22話 感情の鍵盤
音楽室は、熱を残したまま静寂に沈んでいた。
照明の薄明かりだけが、鍵盤を淡く照らしている。
「……千秋。座って」
「はい、お姉様」
千秋は姿勢を正し、ピアノの前に座った。
その手は――コンクールで幾度も喝采を受けた、磨かれた指先。
雪乃は隣へ腰を下ろした。
「千秋。今日のライブ……あなたは自分の限界を超えかけていた」
「……はい。
でも、まだ届かないと……思いました」
「ええ。届いていない」
はっきりと言い切られ、千秋の肩が震える。
「安心して。
“届く場所”を知っている私が隣にいる」
千秋はその一言だけで涙が出そうになった。
「千秋。弾いてみせて」
「……曲は?」
「“今のあなた”の音を。
楽譜は忘れて。
あなたの心のままに」
千秋は深呼吸し、鍵盤へ手を落とす。
一音――
それは完璧で、美しい。
二音、三音――
精密。洗練。日本最高峰の演奏。
だが。
「――そこ止めて」
雪乃の声が、千秋の集中を断ち切った。
「……どうして、止めるのですか?」
「技術は満点。
だけど、あなたの音は――“義務の音”」
「……っ!」
胸が締めつけられる。
「千秋。あなたは“隠者(The Hermit)”なの」
「……隠者?」
「心の奥に光があるのに、
誰にもちゃんと見せようとしない。
完璧さで閉じ込めてきたから」
雪乃はそっと眉根を寄せる。
「感情を隠す癖が音に出るの。
だから――人の心を震わせきれない」
千秋の指が小さく震えた。
「千秋。今日、あなたは何を感じた?」
「……わたくし……
初めて……心ごと音を捧げたいと思いました」
言葉は震えたが、迷いはなかった。
「誰のために?」
「……雪乃さん。
あなたのために……弾きたいです」
その告白を聞き――
雪乃の胸が、ほんの少しだけ熱を帯びた。
「なら――その気持ちを音にしなさい」
雪乃は千秋の手の上に、そっと自分の手を重ねる。
ぴたりと密着する温度。
「“好き”の音を教えて。
私に――あなたの恋を聴かせて?」
千秋は唇を震わせながら、鍵盤へ指を置く。
そして――
柔らかく、甘く、痛いほど真っ直ぐな音が溢れた。
雪乃は、思わず息を呑む。
涙が頬を伝う千秋。
雪乃はその横顔を、黙って受け止めた。
「もう一度。
今度は――全てをさらけ出して」
「はい……お姉様」
音楽室に、二人だけの世界が存在した。
言葉はいらない。
音だけで、想いが通じる。
雪乃は、胸の奥で静かに思った。
(この子となら……
きっと、あの曲を……)
再び、雪乃の中の“何か”がそっと灯る。
それはまだ名もなき光。
でも確かに――前へ進むための光だった。




