第3話 上船
港に着いた瞬間、潮風がふっと憂の頬を撫でた。
青い水平線と、真夏の陽光を跳ね返すように白く輝く巨大なクルーズ船。
まるで異国の宮殿が海に浮かんでいるようだった。
「……すごい。本当に乗るんだね、これ」
圧倒されて立ち止まった憂の横で、葉月はスーツケースを片手に鼻を高くした。
「でしょ? “女子高生の夏”って感じするでしょ!」
大げさな身振りをつける葉月に苦笑していると――
「御陵憂さん、葉月さん。こちらへどうぞ」
落ち着いた、やわらかい声が背後から響いた。
振り向くと、
ラベンダー色のワンピースを揺らす六地蔵 菊子が立っていた。
千秋の母。
しかし今回は、娘である千秋の姿はここにない。
その“空白”が、憂の胸にほんの少しだけ不安の波を立てた。
「奥様、本日もお世話になります」
葉月は一瞬で“メイドモード”に切り替わり、背筋を伸ばして頭を下げる。
さっきまでの軽さが嘘みたいに、動きがきりりと整っていた。
「葉月さん、そんなに堅苦しくなさらなくてもよろしいのですよ。
今日は“お仕事半分、休暇半分”なのですから」
「いえ、奥様のお側にいる以上、気持ちは引き締めておかないと……」
真面目な葉月の言葉に、菊子はふっと穏やかに微笑む。
「ふふ。本当にあなたは誠実なお嬢さんですね」
その微笑みに、憂の胸も少しだけ軽くなった。
――千秋のお母さん、思っていたより怖くない……。
そんな憂の心を見透かしたように、菊子は静かに言った。
「憂さん。今回は、千秋が参加できず申し訳ありません。
ですが、どうか楽しんでいってくださいましね。
この旅が、あなたにとって良き夏の思い出となりますように」
言葉は丁寧で距離があるのに、どこか温度が優しい。
「あ、はい……ありがとうございます」
返事をしながら、胸の奥に小さく波が立つ。
――千秋は別行動。
オンラインでの“挨拶”の前触れに感じた、説明のつかない緊張がふと蘇る。
「では、先に乗船手続きを済ませましょう」
菊子の案内で歩き出す。
荷物を引く車輪が、タイルの上で軽く跳ねる音が心地よく響いた。
巨大な船体の陰に入ると、潮風がわずかに涼しくなる。
私服の襟をすこし押さえながら、憂は見上げた。
(海の上……雪姉、ほんとに“音”に出会えるのかな)
胸元のエメラルドが、初夏の日差しを反射して小さく光った。
その瞬間――
憂は、胸の奥で“何か”が静かに動いた気がした。
それは期待か。
それとも、まだ知らない運命の予兆か。
海風が吹き抜ける。
そして、憂たちはゆっくりと――
白い巨大な船の腹へと足を踏み入れた。




