第5話 避難訓練
客室での短い休憩を終え、
憂と葉月、そして菊子はエレベーターホールへ向かった。
船内アナウンスが静かに流れる。
『――まもなく避難訓練を開始いたします。
すべてのお客様は、指定の集合場所までお越しください……』
「では、行きましょうか」
菊子が微笑む。
ラベンダー色のワンピースが、歩くたびふわりと揺れた。
葉月はきちんとしたメイドの立ち居振る舞いで付き添っているが、
憂にはそれが少しくすぐったい。
(……お姉ちゃん、完全に“仕事モード”だ)
そんな憂の心のつぶやきに気づいたように、
葉月が小声で囁いた。
「憂ちゃん、避難訓練っていっても大したことないからね。
緊張しなくて大丈夫」
「う、うん」
「それに今日は奥様もいるから、安心しなって」
頼もしく言う葉月に対し、
菊子は優しく微笑む。
「葉月さん、あまり妹さんを甘やかしすぎては駄目ですよ?」
「奥様、それは……あの……努力します」
「ふふ。あなたは本当に可愛いわね」
そんな和やかな空気の中――
足音が、後ろから鋭く近づいてきた。
振り返った瞬間、
海風に髪を乱されながら、
不機嫌そうに――でもどこか寂しげに、リナが歩いてくるのが見えた。
少女――リナ。
灰色の瞳は冷たく見えるのに、
その奥には、言葉にならない迷いがかすかに揺れていた。
「菊子様。訓練の集合場所、あっちです。
遅れると係員がうるさいので」
「ありがとう、リナ。
あなたは慣れているでしょうけれど、憂さんは初めてなのよ」
「……別に、説明されれば誰でもできるでしょう」
そっけない言葉。
でも、言い終えたあと、彼女の視線だけがわずかに揺れた。
リナの視線が、ふと憂の胸元で止まった。
海風が吹き、エメラルドが光を返す。
陽に揺られた緑が、金髪の間で一瞬きらりと輝いた。
その瞬間――
リナの表情がわずかに揺れる。
「……それ。千秋の?」
「えっ……?」
唐突な問いに、憂は戸惑う。
リナは唇をきゅっと結び、
すぐ視線をそらした。
「……なんでもない」
(千秋の……? なんで知ってるの……?)
憂の胸に、ひそかな疑問が生まれる。
デッキには多くの乗客が集まり始めていた。
海風は少し湿っていて、潮の匂いが深く胸に広がる。
波の音は遠くで寄せては返し、それが憂の鼓動と重なるようだった。
「これより救命ボートの説明を――」
スタッフの声が響く。
憂は列の中で、胸が緊張で高鳴る。
「こういうの、初めてで……」
「大丈夫ですわ、憂さん」
菊子がそっと肩に触れる。
「船旅とは、慣れないことばかり。
ですが、そういう経験はきっとあなたの“音”に影響しますわ」
「音……」
胸の奥で、そんな予感が小さく芽をふくらませる。
「ねぇ」
横から、静かな声がした。
リナだった。
金髪ツインテールが、海風に揺れる。
「あなた……千秋と、どんな関係なの?」
「え――」
「別に興味があるわけじゃない。
ただ……そのネックレス。
あの子が大切にしてた色だから」
(千秋が……?)
憂の胸が、きゅっと熱くなる。
リナは続けた。
「千秋は言ってた。
“一番大切な子に贈るなら、この色だ”って」
胸の奥で、エメラルドが脈を打つ。
しかしリナはすぐ、表情を戻した。
「……別に。どうでもいいけど」
そっぽを向いた横顔。
でも、その灰色の瞳はほんの一瞬だけ揺れていた。
「では訓練は以上です! お疲れさまでしたー!」
解散の声が響き、
人々が散っていく。
菊子が憂に微笑みかけた。
「どうでした?」
「緊張したけど……ちょっと楽しかったです」
「ふふ。それならよかったわ」
葉月も満足げに頷く。
「憂ちゃん、すごいよ。
初めてなのに落ち着いてた!」
「ありがとう……」
その横で――
リナはひとり、海を見ていた。
灰色の瞳。
揺れる金髪。
「……大切にしなよ。そのネックレス」
振り向いたときには、
リナの姿はもう消えていた。
言葉だけが、海風にそっと残されていた。
――氷のようなのに、火傷しそうなほど熱い声だった。




