第13話 紫の海で、ひとりぼっち
支笏湖を後にした観光バスは、
北海道の広大な平原をゆっくりと進んでいった。
窓を開けると、ひんやりとした澄んだ空気が流れ込み、
昨日までの海風とはまったく違う「大地の匂い」が鼻をくすぐった。
「……空気が、こんなに変わるんだ」
憂が小さく呟くと、葉月が満面の笑顔で振り返る。
「ねっ!? 憂ちゃん、北海道すごいでしょ~!」
「ええ。北海道は、景色も空気も“特別”ですわね」
菊子の柔らかな声は、いつもより少し温度が高く、
まるで“母”が遠足で微笑むような優しさがあった。
その声に、葉月の瞳がふっと緩む。
憂が知らない“甘える子どものような表情”だった。
(……葉月姉……?)
胸の奥が、ゆっくりとざわついた。
バスが停まり、外へ一歩踏み出した瞬間――
「……っ!!」
目の前が、一面の“紫”に染まった。
果てしなく続くラベンダー畑。
風が吹くたびに揺れ、その香りが憂の身体を優しく包む。
「わぁぁ……!! すごい……!」
葉月は子どものように両手を広げ、跳ねるように喜んだ。
菊子も、普段より少し砕けた笑顔で目を細める。
「これぞ北海道、という景色ですわね。葉月さん、初めてご覧になります?」
「え、奥様!! 初めてです! 一緒に写真撮りましょう!」
二人は自然と肩を並べてスマホを構えた。
カシャッ。
その音だけが、風の中に吸い込まれる。
(……私も、入りたいのに……)
でも――足は動かなかった。
紫の海が、急に遠く感じる。
憂は胸元のエメラルドを握りしめ、そっと息を吐いた。
「憂ちゃん、ちょっとこっち向いて~!」
振り向くと、淡い紫色のソフトクリームが目の前に。
「はい、あーん! ラベンダー味だよ!」
「ちょ、ちょっと待っ……!」
ひんやり甘い味がふわりと広がる。
「その顔いい!! ほら笑って!!」
カシャッ、カシャカシャッ――!
「は、葉月姉ぇぇぇ……! もう、やめて……!」
「ふふ……可愛らしいですわ」
菊子の優しい声が、どこか遠い。
(……なんでだろう……胸が、痛い……)
昼食のジンギスカン。
「奥様! この鉄板、めっちゃカッコイイです!」
「まぁ……素敵ですわね。葉月さん、焼き方はお任せしますわ」
「はいっ、おまかせください奥様!!」
葉月は慣れた手つきで肉を焼き、
菊子にだけできたての熱々を丁寧に盛りつける。
「奥様、どうぞ! これ絶対美味しいです!」
「ありがとう。……ふふ、葉月さんは器用ですわね」
葉月の声は、幼い子どもが母に褒められた時の声に似ていた。
憂の皿に置かれた肉は――少し、冷めていた。
(……焼いてくれるって……思ったんだけどな……)
フォークで押しながら、胸の奥がじん、と疼いた。
食後、土産店へ。
葉月が駆け寄って手に取ったのは――
“北海道限定・薄紫のカエルの魔法使い”のぬいぐるみ。
とんがり帽子。
小さな杖。
丸い目。
「これ見て! かわいい!!
憂ちゃん、この子さぁ……千秋ちゃんと石田さんにあげたやつの色違いじゃない!?」
「あ……ほんとだ……」
憂は、そっとそのカエルを胸に抱いた。
紫――雪乃の好きな色。
(雪姉……この子、覚えてる?
千秋が笑ってくれたとき、雪姉も嬉しそうだったよね……)
胸がきゅっと締め付けられる。
その横で、葉月は菊子にぬいぐるみを見せて盛り上がっていた。
「奥様、これ似合いますよ! どうです!?」
「まぁ……愛嬌がありますわね。買ってみましょうか」
二人はまた笑い合う。
(……楽しそうだな……
私だけ……違う場所にいるみたい)
棚の影で、憂は紫のカエルをぎゅっと握りしめた。
原生花園へ向かう道。
「奥様、あの花すごくないですか!? 見てください!!」
「まぁ……本当に綺麗ですわね。あなたはよく見つけますわ」
「奥様、次はあっちも!」
「はいはい……そんなに急がなくても逃げませんわよ?」
風に溶けるように、二人の声が遠ざかっていく。
いつの間にか――
葉月と菊子の“二人だけの世界”が完成していた。
憂は、その数歩後ろを小さく歩く。
(わたし……今日、ずっと後ろだ……)
胸元のペンダントに触れる。
(千秋……こんな時くらい、そばにいてよ……
雪姉も……)
北海道の風は冷たいのに、
憂の目元は熱く滲んだ。
――大丈夫、憂。
ちゃんと、そばにいるよ。
雪乃の声が、確かに胸の奥で響いた。
……なのに、なぜかその声さえ――
今日はほんの少し、遠く感じた。




