断罪のれーじょー ――殿下、今更貴方が後悔したってもう遅いですぅ――
エルンスタイン公爵邸の裏庭には、古い石造りの東屋があった。
蔦の絡まった柱、苔むした石畳。夏になると白い花が咲き乱れるそこは、子供たちにとって「秘密の王城」だった。使わなくなった木箱を積み上げて玉座にして、カーテンの切れ端を腰に巻いてマントにして、母親の古いリボンを頭に乗せて王冠にする。
今日集まったのは、四人。
エルンスタイン公爵家の孫娘、レティ、八歳。黒髪と紫の瞳は、祖母のヴィオレットから受け継いだと言われている。
アルディア王家の縁戚、フィン、十歳。金の髪は父親ゆずり、しかし生真面目な顔つきは誰に似たのか。
侯爵家の子息、クロ、九歳。おっとりしているが観察眼が鋭い子だ。
そして、ハイン侯爵家からやってきた留学生、イザ、八歳。薄茶の髪に緑の瞳。祖先から受け継いだという、底知れない笑みを時折見せる。
「今日のごっこ遊びはね、おばあさまの若い頃のお話をやるの」
レティがその場を仕切り、そんな提案した。
「ヴィオレット様のあの断罪のやつ?」
フィンが目を丸くしてそう言うとレティが頷く。
「そう。有名でしょ。大広間で王太子殿下に婚約破棄を宣言されたのに、全部証拠を出して言い返したやつ」
「聞いたことある」と言ってクロが頷いた。
「うちのお父さんが、あれは見事だったって何度も言ってた」
それに同調するようにイザも「私のおばあさまも話してくれたよ」と。
イザが続ける。
「あの夜に正体を明かした謀略者の役の話」
四人が顔を見合わせた。
「じゃあイザはリーゼロッテ役ね」
レティが即座に決めた。
「私がヴィオレット。フィンが王太子。クロが読み手」
「なんでぼくが読み手……」
クロがぼやいた。
「あなたが一番声が通るから」
「……まあ、いいか」
フィンが木箱の玉座に乗った。
レティが広間の中央に立った。
イザが端のほうで、目を伏せて控えた。
「じゃあ、はじめるよ」
クロが咳払いをした。
「王城の大広間は、今宵ひときわ華やかに飾り立てられていた――」
◇◇◇
王城の大広間は、今宵ひときわ華やかに飾り立てられていた。
王太子殿下フェリクス・アルディアの成人を祝う夜会。招待状を手にした貴族たちが、それぞれの思惑を胸に秘め、シャンデリアの光の下で笑顔を作っている。ドレスの裾が石畳の上を滑り、グラスの触れ合う澄んだ音が、会話の波間に消えていく。
その中心に、ヴィオレット・フォン・エルンスタインは立っていた。
公爵令嬢として相応しい深紅のドレス。完璧に整えられた黒髪。いつもと変わらぬ、冷たく美しい微笑み。誰もが彼女を見るたびに、まるで彫像のようだと言った。それを褒め言葉だと思って受け取ってきた。
だが、今夜の自分がいつもと違うことは、ヴィオレット自身が一番よく知っていた。
指先が、わずかに震えている。
「皆よ、少し耳を貸してくれ」
フェリクス王太子の声が広間に響き渡った。ヴィオレットの婚約者。金の髪に青の瞳を持つ、絵本から抜け出たような美貌の青年。しかし今夜、その顔には普段の柔らかな笑みがなかった。
「今宵、正式に申し上げなければならないことがある。余は、ヴィオレット・フォン・エルンスタインとの婚約を、破棄する」
静寂。
一瞬の、完全な静寂が広間を満たした。
それから――ざわめきが波のように広がった。
「婚約破棄……?」「なぜ……公爵令嬢が何を……?」「あの氷の令嬢が何かしたのか」
ヴィオレットは動かなかった。微笑みも崩さなかった。ただ、胸の中に奇妙な感覚があった。予想していた、という安堵にも似た感覚と、それでもこうして実際に言葉にされると、やはり違うものだ、という醒めた認識。
フェリクスが、隣に立つ少女の手を取った。
薄茶色の髪に、緑の瞳。地方貴族の令嬢、リーナ・ヴァン・クライスト。清楚で、慎み深く、誰にでも優しい笑顔を向ける。半年前から王都の学院に転入してきた彼女は、たちまち学院中の人気者になった。
「リーナは、余が真に愛する人だ。彼女の潔白を、ここで皆に証明したい」
フェリクスの目がヴィオレットに向いた。怒りを帯びた、非難するような視線。
「ヴィオレット。お前がリーナに行ってきた行為を、ここで明らかにする。嫌がらせの手紙。食事への異物混入の試み。社交界での評判を貶めようとした工作。――これらはすべて、お前の指示によるものだな」
広間がまた静まり返った。
ヴィオレットは、ゆっくりと口を開いた。
「……そうですね」
◇◇◇
「ちょっと待って!」
フィンが木箱の上で片手を上げた。
「え、何、今いいとこなのに」
レティが不満そうに言った。
「台詞がわからなくなってきた。王太子の次ってなんて言うんだっけ。『否定しないのか』?」
「そう。でもその前にヴィオレットが『そうですね』って言って、大広間がどよめくのよ」
「どよめきはクロが担当ね」
イザが穏やかに言った。
「ぼくが全部やるのか……」
クロがため息をついた。
「読み手とどよめきと、他に何かやる?」
「時々、通行人の貴族とか、侍女の声とか」
「それも全部ぼく?」
「あなたが一番声が通るから」
「……それ、さっきも言った」
レティは草の上にぺたんと座り込んだ。
「ねえ、フィン。この話、知ってる? ヴィオレットおばあさまがどうして証拠を用意してたか」
「知ってる。フェリクス殿下が騙されてるってわかってたから、ちゃんと準備してたんでしょ」
「そう。でも最初から全部計算してたんじゃなくて、あの謀略者の人の正体がわかってから、じゃないと間に合わなかったって話を聞いた」
「ふーん」
フィンが考え込んだ。
「じゃあ、正体がわからなかったらどうなってたの」
「そのままただ断罪されてたんじゃない?」
「怖いな」
「怖いよ」
レティは頷いた。
「だから、調べることが大事なんだよって、おばあさまはいつも言ってた。自分の目で確かめなさいって」
イザが静かに言った。
「私のおばあさまも、同じことを言ってた。相手の言葉だけを信じるな、自分で動いて確かめろって」
「イザのおばあさまって、本当にリーゼロッテ様なの?あの策略者の?」
クロが訊いた。
「そう」
イザはあっさり答えた。
「ひいおばあさまだけど。有名な話でしょ、うちの家系では」
「謀略者の子孫と仲良くなるって、なんか物語みたい」
フィンが感嘆した。
「だからこうしてごっこ遊びになってるんでしょ」
レティが笑った。
「じゃあ続けよう。クロ、どよめきよろしく」
「……了解」
◇◇◇
その一言で、広間の空気が凍りついた。
「否定しないのか」とフェリクスが眉を寄せた。リーナは目を伏せ、か細い声で「ヴィオレット様……」と呟いた。傍らに立つ学院の友人たち――グレイン侯爵子息、ユーリ伯爵令嬢、武官のゾルタン――が、ヴィオレットを非難するような目で見ている。
「否定しません」
ヴィオレットは繰り返した。
「ただ――少し、順番が違います」
「何?」
「私がしたこと、しなかったこと、できなかったこと。それを、きちんとお話しします。折角の機会ですので」
涼しい声だった。怯えも、怒りも、哀しみも、表面には出ていない。ただ静かに、まるで天気の話でもするように彼女は語った。
「手紙については、確かに私の名を騙ったものが届いたと聞いています。ですが私は一枚も出していない。筆跡も封蝋の紋章も偽造されたものです。これについては証拠があります」
「言い訳を……」
「証拠、と申しました。殿下」
ヴィオレットは懐から書類を取り出した。
「手紙の筆跡鑑定。私の自筆と、問題の手紙。専門家三名の鑑定結果です。別人の書いたものだと、明記されています」
フェリクスの顔が揺れた。
「食事への異物混入についても同様です。その日、私は昼食を共にする予定でしたが、当日の朝に頭痛で欠席しました。侍女が証言できます。私が厨房に指示を出せる状況ではありませんでした」
「ならば使用人に命じたのでは……」
「そうおっしゃるなら、その使用人をここへ呼んでください。私の命を受けたという者を。私は逃げません」
沈黙。
フェリクスが視線をリーナに向けた。リーナは俯いたまま、何も言わなかった。
「社交界での評判工作について」
ヴィオレットは続けた。
「これは、半分は事実です」
広間がまたざわめいた。
「私はリーナ様について、いくつかの方に話をしました。ただしその内容は、『転入してきたばかりで右も左もわからない令嬢がいる、よろしくしてやってほしい』というものです。実際にそうお願いした方々が、今夜もここにいらっしゃいます」
会場の一角から、老齢の伯爵夫人が静かに頷いた。もう一人、中年の男爵も。
「私が彼女の評判を『貶めようとした』のではなく、むしろ『助けようとした』のです。ただ……それがうまく伝わらなかった。あるいは、誰かが故意に歪めた」
ヴィオレットの視線が、ほんの一瞬、リーナへと向いた。
リーナの指先が、ぴくりと動いた。
◇◇◇
「ねえ」
フィンが口を挟んだ。
「ここで一個、ずっと思ってたこと聞いていい?」
レティが眉を上げた。
「何?」
「王太子が、なんでそんなに簡単に騙されたの? 婚約者がいるのに半年で現れた知らない子の言葉だけ信じて、断罪とか、普通に考えたらおかしくない?」
少しの間、四人が黙った。
「恋愛ってそういうもんじゃないの」
クロが言った。
「でも王太子だよ? 国のトップになる人だよ? もうちょっとしっかりしてほしい」
「だから若い頃の失敗として語り継がれてるんでしょ後でちゃんと反省して、いい王様になったって話だし」
そうレディが返すと、フィンが難しい顔をした。
「反省して良かった、でも遅かった……か。なんか複雑だな」
「複雑でいいんだよ」
イザが穏やかに言った。
「うちのひいおばあさまも、全部が正しかったわけじゃないって言ってたって聞いてる。フェリクス殿下を利用したのは事実だから」
「でも、お父さんの名誉を取り戻したかったんでしょ。仕方なかったんじゃ」
「仕方なかったことと、正しかったことは、別の話だって」
フィンがしばらく黙ってから、「……イザ、なんか大人っぽいね」と言った。
「そう?」
イザが首を傾げた。
「普通のことを言っただけだけど」
それから「続けよう」レティが仕切り直した。
「リーゼロッテ様が正体を明かすところから」
「はい」
イザがすっと表情を切り替えた。控えめで消え入りそうだった顔が、静かに、しかし確かに変わった。
「では、私のターン」
◇◇◇
「では聞こう」
フェリクスが声を荒げた。
「お前はリーナに何もしていないと言いたいのか。彼女が泣きながら余に打ち明けた話は、すべて嘘だったと?」
ヴィオレットは少し間を置いた。
「……私がしたこと、正直に申し上げましょう。それが今夜の私の役目だと思っています」
彼女は、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「私はリーナ様に、冷たくしました。学院の廊下で挨拶されても、最低限の返事しかしなかった。茶会に招こうともしなかった。あなたのような出自の方と親しくするつもりはない、と、直接言ったこともあります」
フェリクスが目を細めた。
「ほら見ろ、やはり――」
「ですが理由があります」
「……聞こうか」
「殿下が、リーナ様に特別な関心を向けているのを、私は早くから気づいていました。婚約者として、当然の危機感がありました。彼女が何者であるか、どんな意図を持って学院に来たのか、確かめたかった」
ヴィオレットは続けた。
「調べました。リーナ・ヴァン・クライスト令嬢。クライスト男爵家。表向きはそうですが、実際には、その家は三年前に没落しています。現在の戸籍は、非常に不自然な形で作られたものです。私はこれを、先月発見しました」
広間がざわついた。
「でたらめを言うな!」
フェリクスが怒鳴った。
「でたらめであれば、王家の調査部にお調べいただければよい。私は書類を用意しています」
再び、書類が取り出された。
「さらに申し上げます。リーナ様が私について訴えた件のいくつかは、タイミングが奇妙です。私が食事の場にいない日に、食事に問題があったと報告された。私が王都を離れていた週に、手紙が届いたとされた。これを偶然と言うのは、少し無理があります」
リーナが顔を上げた。その目に、初めて別の何かが宿った。
ヴィオレットと目が合う。
リーナは、微笑んだ。ほんの少し、今まで見せたことのない、鋭い笑みを。
「ヴィオレット様」と彼女は言った。
「さすがですね。そこまでお調べになっていたとは」
「リーナ……?」
雰囲気の変わった彼女をフェリクスが困惑した顔で見た。
「でも、遅かったんです」
リーナの声が変わった。柔らかく消え入りそうだった声が、落ち着いた、すっきりとした声音になった。
「もう、全部終わっているから」
◇◇◇
「すごい!イザ、本物みたい!」
イザの演技を見ていたクロが思わず叫んだ。
するとイザはすっと「リーゼロッテ」の顔から戻ってきた。そして涼しい顔で、「ありがとう」と言う。
「でも、なんで急に変わったの、あそこ」
フィンが目を丸くしている。
「さっきまで控えめな感じだったのに」
「役の中で、ちょうど切り替わるところだから」
イザは淡々と説明した。
「そこまでは謀略のために演じていた顔。そこから先は本当の自分。だから、変えたの」
「よく思いついたね」
「うちの家では、ひいおばあさまがよく演じていたって話があるから。正体を隠した顔と、本当の顔の切り替え方を」イザは少し考えてから付け加えた。「家の教育みたいなもの、かな」
「それは……なんというか」
フィンが慎重に言葉を選びながら言う。
「大変だったね、その家系」
「そうだね」
イザはあっさり頷いた。
「でも今は問題ない。ハイン家の名誉は回復されたし、おばあさまもひいおばあさまも、満足していたって聞いてる」
レティが少し黙ってから言った。
「ね、イザ。ヴィオレットおばあさまと、リーゼロッテひいおばあさまって、その後どういう関係だったの?」
「敵でも友達でもなく、かな」
イザはゆっくり言った。
「あの夜以来、二度と会わなかったって。でも、ヴィオレット様の研究施設が東部で役に立ったとき、ハイン家が一番多く寄付したって話は聞いた」
「……なんか、それはそれで、いい話だね」
クロが静かに言った。
「うん」レティが頷いた。
「続けよう。正体明かしのところから」
◇◇◇
リーナ・ヴァン・クライストは、すっと前へ出た。
か細い印象だった体が、今は違って見えた。背筋が伸び、顎が上がり、まるで別人のようだった。
「正確に言えば、私の本名はリーナではありません。リーゼロッテ・ハイン。かつてアルディア王国の東部に存在した、ハイン侯爵家の末娘です」
今度の静寂は、先ほどより長かった。
「ハイン侯爵家……」
誰かが呟いた。
「八年前に、謀反の罪で取り潰しになった……」
「そうです」
リーゼロッテは微笑んだ。
「その一族の生き残り。父は処刑され、母は病死し、兄は逃亡中に行方不明になった。私は七歳でした。辺境の農家に匿われ、十五年、機会を待った」
「謀反人の娘だったのか……!?」
フェリクスが青ざめた。
「謀反ではありません。冤罪です。我が父が謀反の証拠として提出されたものは、すべて偽造でした。誰かが父を嵌めた。父が持っていた東部の鉱山利権を、奪うために」
リーゼロッテの目が、フェリクスを真っ直ぐに見た。
「その誰かは、現在も王宮の中枢にいます。あなたの傍にいる、信頼できる人物として」
フェリクスが凍りついた。
「私がこの学院に来たのは、証拠を集めるためです。王都に近づく方法として、王太子殿下に近づくことを選びました。申し訳なかったとは思っています。あなたを利用した。でも、達成しなければならないことがあった」
「では……余への好意も、すべて演技だったのか」
「ええ」
リーゼロッテあっさりと肯定した。
「殿下は良い方ですが、私はあなたを好きなわけではありません。目的のための手段でした」
フェリクスの顔が、今度は別の意味で崩れた。
ヴィオレットは、その一部始終を黙って見ていた。
◇◇◇
リーゼロッテが証拠として提出した書類は、圧倒的だった。
王宮の調査部が半年後に発表した調査結果によれば、ハイン侯爵の謀反事件は完全な冤罪であり、証拠を偽造したのは当時の財務長官――今は引退して子息が後を継いでいる――の一族であることが明らかになった。
リーゼロッテは、その夜宮廷を去った。どこへ行くかも言わずに。
フェリクスは、しばらく放心状態だったという。
そしてヴィオレットは。
婚約破棄はそのまま成立した。
「……なぜ、止めなかったんだ」
翌日、フェリクスはヴィオレットを呼び出した。後悔と羞恥の色が、その顔に貼り付いていた。
「あんな場所で、あんな形で婚約破棄を宣言した。余は……お前に、ひどいことをした」
「そうですね」
「詫びようにも言葉が見つからない。お前が証拠を持っていることも、彼女が偽名を使っていたことも、知っていたんだろう。なぜ事前に言わなかった」
ヴィオレットは少し考えてから、答えた。
「言っても、聞かなかったと思いますよ」
「……」
「殿下は彼女に夢中でした。私が何を言っても、嫉妬からくる言いがかりだと思ったでしょう。だから、あの場を選んだ。大勢の前で、殿下自らが断罪の言葉を口にしてから、私が反論する形が最も効果的でした」
フェリクスが目を見開いた。
「……最初から、計算していたのか」
「最初から、とは言えません。彼女がどういう人物か掴んでから、です。ただ、殿下が彼女の言葉だけを信じて私を断罪しようとしているのはわかっていましたから、準備はしました」
「お前は……」
「冷たい女だと思っていたでしょう。氷の令嬢。感情がない。そう言われてきました。でも」
ヴィオレットは窓の外を見た。
「私なりに、悩んでいたんですよ。ずっと」
◇◇◇
日が大きく傾いてきた頃、四人はひとまず遊びを区切った。
石畳の上に並んで座って、持ち寄ったお菓子を食べる。レティが侍女に頼んで持ってきてもらった焼き菓子と、フィンが懐から出した干し果実。
「ヴィオレットおばあさまって実際に会ったことある、レティ?」
クロがお菓子を齧りながら聞く。
「会ったことはあるけど、私が小さいときに亡くなったから、ちゃんと話せた記憶はあんまりないんだよね」
レティは少し寂しそうに言った。
「でも、手紙がたくさん残ってて、お母さんが読み聞かせてくれた」
「どんな手紙?」
「研究の話とか、薬草の育て方とか。あとは、若い人へのこれから向けた言葉みたいなのが多かった」
レティは少し考えた。
「後悔は、した時にはもう遅い、って言葉が、よく出てきた」
「……なんか、重い言葉だね」
フィンが言った。
「そう聞こえるけど、あのお話の中では別の意味なんだよ」
レティは膝を抱えた。
「後悔してる時間があるなら、今から動け、って意味だから。フェリクス殿下への言葉として書いてあるんだけど、おばあさま自身にも当てはまる言葉だと思う」
「というと?」
「婚約者に一方的に断罪されて、それがなかったら研究施設を作ってなかったかもしれないって話、覚えてる? あの夜がなかったら、義務として婚約者の補佐をして、本当にやりたいことを後回しにし続けたかもしれない、って」
「追い詰められないと動けないこともある、ってやつだね」
クロが頷きながら言った
「そう。だから後悔は遅い、でも動くのは今から遅くない、がセットになってる」
フィンが少し黙って考える。
「じゃあ、あのお話でいちばん大事なのって、断罪のとこじゃなくて、最後のとこなの?」
「たぶんそう」レティは頷いた。
「でも断罪がなかったら、最後にたどり着けなかったから、全部が大事なんだよ」
「……難しいな、大人の話は」
「まだ大人じゃないからわからないのかも」
レティは少し笑った。
「でも、わからなくても演じると、なんとなく伝わってくることがあるじゃない。さっきのイザの切り替えとか」
「あれは確かに伝わってきた」フィンが素直に認めた。
「続けよう」
レティが立ち上がった。
「後半、氷の下のとこ、私の好きな場面なの」
◇◇◇
「転入してきた最初の日、私は彼女に声をかけようとしました」
ヴィオレットは静かに語った。
「王太子の婚約者として、新入りの令嬢に目を配るのは当然のことです。でも、そのとき彼女はちょうど殿下と話していた。二人の様子を見て……わかりました。殿下が、彼女に惹かれているということが」
「ヴィオレット……」
「傷つきましたよ、当然。私たちは幼いころから婚約していた。別に愛し合っていたわけではないかもしれないけれど、それでも、長年連れ添ってきた相手が他の女性に熱を上げているのを見るのは、愉快ではない」
フェリクスは何も言えなかった。
「だから遠ざけようとした。彼女を孤立させようとした。でも……できなかったんです」
「できなかった?」
「実際に手紙を書こうとして、やめました。食事に何かを混ぜようとは、一度も考えませんでした。手が出なかった。私にはそういう残酷さが、なかったから」
ヴィオレットはフェリクスを見た。
「冷たい令嬢だと思われていたけれど、実際には、臆病なだけでした。感情を表に出せば、傷つく。だから出さないようにしてきた。でも、傷ついていなかったわけじゃない」
「……俺は、お前のことを何も知らなかったんだな」
「私も、殿下のことを知ろうとしなかったですから。お互い様です」
少しの間、二人は黙った。
「謝罪を受け入れてもらえるか」
「受け入れます。でも婚約を元に戻す気はありません」
「それは……」
「もともと、うまくいっていなかった。今回のことで、それがはっきりしました。殿下には殿下に相応しい方がいる。私には私の道がある。それでいいと思っています」
フェリクスは何かを言いかけて、口を閉じた。それから、静かに頷いた。
◇◇◇
その後の話は、王都中に広まった。
婚約破棄の夜会で断罪されかけた公爵令嬢が、実は無実だった。王太子が一人の少女の言葉だけを信じて暴走し、手痛い失態を晒した。その少女は正体を偽った謀略者だったが、その目的は一族の名誉回復という正当なものだった。
評価は複雑に分かれた。
フェリクス王太子については、軽率だったという批判が多かった。信頼すべき婚約者より、半年前に現れた少女を一方的に信じた判断力のなさ。大勢の前でのパフォーマンスへの批判。しばらくの間、彼は非常に肩身の狭い思いをした。
リーゼロッテことリーナについては、特に意見が割れた。目的のために人を利用したことへの非難。しかし一方で、七歳から十五年かけて父の名誉を回復しようとした執念への、称賛する声も確かにあった。彼女はその後、東部の鉱山利権の一部を取り戻し、新たなハイン家として再出発したという。
そしてヴィオレット・フォン・エルンスタインは。
婚約破棄後、しばらく社交界から距離を置いた。エルンスタイン公爵家は揺るがなかった。父は娘の行動を「適切だった」と評した。母は「あの子らしい」と苦笑した。
半年後、ヴィオレットは王都の外に小さな研究施設を設立した。薬草学と医療の研究。彼女が学院で最も熱心に取り組んでいた学問。婚約者の教育係として費やしてきた時間ではなく、自分のための時間。
「氷の令嬢が、医療研究者になったそうだ」
そんな噂が広まった頃、フェリクスはヴィオレットの施設を訪問した。
◇◇◇
施設の庭で、ヴィオレットは薬草の手入れをしていた。
深紅のドレスではなく、作業着。黒髪は無造作に束ねられている。それでも、彼女は美しかった。いや、以前よりどこか、柔らかく見えた。
「……来たんですか」
「邪魔なら帰る」
「邪魔ではありません。どうぞ」
フェリクスは施設を案内してもらった。研究室、薬草棚、小さな図書室。助手として働く若い男女が、ヴィオレットの周りで活き活きと動いていた。皆、彼女を慕っているのが見てとれた。
「……知らなかった。お前がこういうことに興味を持っていたとは」
「聞いてくれなかったから」
「そうだな」
「前までは王太子の婚約者として必要なことを学んでいました。それが私の義務だと思っていたから。本当にやりたいことは、後回しにしていた」
ヴィオレットは植物に視線を落としたまま言った。
「でも今は、こうしてやりたい事をやっています。婚約が破棄されて、良かったかもしれない」
「…………」
「傷つきましたけれどね。大勢の前で断罪されたのは、愉快ではなかったので。でも、それがなければここには来なかった。人間、追い詰められないと動けないこともある」
「俺は、お前に謝り続けなければならないな」
「もう謝罪は受け取りました」
ヴィオレットは顔を上げた。
「それより、どうして来たんですか。本当の用件を聞かせてください」
フェリクスは少し黙ってから言った。
「……お前が、羨ましかった」
「羨ましい?」
「俺は今も、王太子だ。次の王になる。そのための教育を受けている。義務と責任の中で生きている。でもお前は……好きなことを見つけて、それをやっている。楽しそうに見える」
ヴィオレットはしばらく彼を見た。
「殿下は、本当は何がやりたいんですか」
「それを俺は考えたことがなかった」
「そうですか」
「お前みたいに賢ければ……もっと早く気づけたかもしれない。俺はリーナに心を惑わされて、大切なものを見えなくして、余計なことをした。その間、お前はずっと、自分の頭で考えていた。俺には、それができなかった」
ヴィオレットは草の一本を丁寧に除いてから、立ち上がった。
「後悔していますか」
「している」
「遅いですよ」
きっぱりと、しかしあの日のような残酷さはない声だった。
「私はもう、前を向いています。殿下がどれだけ後悔しても、あの夜は戻ってこない。私があの夜感じた恥も、悔しさも、消えない。消えないから、ここを作った。だから今更、謝られても、同情されても、私には何も変わりません」
「……そうだな」
「でも」と彼女は続けた。
「殿下がこれから何をしたいか、何をすべきかを考えるなら、それは今からでも遅くない。後悔は過去へのもの。未来は、これから作るものです」
フェリクスはしばらく黙っていた。
庭の風が、薬草の葉を揺らした。
「……俺に、友人として付き合ってもらえるか。婚約者としてではなく」
「条件次第です」
「条件?」
「研究の支援をしてください。資金援助でも、研究書類へのアクセスでも。王家の名があれば、動かせるものがある」
フェリクスは思わず笑った。
「相変わらず、現実的だな」
「感傷的になっている場合ではありませんから」
ヴィオレットも、少し笑った。それは広間で見せた冷たい微笑みではなく、もっと素直な、人間らしい笑みだった。
「……約束する。君のことを支援しよう」
「では、友人として付き合いましょう」
◇◇◇
ごっこ遊びが終わった頃には、東屋に夕焼けの光が差し込んでいた。
四人はしばらく、誰も何も言わなかった。
クロが最初に口を開いた。
「……終わってみると、長いお話だったな」
「うん」
レティが頷いた。
「でも、全部必要な場面だったよね。どこか抜けても、意味が変わっちゃう気がする」
「ヴィオレットおばあさまを演じてみて、どうだった?」
フィンがレティに訊いた。
レティは少し考えた。
「最初は、かっこいいお話だと思ってた。証拠を出して言い返して、断罪してきた相手に後悔させて、ざまあみろって感じの。でも演じてみたら、違って見えてきた」
「違って?」
「ヴィオレットおばあさまって、結局ずっと傷ついてたんだよね。氷の令嬢だって言われて、感情がないって思われて、でも本当は臆病で、傷ついていたから感情を出せなかった。かっこよさの裏にそれがあると思ったら、なんか」
レティは少し黙った。
「ちょっと、かわいそうだと思った。同時に、すごいとも思ったけど」
「かわいそうで、すごい」
クロが繰り返した。
「それって、矛盾してる?」
「矛盾してないと思う」
イザが静かに言った。
「傷ついたまま立ってた人が、その傷を使って前に進んだんだから。かわいそうなことと、すごいことは、同時にあっていいんだよ」
四人がまた少しの間、黙った。
夕焼けが東屋を橙色に染めていた。蔦の葉が風にゆれる。遠くで、夕食を知らせる鐘の音が聞こえてきた。
「また来週もやろう」
フィンが言った。
「今度はもっとうまく台詞を言う」
「断罪のとこ、ちゃんと覚えてきてね」
レティが笑った。
「途中で『えっと』って言わないように」
「言ってない!」
「言ってた」
クロとイザが同時に言った。
「……ぼくの友達、全員ひどい」
笑い声が東屋に広がった。
子供の笑い声は、石畳に跳ね返って、蔦の葉をくぐって、夕空に溶けていった。
ヴィオレットが若い頃に戦い、傷つき、それでも立ち上がった夜から、何十年もの時間が過ぎていた。
彼女の移した行動は、今はこうして子供たちのごっこ遊びの一つになった。
それは、悪いことではないと、きっとヴィオレット自身も思っただろう。
伝わっている。ちゃんと、伝わっている。
◇◇◇
後日談として伝わる話がある。
フェリクス王太子はその後、慎重で誠実な王として民に慕われた。若い頃の軽率な判断を、彼は生涯忘れなかったという。それが彼を、謙虚にした。
リーゼロッテ・ハインは東部に戻り、父の名誉回復に尽力した。その後、長年の宿敵である財務長官の子息を法廷で追い詰め、鉱山利権を取り戻した。彼女は生涯独身を貫き、ハイン家の再建に人生を捧げた。
そしてヴィオレット・フォン・エルンスタインの研究施設は、十年後には王国最大の医療研究機関になっていた。彼女が開発した薬草由来の解熱剤は、多くの命を救った。
婚約を破棄された公爵令嬢の末路として、人々が予想したものとは全く違う結末だった。
ある日、古い記録を調べていた若い歴史家が、その夜会の記録を読んで首を傾げた。
断罪したはずの王太子が謝罪し、断罪されたはずの令嬢が繁栄し、救われたはずのヒロインが謀略者だった。
いったい誰が、誰に、何を「断罪」したのか。
正解は、おそらくない。
ただ確かなのは、ヴィオレットがあの夜に泣かなかったこと。取り乱さなかったこと。大勢の前で、静かに自分の足で立っていたこと。そしてその後、誰の助けも借りずに、自分の道を歩き始めたこと。
王都の貴族たちは後に言った。
「あの令嬢は、最初から一人でも平気だったんだろう」
そんなことは無い、とヴィオレットは思っただろう。
一人は寂しかった。傷ついていた。あの夜、部屋に戻ってから、声を上げて泣いた。誰にも言わなかったが、翌朝目が腫れていた。
でも、泣いたあとで立ち上がった。
だからこそ、何十年かの後、子供たちのごっこ遊びになれた。
東屋に夕焼けが差して、笑い声があがって、「えっとって言ってない!」「言ってた!」と誰かが言い張る声が響いて。
それが伝わり方というものだ、とヴィオレットならきっと、少し笑いながら言っただろう。
感傷的になっている場合ではありません、と付け加えながら。




