第二話 夏の海に呼ばれた声
階下から、どたどたと賑やかな足音。
コンコン、と遠慮のないノック。
「憂ちゃーん、夕飯できたよー! 今日は筍の佃煮リメイク丼!」
「……あ、うん。今行く」
ドアが少し開き、葉月が顔を覗かせた。
ポニーテールを揺らし、エプロン姿のいつもの笑顔。
「どしたん? 難しい顔して窓見て。夏のポエムでも詠んでた?」
「詠んでないよ。……ちょっと相談があるんだけど」
「ほう、恋バナかね?」
「違うってば!」
葉月は勝手に部屋へ入り、ベッドにどさっと腰を下ろす。
ぬいぐるみが一匹ごろんと転がった。
「で? 相談とは。雪ちゃんのこと? それとも――千秋ちゃん?」
核心を突く言葉に、憂は苦笑する。
「……千秋のほう。明日ビデオ通話するって。お母さんも一緒に、だって。
夏のクルーズの話らしい」
「く、く、クルーズ!?」
葉月の目が、まん丸に。
「ちょっと整理させて? クルーズってアレだよね?
大きい船で海ガーッて行って、ビュッフェあって、夕日見て人生語るやつ!」
「語るかどうかは人によるけど……」
「行こう、憂ちゃん! 行かない選択肢があるとでも!?」
葉月は憂の肩を揺らす。
「ちょ、揺らさないで……!」
「海! プール! 映え写真! ね? ね?」
興奮して三拍子を打つ葉月を見ていると、
胸の不安が少しだけ軽くなる。
でも――。
「……ちょっと、ざわざわしてて」
憂は胸元のエメラルドを握った。
「ざわざわ?」
「千秋のお母さん、優しいって聞いてるけど……“母親”ってだけで怖くて。
雪姉のこと、どう説明すればいいのかも……」
葉月の表情から、ふざけた色が消える。
ベッドに座り直し、憂の手を握った。
「あー……そっか。
憂ちゃん、“お母さん”って言葉、まだ刺さるもんね」
「……うん」
「でもさ。千秋ちゃんが“会わせても大丈夫な人”って思ってるから誘ったんだよ?」
「……千秋が、そう思ってるなら」
「でしょ?」
葉月はにっと笑う。
「怖かったら、一緒に画面に映って守るからね。
“この子になんかしたらメイド服で殴り込みますからね”って」
「余計怖いよ……」
二人でくすりと笑う。
胸の棘がすこし丸くなっていく。
「……行ってみようかな。
雪姉が、“行っておいで”って言ってる気がするし……
海の上で……なんか、歌えそうな気もするし」
「キター!!」
葉月はくるりと回る。
「じゃ、決まり! 荷造りは任せて!
日焼け止め、タオル、スキンケア、あと――」
「いやな予感しかしない」
「水着、新調しよ?」
ビシッと指を立てる葉月。
「その“?”に絶対ろくでもない意味入ってる……」
「清楚系ワンピだから安心しなさい! “憂ちゃん仕様”にするから!」
「“仕様”って言い方が怖いんだけど……」
そんなふうに言い合いながら階段を降りる。
ダイニングは味噌汁の湯気と筍の甘辛い匂いで満ちていた。
テーブルには味噌汁、焼き魚、卵焼き、そして筍丼。
「人生は胃袋からよ!」
葉月の宣言に、憂は笑って箸を取る。
――この日常から、海の上へ。
憂はようやく、その実感を得始めていた。
ベッドに潜って少しして、スマホが震える。
『ご連絡ありがとうございます。
お母様も、明日を楽しみにしております――千秋』
短い文なのに、心臓が跳ねた。
「……わたしも、楽しみにしてます」
呟き、スマホを伏せる。
左手がかすかに疼いた。
夢と現実のあいだで、雪乃の声がふわりと響く。
『行きなよ、憂。
海の上で――君と、もうひとりの“誰か”の音がきっと出会うから』
胸元のエメラルドが月明かりに光る。
金色の髪を揺らしながらバイオリンを弾く“誰か”。
――このときの憂は、まだ何も知らなかった。




