第5話 紅茶の香りに溶ける“想い”
千秋が白いグランドピアノの前に座った瞬間、
中庭の空気が静かに落ち着いた。
ティースタンドのスコーンの匂い、
アールグレイの香り、
花の息づかいが混じり合い、
春そのものの気配が広がる。
メイドたちは配置を解いたあとも、
思わず中庭の端で足を止め、
“お嬢様の演奏”を見守る目になっていた。
葉月もまた、いつもの軽さは影を潜め、
落ち着いた微笑みを浮かべながらスマホを構えた。
千秋の指が鍵盤に触れた。
――春風のように軽い一音。
高音は桜の花びらのように舞い、
低音は暖かい土の匂いをふくむように響く。
憂の胸に、そっと安らぎが落ちていく。
(……きれい……)
憂は自然と息を呑む。
右手が細い糸を紡ぐように旋律を描き、
左手はそれを“抱きしめるように”支える。
その響きは、まるで
千秋と憂の心の距離そのもの
だった。
千秋が演奏しながら語るように、柔らかく囁く。
「憂さん……覚えていますか?
あの日、屋上で聴いた坂井泉水さんのメロディ。
今日はその“誕生日バージョン”をお届けしますわ」
あの春の屋上の風が、憂の胸に蘇る。
ワイヤレスイヤホンから届いた、千秋の優しい音――
その続きを、今こうして“千秋の手で”聴いている。
葉月は画面越しにため息を漏らした。
「……ほんとうに、素敵だね……」
その声は、普段の軽さのない、
“憂の成長と千秋の想いを知っている姉”の声色だった。
中庭の端では、メイドたちがそっと顔を見合わせ、
思わず胸元に手を置いている。
白髪の執事でさえ、わずかに目を細めた。
憂は左手でそっとティーカップを胸に抱え、
じっと千秋の音に聴き入る。
やがて――
カップを静かにテーブルへ戻した。
指先が、かすかに震えていた。
(歌いたい……千秋の音のそばで……)
その一度きりの動作だけで、
憂の“心が開いていく音”が千秋にまで届いた。
風がふたりの髪を揺らす。
まるで、
青春のCMのような、どこか透明な瞬間。
風も光も香りも――
すべてが、憂を後押ししていた。
演奏がサビに向かう直前。
千秋がほんの一瞬だけ、憂を見た。
その目は、まっすぐで、深くて――
(ここからは……“あなたの番”ですわ)
憂は息を飲み、胸が熱くなる。
葉月がスマホ越しに囁く。
「……憂ちゃん、いきなさい。
あなたの声は、この音と同じ場所に行けるわ」
その声はお姉さんというより、
まるで舞台袖で背中を押すプロデューサーのようだった。
憂は顔を少し上げる。
春風がそっと頬を撫でる。
そして――
千秋の旋律の上に、
憂の声がふわりと“咲くように”重なった。
柔らかく、透明で、
けれどしっかりと芯の通った声。
その声が千秋のメロディに寄り添った瞬間、
中庭の花々が確かに揺れた。
葉月のスマホも、
春風と音に押されるように微かに震える。
メイドたちは目を見合わせ、
(……なんて綺麗……この子が、憂様……)
と息を呑んだ。
千秋の指先が、かすかに震えた。
(憂さん……こんなに……
こんなに綺麗に歌う人だったなんて……)
胸が熱くなって仕方がない。
でもその熱は決して苦しくなく、
むしろ甘く、心地よい。
千秋は音を紡ぎながら、
誰にも気づかれないように微笑んだ。
春の光が降り注ぎ、
風が桜を揺らし、
紅茶の香りがそっと混ざる。
憂の声と千秋の音が重なると――
中庭はまるで“小さな音楽会”になった。
葉月のカメラは、
二人がつくった“世界”を丸ごと映していた。
憂の手の震えも、
千秋の微笑みも、
メイドたちの驚きも、
春の光も。
すべてが重なり――
憂の誕生日は、
二人にとって 一生忘れられない春 になった。




