25話 リベンジ・タロット
憂が眠りについた後。
部屋の空気は静まり返り、
ほのかなハーブと柔軟剤の香りが淡く漂っていた。
白いシーツの上で、憂はすやすやと眠っている。
胸元のネックレス――小さなエメラルドが、
船のわずかな揺れに合わせて、かすかに光を揺らめかせた。
「……お疲れさまですわね」
菊子はソファに腰かけたまま、
その寝顔をじっと見つめていた。
震えていた肩。
歌い終えたあと、笑おうとして震えていた唇。
(本当に……よく頑張りましたわ、憂さん)
胸の奥に生まれる痛み。
その名前を――菊子はもう知っていた。
――母性。
だが、その言葉を口にできる資格など、
自分にはまだない、と感じていた。
(わたくしなどに……そのような感情を抱く権利が?)
そっと目を伏せた、その瞬間。
「……雪乃さん」
菊子の小さな呼び声に応えるように――
憂の胸元のエメラルドが、ふいに光を増した。
空気がひずむ。
温度が一度ほど下がり、肌に鳥肌が立つ。
憂の指先がわずかに動き、
寝息のリズムが変わる。
白い気配がゆっくりと胸元から立ちのぼった。
「……菊子?」
憂の声なのに、憂ではない声。
ゆっくりと身体を起こし、ソファの向かいへ座ると――
そこにいたのは、雪乃だった。
瞳の奥の光も、言葉を発する前の“間”も、
憂とは違う、別の少女。
二人の視線が、静かに交差した。
「来てくださったのですね……雪乃さん」
「呼ばれた気がしたから」
雪乃は冷たく澄んだ瞳で菊子を見つめた。
(やっぱり……
この人は、“千秋の特別”なんだわ)
菊子は胸の奥に小さな痛みを感じながらも、微笑みを返した。
「憂は、ぐっすり眠ってるよ」
雪乃は自分の胸元に触れ、
目だけを真っ直ぐ上げた。
「今日は、“私”と話してよ、菊子」
「ええ、そのつもりで……
お茶もご用意しましたの」
菊子がそっとカップを置く。
「……お茶なんていらないよ」
雪乃の笑みには、鋭い棘が光った。
「私を“客人扱い”なんて、やめて。
あなたはいつもそう。
言葉も態度も……綺麗に整えて、相手との距離を作る」
「……痛いところを突きますわね」
「本当のことだよ」
雪乃は視線をふっと外す。
天井ではなく、部屋の影――光の届かない場所へ。
(綺麗な所作。
綺麗な言葉。
綺麗な身なり。
その全部で――
自分の傷を“隠す”人)
すると、菊子が静かに口を開いた。
「……隠してばかりではありませんわ。
あなたは見ているはずでしょう?
憂さんとの“カジノ勝負”。」
その言葉に、雪乃の瞳がわずかに細められた。
「ふうん……覚えてたんだ」
「忘れませんわよ。
むしろ、ずっと気になっておりますの」
菊子は緩やかな動作で、タロットの箱を取り出した。
「特に――あの時の『左手のチップの扱い』」
「…………」
雪乃の表情が一瞬止まった。
菊子は優雅に、しかし鋭く微笑んだ。
「憂さんは左でチップを扱う癖はございません。
あの勝負のとき……
あの“絶妙な指の動き”。
わたくしは気づいておりましたのよ」
そして――
「“あなた”でしたわね、雪乃さん」
雪乃は肩をわずかに震わせた。
怒りでも、動揺でもない。
――見抜いていたのか、という驚き。
「……やっぱり。
あなた、ただの綺麗な人じゃないんだ」
「当然ですわ。
母は、娘の手つきを見間違えませんもの」
「娘、ねぇ……」
雪乃はわずかに笑った。
その表情には皮肉よりも、どこか認めざるを得ない気配があった。
「だから、わたくしにも“リベンジ”の権利があると思いましてよ」
菊子はタロットカードをテーブルへ置く。
「カジノではできなかった、“本気の勝負”。
あのときの続き――
今、していただけませんこと?」
「……いいよ」
雪乃の声は静かだった。
だがその奥に、燃える芯がある。
「わたしもずっと思ってた。
――あの勝負は終わってないって」
「それでは、ルールを」
菊子はカードを切りながら告げる。
「正位置がわたくしの一点。
逆位置があなたの一点。
先に五点取った方が……」
「“願いをひとつ、叶える”」
雪乃が先に言い切る。
「察しが良すぎますわね」
「あなたこそ。
逃げなかったのは、褒めてあげる」
雪乃の瞳が細く光る。
「ひとつだけ、注意を」
菊子の声が、静かに深く落ちた。
「運命は……
本当に“必要な願い”の味方をします」
「それ、こっちのセリフだよ」
雪乃は薄く笑う。
「この勝負はね。
“心が揺れたほう”が負けるの」
「心はもともと揺れるものですわ」
「でも折れない芯を持つ人だけが……最後に残る」
空気が、凍るように張り詰めた。
ハーブの香りが遠く薄れていく。
テーブルの上の一枚のカードが――
風もないのに、ふわりと小さく揺れた。
まるで“運命が立ち上がる”合図のように。
――カジノで果たされなかった、
母と少女の“本当の勝負”が、いま幕を開ける。




