20話 土下座
爆音と光の渦が消え、体育館に静寂が戻った。
ステージ上には、熱気と汗、興奮の残り香だけが漂っている。
観客席はまだざわめき、歓声の余韻が壁や床に反響している。
胸の奥に余韻の熱が残り、鼓動が速まる。
私たちは――大成功だった。
けれど同時に――身体は完全にクタクタだった。
舞台裏。
ギターを降ろし、肩で息をする。
汗で額に髪が張り付き、腕のだるさが残る。
結衣はスティックを握ったまま座り込み、荒い呼吸を整える。
その手元の震えに、熱量と緊張の名残を感じた。
「……はぁ、はぁ……やったね」
結衣が笑みをこぼす。
汗だくの髪が額に貼り付き、シャツも汗で肌に張り付いている。
「でも……最高の思い出になった……」
彼女の声には、疲労の中の満足感が滲んでいた。
秋香も息を整えながら私に近づき、軽くハグして手を握る。
「本当に、良いライブでしたわ」
私も微かに頷き、全員で手を重ねる。
「……みんな、ありがとう」
手の温もりが胸に伝わる。
汗でべたつくけれど、今この瞬間の輝きは何物にも代えられない。
舞台裏の狭い空間で、荒い呼吸を整えながら、私はふと気づく――
学生生活って、こんなにも面白かったんだ。
友達と笑い合い、同じ熱量で音を鳴らし、心の底から「楽しい」と思える瞬間が、こんなにもあるなんて。
胸の奥がじんわり熱くなる。
青春の痛みも悔しさも、すべてが今、光を帯びて輝いている。
私は思わず小さく笑みをこぼした。
「……学校って、悪くないわね」
汗まみれの体に、胸の高鳴りが重なり、クタクタでも軽やかに心が跳ねる。
しばしの静寂の後――
千秋が、静かに私の前へ進み出た。
舞台袖の雑踏が嘘のように遠のく。
彼女の足音だけが、やけに鮮明に耳に残った。
顔は真っ赤で、耳まで染まっている。
肩で息をしながら、それでも一歩ずつ、確かめるように距離を詰めてくる。
そして――
すとん。
膝が床につく音が、やけに綺麗に響いた。
「……っ?」
思考が追いつく前に、彼女は姿勢を正す。
背筋は伸び、膝の位置も揃い、両手は太ももの上で指先まできちんと閉じられている。
そのまま、迷いなく――
深く、深く、額を床へ。
完璧な角度。
完璧な所作。
まるで何度も練習したかのような、非の打ちどころのない土下座だった。
「お姉様……弟子にしてください!!」
声は震えているのに、姿勢は一切崩れない。
舞台裏の空気が、一瞬で凍りついた。
「………………」
誰も、すぐには声を出せなかった。
結衣が、目を丸くしたまま固まる。
「……え? え? いま……土下座……?」
秋香は口を半開きにし、完全に思考停止している。
汗の残る頬に照明の光が反射し、表情だけがやけに生々しい。
そして――
「ちょ、ちょっと!?!?」
私の声だけが、裏返って響いた。
「なにしてるの千秋!? い、いきなりそれは違うでしょ!?
ちょ、顔上げて! 床! 床汚いから!!」
慌てて一歩下がる。
いや、違う、下がりたいわけじゃない。
この状況から距離を取りたいだけだ。
千秋は顔を上げない。
額を床につけたまま、必死に言葉を紡ぐ。
「少しの時間だけでもいいです……!
お姉様の近くで……音を、感じさせてください……!」
両手が、ぎゅっと床を掴む。
指先が白くなるほど、力が入っているのが分かる。
私は言葉を失った。
(……重い……!
気持ちが重いっていうか、絵面が重い……!!)
結衣が、ひそひそと耳打ちする。
「ゆ、憂ちゃん……これ……どうするの……?」
「どうするって……私が聞きたいわよ……!」
千秋の声が、さらに震える。
「お姉様の曲……
あの音のすべてに……一目惚れしました……!」
床に伏せたままなのに、声だけは真っ直ぐだった。
「どうしても……
その熱量を、指先を、胸で感じたいんです……!
少しの時間でも構いません……!
どうか……お願いです!!」
ぽた、と。
床に、涙が落ちる。
嗚咽を必死に噛み殺しながらも、姿勢は崩れない。
逃げない。
引かない。
ただ、音楽に恋をした少女の覚悟だけが、そこにあった。
「………………」
私は、しばらく黙って千秋を見下ろす。
断る理由はいくらでもあった。
責任。時間。距離感。立場。
それなのに――
胸の奥が、わずかにざわつく。
(……ああ、もう……)
私は小さく、深く、ため息をついた。
「……無理よ、千秋」
そう言った瞬間、
千秋の肩が、びくりと揺れた。
それでも、顔を上げない。
その必死さが、
その綺麗すぎる土下座が、
逆に私の冷静さを、完全に奪っていた。
「……もう……」
私は額に手を当てる。
「分かったから……分かったから、顔上げて……
土下座は……ほんとに、心臓に悪いから……」
ゆっくりと、千秋が顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃなのに、
その瞳だけは、期待と不安で真っ直ぐ私を見つめていた。
私は視線を逸らし、渋々、言葉を続ける。
「……弟子とか、そういう大袈裟なのは認めない。
期間限定。条件付き。
それでいいなら……考える」
一瞬、時が止まった。
次の瞬間――
「……っ、はい!!」
声が、弾ける。
結衣が肩を落とす。
「……助かった……舞台裏で土下座事件は勘弁……」
秋香は苦笑いしながら、小さく呟く。
「……あれは……本気すぎる……」
私は内心で頭を抱えながら、もう一度ため息をついた。
(……完全に、厄介な子に目をつけられた……)
それでも。
心のどこかで――
音楽が、また誰かの人生を動かしてしまったことを、
否定しきれずにいる自分がいた。
――だからこそ、なおさら厄介なのだ。
「……しかたないわね。少しだけよ」
千秋の顔がぱっと明るくなる。
目に涙を浮かべ、喜びを全身で表す。
「はい……!ありがとうございます!!」
舞台裏の全員が一斉に私たちに視線を向ける。
静まり返った空気の中で、彼女の歓喜が余計に際立つ。
私は微かに笑い、千秋の肩を軽く叩く。
汗と熱狂、歓声の余韻――
すべてが、私たちの小さな勝利の証だった。
クタクタでも、心は軽い。
胸の奥に夏の怒りと熱狂の余韻が深く刻まれ、まだ鼓動が止まらない。
千秋の必死さを見た瞬間、私の中の小さな“扉”がひとつ、静かに開いた気がした。
この日、この瞬間が――青春の一部として、確かに胸に残る。




