第9話 金色の孤奏
ディナーを終え、
船内アナウンスが静かに響いた。
『――このあと、メインホールにてオーケストラコンサートを開催いたします。
ゲストソリスト:リナ・アーデルハイト』
その名前が読み上げられた瞬間、
憂の胸は――どくん、と跳ねた。
プールで見た素顔。
避難訓練で見た揺れる横顔。
ツンとした態度の奥にあった、不器用な優しさ。
その“奥”が、
音にどう現れるのか――
知りたくて、少し怖かった。
「憂ちゃん、行こっか」
葉月が隣で優しく声をかける。
「ええ、二人とも。席はこちらにありますわ」
菊子に案内され、
三人はホール席の中央へ腰を下ろした。
天井のライトがゆっくり暗まり、
ざわめきが夜の海に沈むように消えていく。
ステージには大編成のオーケストラ。
弦、木管、金管――
遥かな旅の始まりを告げる兵たちのように並んでいた。
そして――
一筋の光が、深い闇を切り裂いた。
そこに立つのは、金色の影。
リナだった。
黒のロングドレス。
長い航海の夜空のように、深く冷たい色。
背で揺れる金のツインテールは、
大地を照らす灯火のようにきらりと輝く。
灰色の瞳――
世界の果てを見てきた旅人のように揺るぎない。
憂は息を止めた。
(……すごい。
さっきまでのリナさんじゃない……)
そこに立つのは――
孤独な魂を、音に変えて歩く存在だった。
「それでは、リナ・アーデルハイトによるソロをお聴きください」
静寂が降り立ち、
世界はひとつの大地になった。
リナは弓を構える。
風の止まった瞬間のような静かさ。
憂は胸元のエメラルドに触れる。
その石は、夜明けを待つ星のように揺れた。
そして。
弓が――弦に宿った刃を走らせる。
――果てなき道。
そうしか言えない音が、
海へ、空へ、世界の向こう側へ伸びていく。
冷たく研がれた孤独。
鋭い風を旅した涙。
それでも前へ行く勇気。
そのひとつひとつが、
憂の胸奥の、一番脆い場所へ届く。
(……どうしてこんなに、遠くて、寂しくて……
なのに――前を向けるの……?)
リナの音は、
失われても歩む者の音だった。
光を探しながら、
闇を裂いて進む者の旋律。
音が高く、遠くへ――
まるで見えない地平線へ手を伸ばすように。
胸元のエメラルドが熱を帯び、
耳の奥に小さな声。
――憂……
この音は……泣いてる……
(……雪乃?)
雪乃の記憶が、
波の底から呼吸を始める。
「憂ちゃん!? 顔が……!」
「外に出ますわよ!」
葉月と菊子が慌てるが、
憂は首を振る。
「……大丈夫……
これ……聴いていたい……
まだ終わらない世界の音……」
胸に響く鼓動――それは鼓動という名の冒険。
リナの音は疾走し、
いくつもの夜を越えていく。
孤独。
誇り。
願い。
届かない想い。
そして――
まだ見ぬ未来。
音は海の彼方へ放たれた。
最後の一音が、星屑のように散った。
――静寂。
世界が呼吸を忘れ、
すぐに嵐の拍手が押し寄せる。
リナは一礼し、
旅人のように静かに振り返る。
その途中――
灰色の瞳が憂を探し、見つけた。
その眼差しは、
遠く離れてもつながる者同士が交わす視線。
リナはすぐに視線をそらし、
舞台袖へと闇へ消える。
ざわつきが戻り始めた頃。
「憂さん」
菊子が静かに言った。
「あなた……リナの音に“選ばれた”のですね」
「……選ばれた……?」
「世界は広く、果てしなく続きます。
その中で響く音が、
あなたに触れたのです」
菊子は舞台袖を見た。
「娘――千秋も同じでした。
憂さん……あなたも、音に導かれる旅の中にいますわ」
その言葉は、
夜明けの風のように憂の胸へ流れ込んだ。
世界は広い。
まだ終わらない。
果てしない道が――ここから続いている。




