18話 リハーサル
「次はどこに参りましょうか……お姉様?」
千秋が、少しだけ声を甘くして問いかけてくる。
その響きには、先ほどまで見ていた乗馬ショーの余韻が、まだ色濃く混じっていた。
砂を蹴り、観客の視線を一身に集めて駆け抜ける馬と騎手。
張りつめた緊張と、解き放たれる瞬間の解放感。
胸の奥に、まだ微かな振動が残っている。
「乗馬……悪くなかったわね」
私は歩調を落とし、素っ気なく答える。
「意外と堂々としてたじゃない」
「そ、そうですか……?」
千秋は一瞬目を丸くし、すぐに花がほころぶように笑った。
「ふふ……また見てくださるなら、わたくし、もっと頑張りますわ」
その言葉に返事をしようとした瞬間――
私の携帯が、短く震えた。
画面に並ぶ文字は、やけに慌ただしい。
『憂ちゃん、千秋ちゃん! 大変!!
生徒会組の出し物で、ピアノとボーカルが欠員になったって!
二人にお願いしたいらしい……!』
思わず、足を止める。
「どうしますか……お姉様?」
千秋が不安げに私を見上げてくる。
私は一度画面を伏せ、肩の力を抜いた。
即答はしない。
それが、私なりの流儀だ。
「……話は聞いてあげるわ」
一拍置いてから、淡々と続ける。
「それでやるかどうかは、曲次第よ」
「え……!」
千秋の胸が、はっきりと跳ねるのがわかった。
「もちろん、千秋も巻き込むけど」
視線だけを向けて、静かに言う。
「やる気は、あるんでしょう?」
冷たい声。
でも、拒絶ではない。
「はい……もちろんですわ」
千秋は小さく拳を握りしめる。
「お姉様と一緒なら、わたくしも全力で――!」
その指先に宿る熱を、私は確かに感じ取っていた。
●
音楽室は、カルテット編成用に整えられていた。
年季の入った床と壁。
木材が吸い込んできた、幾重もの音の残り香。
譜面台の金具が、蛍光灯の光を反射してわずかに揺れる。
――静寂が、息を潜めている。
扉の向こうで待っていたのは、秋香と結衣だった。
二人の表情には、隠しきれない落胆が滲んでいる。
結衣が少しうつむき、声を落とす。
「でも……ピアノとボーカルが欠員になっちゃって。
二人も、すごく楽しみにしてたのに……残念だよね」
「本当ですわ……」
秋香も小さく頷く。
「せっかくの機会でしたのに」
私は何も言わず、扉を押し開けた。
そのままステージ中央へ。
背筋を伸ばし、どこか不良じみた態度で立つ。
千秋が、思わず息を呑む。
「遅れましたわね……」
淡々と、二人を見渡す。
結衣が少し顔を上げ、安堵したように微笑んだ。
「来てくれて、本当に嬉しいよ。
これで、少し安心した」
「ま、やるかどうかは……」
私は眉一つ動かさず言う。
「曲を聴いてから決めるわ」
視線を千秋に向ける。
「あなたも、私と同じ意志でいいんでしょう?」
千秋は一瞬迷い、それから力強く頷いた。
秋香と結衣はほっと息をつき、準備を始める。
秋香がベースを抱え、丁寧にチューニングを微調整する。
私は譜面台に目を落とし、静かに口を開いた。
「……曲の雰囲気、ざっと見せてもらえる?」
結衣がタブレットを差し出す。
「これ、練習用動画。
本来はギター兼ボーカルの子が担当してたんだ」
画面に触れた瞬間――
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
(……この曲)
流れてきた旋律。
リフ。
コード進行。
――間違いない。
私が、昔作った曲だ。
他人の手で編まれ、磨かれ、
ここまで形になっている。
目を細め、息を吐く。
指先が、わずかに震える。
悔しさ。
苛立ち。
それでも――
映像から溢れ出す音は、
まるで完成されたライブのようだった。
ブレスの位置。
感情の乗せ方。
間の取り方。
(……プロ、みたいじゃない)
驚きが、胸に弾ける。
(ちゃんと……生きてる)
小学生の頃、誰にも聴かせるつもりもなく書いた旋律。
それが今、誰かの理解と努力で、ここまで研ぎ澄まされている。
悔しい。
でも――
(……嬉しい)
私は感情を声に滲ませないよう、低く抑えて言った。
「ふむ……なるほど、こういう感じね」
指先でタブレットを返す。
心の奥では、もう決まっていた。
――この曲は、私が歌う。
私はギターを手に取る。
弦を鳴らす――ジャァンッ!!
空気が、一気に変わる。
秋香が、唇をわずかに吊り上げた。
「……これで“少し”?」
「小学生の頃、ちょっと触っただけよ」
平坦な言葉とは裏腹に、
音は明らかに“天賦”だった。
結衣は、瞬きを忘れている。
私は一歩前に出て、静かに告げる。
「合わせましょう。
あなたたちの音に――私の声を重ねるわ」
私の横顔だけで千秋の喉が震えそうになる。
鍵盤に触れる指先が汗ばんだ。
千秋が――最初の音を紡ぐ。
静寂を切り裂く、鋭くも繊細な旋律。
ベースが低く熱い鼓動を刻み、
ドラムが爆ぜるように追随する。
私は――息を吸い込む。
そして、解き放つ。
鋭く
深く
凄烈な歌声。
音楽室全体が――私の感情で支配された。
秋香が息を呑む。
(心臓……直撃)
結衣の全身に鳥肌が走る。
(音が……支配してくる)
千秋は――雪乃しか見えていなかった。
(お姉様……)
ドラムが叫び、ベースが唸り、
私のギターが魂を切り裂く。
千秋の指が震えながらも正確に走る。
(この音で……お姉様の背中を押せるなら……
わたくし、指が壊れても構いません)
最後の音が、天井へ吸い込まれた。
「……っすご」
結衣が喉の震えを押さえる。
「映像とは次元が違いますわ……」
秋香が熱に濡れた声で呟く。
千秋は胸に手を当てたまま。
「雪乃さん……歌もギターも……
完璧すぎますわ……」
「ふふ……昔、ちょっと触っただけよ」
私はクールに微笑む。
「その“ちょっと”の定義を問いただしたいですわ!!」
全員、即ツッコミ。
私は照れぬまま、静かに微笑む。
――この曲は、私の過去の傷。
でも今日は――楽しんで歌わせてもらうわ。
憂がくれた、この一日で。
その横顔の美しさに――千秋の呼吸が止まりそうになる。
私はマイクを握りながら、低くつぶやく。
「さて……始めるとするか」
「ええ。必ず成功させましょう、お姉様」
千秋は揺るぎなき眼差しで応えた。
結衣が少し首をかしげて訊く。
「ねえ……この曲、憂、知ってたの?」
私は軽く肩をすくめ、少しだけ笑みを浮かべる。
視線をほんの一瞬だけ逸らし、指先に力を入れ直す。
「ちょっとね……」
言葉少なに、ごまかすように答えた。
胸の奥では複雑な感情が渦巻いていた。
――この曲が、かつて私の手から離れ、他人の手で広まったこと。
悔しさと苛立ちが混ざるけれど、表に出せば、この一日の空気まで壊してしまう。
だから、いつものクールな仮面をかぶり、言葉少なにごまかす。
――それでも、音楽室に満ちる旋律の中で、何かが浄化される気もした。
曲に感情を込めることで、過去のもやもやも整理され、
そして今――文化祭で歌う覚悟も、胸の奥で少しずつ固まっていく。
――音より強い絆が、確かにそこに生まれた。




