第15話 連れ込まれた夜
北海道寄港から戻ると、
船内はすでにディナーのざわめきに包まれていた。
ドレスアップした乗客たちの笑い声。
食器の澄んだ音。
夕暮れ色の照明が、金色に空気を染める。
「憂ちゃん、どうする? 一回部屋戻って着替える?」
葉月が気軽に声をかけたその瞬間――
憂の胸が、きゅうっと細く痛んだ。
「……いらない。行かない」
あまりに小さく、かすれた声。
葉月も菊子も一瞬気づかなかった。
「えっ、今……?」
「わたくしも、軽く支度を整えて――」
菊子が言いかけたそのとき。
「だから、行かないって言ってるでしょ!」
はっきりと響く声。
三人の時間が止まった。
憂自身がいちばん驚いていた。
(……言っちゃった……言いたくなんてなかったのに……)
胸の奥のざわめきが、痛みに変わる。
「憂ちゃん……どうしたの……?」
葉月の声は、戸惑いと不安が入り混じっていた。
「なんでもないの!
一人にしてよ……!」
憂は目を合わせず、言葉を振り払うように吐き出す。
「憂ちゃんっ!」
葉月が追いかけようと手を伸ばした瞬間――
「葉月さん」
菊子の手が、そっと葉月の腕を止めた。
その動作は優雅で、けれど強かった。
「今の憂さんは……追ってはいけません」
「でも……! あの子、泣きそうで……!」
「泣くために一人になりたいときが、人にはありますの」
菊子の静かな声が、葉月の胸を深く刺した。
「……あたし、姉だから……
叱らなきゃって思うけど……
でも……母親みたいに抱きしめてあげられない……」
その言葉は、震える後悔そのものだった。
船のざわめきの中、葉月の声だけが沈んで響く。
「葉月さん」
菊子は優しく微笑んだ。
「あなたは十分すぎるほど“姉”をなさっています。
憂さんには……ちゃんと伝わっていますわ」
葉月はぎゅっと唇を噛み、胸に手を当てた。
そのころ――
憂は廊下へ飛び出していた。
(ごめん……
葉月姉……菊子さん……
わかってるのに……あんな言い方したくなかった……)
足がふらつく。
呼吸が浅い。
胸が締めつけられるように苦しい。
ペンダントを掴む。
千秋にもらった小さなエメラルドが、ひんやりと震えた気がした。
(千秋……
どうしたらいいの……
わたし……どうしたら……)
そのとき――
「……こっち」
氷みたいに冷たく澄んだ声が、憂の背中を切り裂いた。
「え……?」
振り返る前に、手首をつかまれる。
「あ……!」
「そのままだと朝まで泣く。
見てられないから、私の部屋」
金色のツインテール。
宝石みたいな瞳。
リナが、迷いなく憂を引いた。
「リ、リナさん……!」
「静かに。情緒不安定な声、周りに聞こえる」
言葉は冷たいのに、
その手だけは乱暴じゃなかった。
拒むすきも与えない強さ。
しかし、不思議と怖くなかった。
(……どうしてこの人……
いつも迷わないんだろ……)
カードキーの電子音。
リナの部屋の扉が開く。
「入って」
短い一言。
そのたった一言で、
憂は――ようやく限界から救われた気がした。




