穫祭の夜。
広場に篝火が焚かれ、村じゅうの人が集まって、わたしに歌をせがんだ。
「聖女さまの歌で始めなきゃ、祭りにならないよ」
少し前なら、冗談にしか聞こえなかった言葉。今は、本気で言ってもらえている。
篝火の前に立って、ノアさんに教わった通りに息を吸う。
歌は、自分でも驚くほど上手くいった。音がひとつも外れない。広場に響く声を自分の耳で追いかけていけるのが、嬉しくてたまらない。丘のほうを見ると、木の陰に腕を組んだ背の高い影が立っている。来てくれたのだ。
歌い終えて、拍手が起きた。
その拍手の向こうで、何かが低く唸る。
最初に気づいたのは山羊たちだった。柵の中で一斉に悲鳴を上げ、ぶつかり合いながら隅に固まる。犬が吠え、すぐに尻尾を巻いて黙りこむ。
篝火の明かりの外、森へ続く道の暗がりに、大きな影がうずくまっていた。
狼よりもずっと大きい。背中が瘤のように盛り上がり、指の位置がおかしな前足で地面に爪を立てている。
トビが言っていた、あの足跡の主。
魔物は、まるで歌に呼ばれたように、まっすぐ広場へ這い出してくる。
悲鳴が上がった。人々が逃げまどう。その足もとを、小さな体がすり抜けていく。
「トビ!」
山羊を守ろうとしたのだろう。トビは柵の前に立ちはだかって、震える手で棒きれを振り上げている。
魔物が、その子に向かって身を低くする。
考えるより先に、口が開いていた。
歌と呼べるようなものじゃない。叫びに近い声。ノアさんに教わる前の、あのひどい歌い方。息を吸う場所も音の高さも全部めちゃくちゃなまま、わたしは声を張り上げる。
魔物の動きが止まった。
耳を伏せ、頭を地面にこすりつけるようにして後ずさる。もう一節、外れた声をぶつけると、それは弾かれたように身をひるがえし、森の闇へ逃げこんでいった。
広場が、しんと静まりかえる。
膝から崩れ落ちそうになったわたしの肩を、誰かが支えた。ノアさんだ。
「……今のは」
ノアさんの声が、かすかに震えている。
腰の曲がった影が、ゆっくりと近づいてくる。ハンナさんだ。
「やっぱりねえ」
魔物が消えた森を見つめて、ハンナさんは言う。
「この村の子守唄はね、昔からわざと外して歌うもんなんだよ。そうしないと森のものが寄ってくるって、母さんに教わった。あたしは迷信だと思ってたけどね」
外れた歌が、魔物を遠ざける。
きれいな歌は、魔物を呼ぶ。
鐘楼から逃げた鳥。柵を越えた山羊。昔から魔物が少ないこの村。上手く歌えた夜ほど落ち着かなかった家畜たち。
そして、セレスティアさまの合唱が評判になってから、王都の城壁に群がりはじめた魔物たち。
全部が、ひとつにつながってしまう。
わたしが上手くなったから、あの魔物は村へ来たのだ。
トビが泣きながら抱きついてくる。その小さな背中をさすりながら、わたしは自分の喉に、そっと手を当てた。
祭りは、そのままお開き。
礼拝堂まで送ってくれたのは、ノアさんだ。月の明るい道を、ふたりとも黙って歩く。何か言わなければと思うのに、喉が張りついたように声が出ない。
礼拝堂の前で、ノアさんは一度だけ立ち止まり、何か言いかけて、やめた。
そのまま丘のほうへ戻っていく背中を、わたしは見えなくなるまで見送る。
◇
翌朝、わたしは丘の小屋を訪ねる。
ノアさんは、いつものようにお茶を淹れてくれなかった。窓の外を見たまま、こちらを振り向かない。
「レッスンは、もうやめる」
先に言われてしまった。
「君に歌を教えたのは俺だ。俺が教えなければ、昨日の夜は何も起きなかった」
「違います。教えてほしいと言ったのは、わたしです」
「同じことだ」
ノアさんの声は、いつもよりさらにかすれている。昨夜、わたしを支えたとき、トビの名前を叫んでいた気がする。喉に響いたのだろう。
「わたしも、やめるつもりで来ました」
ノアさんの肩が、わずかに動く。
「上手く歌うのは、やめます。昔のわたしに戻ります。村のみんなには悪いけど、また耳を押さえてもらうことにします」
言いながら、喉の奥が痛くなる。
本当は、やめたくない。
外れない音の気持ちよさを、知ってしまった。ノアさんに褒められたときの嬉しさも。あの蜂蜜入りのお茶も。
全部、手放さなくちゃいけない。
「……それがいい」
こちらを見ないまま、ノアさんは言った。
「俺の声は、もう誰の役にも立たない。せめて君の邪魔にはならないようにする」
「邪魔なんかじゃ」
「帰ってくれ」
それきり、彼は口をつぐんでしまう。
丘を下りながら、小さく歌ってみた。わざと外して。わざと、昔みたいに。
けれど、うまくいかない。
外そうとしても、声が勝手に正しい音のほうへ寄っていく。ノアさんに教わった息の吸い方を、喉が覚えてしまっているのだ。
外れた歌が、歌えない。
わたしは道の途中で立ち止まったまま、しばらく動けなかった。
村に戻ると、礼拝堂の前の石段に、ハンナさんが座って日向ぼっこをしている。
「ひどい顔だねえ」
「……外れた歌が、歌えなくなっちゃいました」
隣に腰を下ろして、わたしは全部話した。上手くなりたかったこと。上手くなれたこと。それが村を危なくしたこと。もう元には戻れないこと。
ハンナさんは、うんうんとうなずきながら聞いて、最後にこう言う。
「あたしの母さんもね、若いころは歌が上手かったらしいよ」
「え?」
「上手すぎて、森のものが寄ってきて困ったんだと。それで、どうしたと思う」
わたしは首を横に振る。
「父さんと一緒に歌うことにしたんだってさ。父さんは、この村でいちばんの音痴でね。ふたりで歌うと、それはもう、聞けたもんじゃなかったよ」
ハンナさんは、思い出したように喉の奥で笑った。
「あんたの歌を初めて聞いたとき、あのふたりを思い出したんだよ。ひとりなのに、ふたり分外れてた」
それは褒め言葉ではないと思う。
けれどその話は、なぜか小骨のように、わたしの喉に引っかかって残った。
◇
王都からの使者が来たのは、それから何日か後のこと。
立派な馬に乗った司祭が、礼拝堂の前で胸を反らせる。
「フィーネ・アルノー。大司教グランツ猊下のお言葉を伝える。ただちに王都へ戻り、大聖堂の聖歌隊に復帰せよ」
村人たちがざわめいた。
「城壁の外の魔物が、日に日に増えている。占い師の見立てでは、聖歌隊の音に何か欠けたものがあるそうだ。猊下は、君の……その、独特の声が、何かの役に立つかもしれぬとお考えだ」
あれほど呪いだと言われた声を、今さら。
少し前のわたしなら、喜んで馬車に飛び乗ったかもしれない。けれど今、わたしの喉からは、その独特の声が出てこない。
「戻っても、お役には立てません」
「何だと」
「わたしはもう、外れた歌を歌えないんです」
使者は意味がわからないという顔で、わたしと村人を見比べた。
「上手くなってしまったので」
「……それは、喜ばしいことではないのか」
「この場合、たぶん、国が滅びます」
使者の口が、ぽかんと開く。
「ふざけているのか」
「いいえ、本当に」
「ならば、ここで歌ってみせよ。猊下には、ありのままを報告せねばならん」
断る理由もないので、わたしは礼拝堂の前で祈りの歌を歌った。外れない、きれいな歌を。
歌い終えると、使者は戸惑ったように咳払いをする。
「……普通に、上手いではないか」
「はい。困っているんです」
村人たちが一斉にうなずいた。山羊までがメェと鳴く。
使者は、自分だけが何かの冗談から取り残されたような顔で、わたしたちを見回していた。
その日は日が暮れるまでもめて、結局、使者は村に一晩泊まることになる。翌朝わたしを連れて帰る、と言い張って。
その夜、森がざわめいた。
鳥たちが一斉に飛び立ち、山羊が狂ったように鳴き叫ぶ。見張り台に立った若者が、裏返った声を上げた。
「来る! 森から、何匹も!」
収穫祭の夜の、あの魔物。それが群れになって、木々のあいだを押し寄せてくる。王都の城壁に群がっていたものの一部が、山を越えてきたのかもしれない。
使者は真っ青になって、馬のほうへ走っていった。
わたしは村の入口に立つ。
息を吸う。外して、外して、と念じながら声を出す。
出てきたのは、きれいな歌だった。
魔物たちの目が、一斉にこちらを向く。
◇
だめだ。
外そうとすればするほど、喉は正しい音を探してしまう。探しているうちに次の音が来る。それは昔と同じなのに、今は探した先に、ちゃんと正しい音があるのだ。
魔物の群れが、篝火の明かりの端まで迫ってくる。村人たちは鍬や棒を握って、わたしの後ろに並んでいる。トビはハンナさんの腕の中で、歯を食いしばっている。
そのとき、わたしの隣で、別の声が鳴った。
かすれた、低い、ささやくような声。
ノアさんが、そこにいた。
丘を駆け下りてきたのだろう、肩が大きく上下している。それでも彼はまっすぐ前を向いたまま、祈りの歌の最初の一節を歌いはじめた。
正確な音。ひとつも外れない、迷いのない旋律。
「ノアさん、だめです、きれいな歌は」
「黙って合わせろ」
喉が裂けそうな声で、彼は言う。
「君の耳は悪くない。俺の音を聞いて、それに合わせようとしろ。どうせ、少しずれる」
言われた通りに、ノアさんの音を聞いて、そこへ声を寄せていく。
寄せたつもりなのに、ほんの少しだけ、ずれた。
父さんと一緒に歌うことにしたんだってさ。喉に引っかかっていたハンナさんの言葉が、ようやく胸の底へ落ちてくる。
ノアさんの正しい音と、わたしの少しだけ外れた音。ふたつの声が重なったところで、空気がきしむように震える。
魔物たちが、足を止めた。
ひとりで外していたころとは、比べものにならない。ずれたふたつの音がぶつかり合って、耳の奥がむずむずするような、歯が浮くような、何とも言えない響きが生まれている。正しい音があるからこそ、わたしのずれが際立つ。わたしがずれるからこそ、ノアさんの正しさが鋭くなる。
魔物たちは頭を振り、耳を伏せ、一匹、また一匹と後ずさっていく。
ノアさんの声が、途中で割れた。
咳きこみ、口もとを押さえた手の隙間から苦しげな息が漏れる。それでも彼は、すぐにまた歌い出す。
無理をして歌った。それだけだ。いつか聞いた言葉が、頭の中で鳴る。この人は、また同じことをしようとしている。
「やめてください、喉が」
「やめたら、君がひとりで上手く歌うだろう」
かすれきった声で、彼は笑ったように見えた。
「誰の役にも立たない声だと思っていた。正しいだけで、もう人前に出せる声じゃない。だが、君の隣でなら、役に立つらしい」
わたしは、泣きながら歌った。
ずれていていい。合わなくていい。合わないふたりの声だから、届くものがある。
最後の魔物が森の奥へ消えたとき、東の空は白みはじめていた。
ノアさんは村の入口の柵にもたれて、ずるずると座りこむ。わたしもその隣に、へたりこんだ。
「……ひどい二重唱だったな」
聞き取れないほどの、小さな声。
「ひどかったですね」
ふたりで、少しだけ笑う。
◇
使者は、馬の陰から一部始終を見ていたらしい。
どうか王都へ、と震える声で繰り返す彼に、わたしは答えた。
「行きます。ただし、ノアさんと一緒に。わたしたちは、ふたりでひと組なので」
大司教さまが渋ったという話は、あとで聞いた。けれど城壁の外の唸り声は日ごとに大きくなっていて、首を横に振る余裕など、大司教さまにはなかったようだ。
王都でのことは、手短に。
大聖堂の聖歌隊は、しばらく合唱を休むことになった。言い出したのは、セレスティアさまだという。
「わたしの歌が魔物を呼んでいたのなら、止めるのはわたしの役目です」
あの人はやっぱり、悪い人じゃない。
城壁へ向かう前の晩、セレスティアさまは大聖堂の回廊でわたしを待っていた。
「フィーネさん。あなたが追放されたとき、わたし、何も言えなかった」
「セレスティアさまのせいじゃありません」
「でも、言えばよかった。わたし、あなたの歌が嫌いじゃなかったんです。そう言いかけて、やめました。あの場で言っても、からかっているようにしか聞こえないと思って」
金の髪の聖女さまは、恥ずかしそうにうつむく。
「いつか、わたしにも外し方を教えてください」
「無理だと思います。それ、教わってできるものじゃないので」
セレスティアさまが、初めて声を立てて笑う。
ノアさんとわたしは城壁の上で幾晩か歌い、魔物の群れを散らした。大司教さまは最後に、わたしたちに向かって深々と頭を下げる。聖堂の恥と言ったのと同じ口で、今度は聖堂の宝だと言うのだから、人の口というのは忙しい。
わたしは、どちらの言葉にも、あまり興味がない。
◇
今、わたしたちはヴェルデにいる。
王都に何かあれば駆けつける。それが大司教さまとの約束で、それ以外の日は、丘の上の小屋と礼拝堂を行ったり来たりの暮らし。
ノアさんの喉は、前よりさらにかすれてしまった。それでも、小さな声なら音を外さない。わたしはあいかわらず、少しだけずれる。
朝の礼拝で、ふたりで祈りの歌を歌う。
前列のおじいさんが、笑顔のまま両手で耳を押さえる。山羊たちが柵の中で、身を寄せ合って震えている。トビは、げらげら笑い転げている。
「やっぱり、こっちのほうが面白いや」
歌い終えると、隣でノアさんがぼそりと言った。
「今日も、ひどかったな」
「ひどかったですね」
礼拝堂を出て、丘へ向かう道を並んで歩く。
「後悔、していませんか」
「何をだ」
「わたしに歌を教えたこと。喉のこと」
ノアさんは少し考えてから、かすれた声で言った。
「正しく歌えたころより、今のほうが楽しい」
「ひどい歌なのに?」
「ひどい歌なのに、だ」
それから、聞き取れないほど小さな声で、続きを付け足す。
「君が隣で外すからな」
聞こえなかったふりをするのに、わたしはずいぶん苦労した。
蜂蜜入りのお茶を、ふたり分淹れよう。
上手くならないように。明日も、一緒に歌うために。
お読みいただき、ありがとうございました!
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