13話 もうひとつの私
翌朝――
憂の意識は静かに眠っていた。
代わりに目を開けたのは――私、雪乃。
ゆっくりと上体を起こすと、少し眠そうに伸びをする。
足を床につけ、冷たさを足裏で感じながらキッチンへ向かう。
朝の空気が、ひんやりと頬に触れた。
キッチンの窓から差し込む朝の光に照らされ、私の視線は食卓に落ちる。
そこにはラップで覆われた朝食の皿と、一枚のメモが置かれていた。
『憂ちゃんへ
お姉ちゃんは先に学校行ってくるね!
今日はラーメン屋、本気出すから!!
ちゃんと朝ごはん食べてね
葉月より♡』
皿の湯気はもう薄れていたが、香りは温かい。
玉子焼き。お味噌汁。芋のツルのお浸し。
文化祭の準備で忙しいはずの葉月が、わざわざ量を控えつつ心を込めて作ったことが伝わってくる。
「……葉月は、相変わらずね」
私は小さく呟き、箸を取る。
ひと口、口に運ぶ。
卵の甘さ。
お味噌汁の湯気。
芋のツルの懐かしい味。
全部が“家庭の味”――だが、私は決して感傷に浸るような顔は見せない。
胸の奥で、妹達に気を遣われる自分を少しだけ意識し、照れくさい気持ちが湧く。
けれど――今日は私の時間だ。
せっかくだから――楽しむわ。
箸を進めるたび、温かさと懐かしさが胸に染みる。
「……今日は、私の青春を楽しむ日」
鏡に向かい、髪を整える指先は、まるで昔の少女に戻ったかのように軽やかだ。
胸の奥で、小さく炎が灯る。
家を出ると、秋風が頬を撫でる。
歩道には色とりどりの落ち葉が敷き詰められ、踏むたびにカサリと乾いた音が響く。
遠くから聞こえる、自転車のブレーキ音。
私服姿のクラスメイトたちの笑い声が、冷たく澄んだ空気に溶けていく。
私は立ち止まり、舞い落ちる落ち葉を手でひらりと受け止める。
ひらひら揺れる葉を見て、軽くくすりと笑った。
「……憂の体だけど、今日は私の時間。
平凡な朝も、私の青春の一ページになる」
少し照れながらも、胸の奥がじんわり温かい。
手にした落ち葉をそっと握り、空を見上げる。
「……こんな日も、悪くないか」
風が髪を揺らすたび、胸の奥がふわっと軽くなる。
後悔はない。ただ、今日という日を、噛みしめるだけ。
校門前。
朝の光が芝生に反射し、私服の布地が揺れる。
落ち葉の上を歩く足音が小さく響き、季節の香りとともに、空気はひんやり心地よい。
約束通り、千秋が待っていた。
「おはよう、千秋」
私は自然な憂の声で挨拶する。
笑顔も仕草も、憂そのまま――だが、どこか私らしいクールさを織り込む。
「おはようございますわ、憂さん……」
千秋は挨拶を返しながらも、その完璧さに視線が止まる。
微かな違和感。だが、それを証明できるものは何もない。
「文化祭、楽しみだね」
声も目線も憂仕様。
でも、胸の奥は少しざわつく。
「ね、手……つなごっか」
憂らしい無邪気な提案。
さらりと自然に差し出された手。
「……はい」
千秋は慌てて手を重ねる。
その瞬間――
私は完璧な「憂の笑顔」を作り、そっと目を細める。
対照的に、
(……どうして……
手をつないだだけなのに、胸が苦しいの?)
千秋の心臓だけが忙しく跳ね続ける。
私は、妹の体で過ごす一日を楽しむ決意を胸に、心の中で小さく笑った。
落ち葉を踏む音、風の匂い、千秋の優しい視線。
すべてが、朝の光に包まれた「小さな青春」の輝きに変わる。
「さっ、葉月姉の学校へ行くわよ、千秋」
「え、ええっ! はい!」
千秋は笑い返しながら歩き出す。
隣で握られた手――
確かに「憂の手」のはずなのに。
理由も説明もつかない。
ただ、胸だけが先に答えていた。
私は視線を、校門ではなく光に満ちたその先へ向ける。
二人の影は、朝の道に寄り添いながら伸びていく。
今日という日が、憂の体で過ごす小さな「青春」の一ページになる――そう確信して。




