27話 最後の一枚、勝者の願い
タロットカードの山を前に、緊張が室内を満たしていた。
雪乃が大きくリードしている。
だが、菊子の瞳にはまだ折れない光が宿っていた。
静かに、だが確かな熱を宿す炎。
母としての後悔と決意が混ざり合い、ゆらりと燃えている光だ。
菊子がカードに指を添え、静かに引き上げる。
――“正義(JUSTICE)・正位置”。
「……ふふ、ようやく運が戻ってきましたわ」
「“正しさ”のカード……ね」
雪乃の眉がほんの少し寄る。
(出すなよ、そのカードを……
“正義”なんて、わたしを一番苦しめた言葉なのに)
雪乃はほんの一瞬、呼吸を止めた。
だが、菊子の表情は揺らがない。
真っ直ぐで、美しく、痛いほど誠実。
菊子は続けざまに次のカードに触れた。
――“星(THE STAR)・正位置”。
「……! 二連続……!」
「これで三対三、同点ですわね」
雪乃は唇を噛む。
(本当にこの人……強い時だけ星に愛されてる)
胸の奥に微かな苛立ちが走る。
だがそれは、決して嫌悪ではなかった。
三枚目のカードが持ち上げられる。
――“恋人(THE LOVERS)・正位置”。
「これで……四対三。わたくしがリードですわ」
「……は?」
雪乃の顔が明らかに険しくなる。
「“恋人”なんて……
そんな都合よく引けるわけ……」
その瞬間、雪乃は気づいた。
(……手首の返し。呼吸の間。
それに……カードの擦れる“音”が違う)
ほんのわずかなズレ。
普通なら絶対気づけないほどの精密な動作。
――しかし、“雪乃だけは気づく”。
(この人は……やるべき時には“手段を選ばない”)
腹の底から、雪乃はふっと笑みを漏らした。
「……面白いじゃん」
雪乃がカードを引いた。
――“審判(JUDGEMENT)・逆位置”。
「四対四。追いついたね」
「……次が最後ですわね」
「うん。“勝者の願い”が決まる一枚だよ」
場の空気が、静かに張りつめた。
菊子はデッキの上に手を置き、そっと指を滑らせた。
菊子は、最も自然な仕草でカードの向きを逆位置にする。
誰にも気づけないほどの滑らかさで。
カードが開かれた。
――“死神(DEATH)・逆位置”。
「……逆位置。
わたしの勝ち、だね」
「ええ……そうですわね」
菊子は静かに微笑んだ。
だが――雪乃も微笑んだ。
(……ほんと、嫌いだよ奥様。
なのに……どうしてか、嫌いになりきれないんだよ)
「雪乃さん。
勝者の願いを――どうぞ」
「……簡単だよ。
“菊子さんが日本に戻って、千秋に会いに行くこと”だよ」
菊子の心臓が、静かに跳ねた。
「……わたくしが……千秋に……?」
「あの子、ずっとあなたを待ってる。
あなたはあの子を縛ったって思ってるかもしれないけど……
千秋にとってあなたは“帰る場所”なんだよ」
「…………」
「千秋ね、強いけど脆いんだ。
あなたの言葉がないと……未来に進む勇気が足りないの」
雪乃は少し苦笑する。
「それに……わたしがいなくなったあとの千秋を
一番救えるのは――
私たちじゃなくて、あなたなんだよ」
菊子の瞳が揺れる。
「……わたくしに……その資格が……?」
「あるよ。
千秋が“お母さん”って心から思えるのは
あなただけなんだから」
その言葉は、優しいのに鋭く、まっすぐだった。
積み重なった罪悪感も、
後悔も、
張り付いた痛みも。
すべてを静かに、しかし確かに貫いていく。
雪乃は続けた。
「これは、私の“未練”じゃない。
あの子の“未来”のためのお願い」
「…………」
「私が消えるなら……
そのあと誰が千秋を抱きしめるの?」
菊子の胸が熱くなる。
「できるでしょう?
あの子へ会いに行くくらい」
「……はい……必ず……」
菊子の声は震えていた。
けれど、その震えは弱さではなかった。
「必ず日本に戻って……
千秋に会いに行きますわ」
雪乃は満足そうに、どこか母親のように微笑んだ。
「ところで……あなたが勝った場合、願いは何だったの?」
雪乃が問いながら眉を寄せる。
菊子は少し照れたように、しかし堂々と微笑んだ。
「一緒にお風呂で……
あなたの背中を洗わせていただこうかと」
「はあああああぁッ!?!?」
雪乃が椅子ごと跳ね上がる。
「な、なんでそんな願いになるの!?
憂の身体でそんなこと言うの、色々と無理だから!!
ホラーかよ!!!」
「あなたは娘を守ってくれましたもの。
一度くらい……お礼を」
「そ、それ、絶対無理……!!」
菊子はくすくす笑う。
「冗談ですわ。
あなたにそんなことをしたら、憂さんに怒られますもの」
「……だから苦手なんだよ……ほんと……」
雪乃の輪郭が淡く揺れ始めた。
「もう……限界みたい。憂に……戻るね」
「ええ。おやすみなさい、雪乃さん」
光が薄れていく中で、雪乃は最後に振り返った。
「菊子……ひとつだけ、いい?」
「なんでしょう?」
「あなたが思ってるより……
千秋は、本当に……あなたのことが――」
震えながらも、確かに届く声で。
「――大好きだよ」
その言葉とともに、雪乃の気配はふっと消えた。
室内には、憂の穏やかな寝息だけが残る。
菊子は涙を落とさぬよう、そっと目を押さえた。
ゆっくりと目を開けた瞳には――
もう迷いはひとつもなかった。
「千秋に……会いに帰りますわ。必ず。今度こそ……逃げません」
――母として。
――ただひとりの人間として。
その決意は、静かに、しかし確実に燃え始めていた。




