12話 姉妹の約束
家の玄関を開けた瞬間、憂は思わず目を瞬かせた。
外の風に少し冷たさを感じた体が、家の中の温かさに包まれる。
靴を脱ぎ、スリッパに足を入れると、ふわりと柔らかい畳の匂い。
そして、次の瞬間、鼻腔を突き抜ける圧倒的な香りが憂を捕らえた。
「……え?」
キッチンから、盛大な湯気。
ぐつぐつ……という濃厚な音。
鼻を刺すような豚骨の香りが、リビングの空気を支配している。
エプロン姿の葉月が、巨大な寸胴鍋をかき回していた。
腕を大きく動かすたび、鍋の湯気が周囲にふわりと漂う。
「ただいま……なにしてるの?」
「見りゃわかるでしょ。明日の仕込み!!
白凰女学院の文化祭はうちの出番ッ!!」
葉月は振り返る――その瞳は真剣そのもの。
そして、その頬には、職員室で刻まれた無言のダメージがわずかに残っていた。
「姉ちゃん、職員室……どうだったの?」
「………………」
無言のまま、親指を真横に。
まるで戦場を生き抜いた兵士のような目だ。
「今日は……“地獄”だったわ」
「やっぱり……」
憂は思わず肩を落とす。
文化祭を一緒に乗り越えた直後なのに、姉の戦いはまだ続いている。
「でも!!」
葉月はバン! とまな板を叩き、凛と声を響かせた。
「俺の妹のためなら死ねる!!
明日は世界一のラーメンで殴り込むわよぉお!!」
湯気が拍手したかのように舞う。
「この香り、この深み……
愛と恋のスープよ!!」
「恋ぇ!?!?」
「そう!!
憂が今日ちょっと転んだだけで男子全員が
成仏して帰還するぐらいの恋!!」
「そんな文化祭いやだ……」
憂は思わず頭を抱えた。
そして、胸の奥がちくり、と揺れる。
あの瞬間、誰かの視線を感じた気がした。
胸の奥が小さく波打つ。
嫉妬? それとも心配? 言葉にできない感情が混ざり合う。
「ねぇ葉月姉」
「ん?」
「明日……
ちょっとだけ雪乃姉に文化祭……見せてあげたいなって」
その言葉に、葉月は一瞬固まり――ふっと優しく笑った。
「……そういうところ、本当に偉いと思うよ」
憂は照れくさくて、目をそらす。
「でも、絶対転ばないで!
男子の魂、何個あっても足りないから!!」
「それは絶対ない!!」
反論した瞬間――
ぐらり。
身体がわずかに揺れる。
引き込まれるような、深い深い水の底。
(雪乃姉……?)
胸の奥で、誰かがそっと笑った。
優しく、でも確かに存在を示す笑い声。
「じゃ、姉ちゃん寝る!
朝イチで仕込み再開だから!!」
葉月はどたどた階段を上り、
寸胴鍋だけが孤独に音を立て続けた。
夜。
自室のベッドに横になると、静かな暗闇が憂を包む。
今日の余韻がまだ胸の奥で熱を持っているのに、
明日のことを考えると、不思議と心が静かに落ち着いていく。
胸に手を当て、そっと囁いた。
「……雪姉。聞こえてる?」
返事はない。
だけど、すぐ近くで息遣いを感じる。
目を閉じれば、雪乃が微笑んでいるのがわかるほどに。
「明日ね……雪姉に、わたしの体――貸してあげる。
学園生活の文化祭……まだ一度も楽しんだこと、ないんだよね?」
言葉にすると、胸が少し痛んだ。
この願いは、きっと姉のためでもあり、自分のためでもある。
静寂。
空気がふるえる。
まるで眠る前に、誰かが涙をこらえて笑っているような錯覚。
「だから……明日は、一緒に行こうね。
雪姉の“青春”を、わたしと一緒に取り戻そう」
布団を胸まで引き寄せる。
暖かさが胸の奥まで染み込んでいく。
まぶたが落ちる直前――
確かな声が、胸の奥で囁いた。
――“……ありがとう、憂”。
その声は震えていた。
嬉し涙を、必死に隠そうとするみたいに。
憂は微笑み、静かに目を閉じる。
そして、深い眠りの中へと沈んでいった――
二人分の願いを抱きしめたまま。




