1話 波間のウィザード(第二巻)
梅雨が明けたばかりの午後。
御陵家の二階、憂の部屋の窓からは、白くかすんだ陽射しが斜めに差し込んでいる。
薄いカーテンの隙間からこぼれた光が、机の上の埃をきらきらと舞わせ、
木目の机と本棚を、やわらかい薄金色に染めていた。
机の上には、開きっぱなしの英語の問題集とシャーペン。
少し横にはノートパソコンと、過去問サイトの開いたままのウィンドウ。
その隣で、スマホの画面がふっと明るくなった。
メッセージアプリの通知が矢継ぎ早に流れ込んでくる。
『テストおつかれ~~! 夏休み突入おめでとう!!』
『海? 山? プール? どれ行く?』
『憂、また受験モードとか言わないよね? 遊ぶよ!』
『てか憂の水着姿、まだ見たことないんだけど?(真顔)』
憂はシャーペンを指でくるくる回しながら、その文字列をぼんやりと眺めた。
指先はいつも通り軽いのに、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
(……夏休み、か)
海。花火。かき氷。入道雲。
本来なら明るく弾むイメージばかりの季節。
でも憂の心のどこかには、まだ“溶け残った雪”があった。
屋敷の事件。
雪姉と葉月姉の交換日記に残された『ウィザード、ハザード』。
春は終わったはずなのに、胸の奥だけが夏を迎えていない。
画面のスクロールが止まる。
指がひとつの名前の前で自然と留まった。
『六地蔵 千秋』
整った字体の名前表示。
昼前に届いたまま、既読の印がついて止まっているメッセージが一つ。
『憂さん。明日のお昼、少しだけオンラインでお話しできませんか?
お母様が、どうしてもご挨拶したいと申しておりまして。
それと、夏のクルーズ計画についても相談がございますわ。――千秋』
丁寧で、控えめで、どこか不器用な文面。
読みながら、憂の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「……“どうしても”って、なんだろ」
声に出すと、そのひと言だけ部屋の空気に残った。
だがすぐに笑みは薄れる。
――母が。
胸の奥をざらりと撫でていく言葉。
憂にとって“母”という存在は、まだ痛みが勝っていた。
ベルリンの冬。
十二歳の雪乃が、八歳の自分を抱きしめて歌ってくれた『ウィザード』。
事故の夜、雪の舞う中で赤く染まった譜面。
「どうして守れなかったの」と泣き崩れた母。
そして、葉月の必死の笑顔。
(千秋のお母さん……どんな人なんだろう)
ぼんやり考えているうちに、手の中のシャーペンの先からインクが滲み、
ノートの端に小さな黒い染みが広がった。
「……考えても仕方ないか」
憂はペンを置き、深く息を吐いた。
スマホを手に取り、少し震える指で文字を打つ。
『大丈夫。明日、楽しみにしてるよ。
夏の計画、気になります! ――憂』
送信。
ぽん、と軽い音。
その瞬間、見えない何かが動き始めた気がした。
不安と期待が同じくらい胸の中に居座る。
憂は窓を少し開けた。
むっとした夏の空気が流れ込む。
遠くで蝉が鳴き始めていた。
(あの雲の向こうに、海があるのかな)
広い海。
見知らぬ港町。
そして、まだ知らない誰かの音。
金色の光が部屋の隅々まで染み込んでいく。
それはまるで――
まだ会っていない“金色の髪の誰か”のようで。




