第30話 血の中で、赦しが生まれた
──その時、廊下の奥から足音が近づく。
葉月が現れた。
メイド姿に身を包み、夕闇に染まるシルエットは小さいが、覚悟を決めた強さを漂わせていた。
「憂ちゃんを殺すなら、あたしを殺して……お願い雪姉ちゃん……憂ちゃんだけは殺さないで!」
雪乃の瞳が揺れる。
計算高く冷徹な自分の理性が、ほんの一瞬、崩される。
――この小さな勇気に、感情を乱されるなんて。
葉月が一歩前に出る。
刃物を取り上げようと手を伸ばす。
雪乃は反射的に抵抗。
二人の力がぶつかり合い、廊下に響く。
床板が軋む。
二人はバランスを崩し、倒れ込んだ。
その瞬間――刃が葉月の胸に刺さった。
メイドのエプロンが、みるみる赤く染まる。
雪乃は息を呑む。
混乱と興奮が交錯し、心臓の鼓動だけが鋭く響いた。
葉月の瞳がゆっくり閉じる。
「……あたし……大丈夫……雪……姉…ちゃん」
声は微かで、しかし必死に雪乃を庇う意思が残っていた。
雪乃はその光景に一瞬、手が止まる。
赤い染みが、静かに、そして確実に雪乃の胸に重く落ちる。
石田は一瞬も迷わず、自分のジャケットを脱ぎ、冷静に止血を始める。
「雪乃さん、落ち着いて。今は止血が最優先よ」
雪乃は目の前の現実に混乱する。
やがて、服を裂き、止血用に使うが、指先はまだ震えていた。
「……ごめん、葉月……!」
葉月の瞳がわずかに開き、かすれた声が廊下に響く。
「……雪……姉」
雪乃の声が、廊下中に慟哭として響き渡る。
「いやああああああ……!!」
石田は慌てず、迅速に廊下を駆ける。
手際よくスタッフに応援を要請し、携帯で状況を説明する。
「負傷者がいます。すぐに救急処置を――」
連絡を終えた瞬間、石田は応援を呼びに静かに廊下の影に消えた。
気づけば、残されたのは雪乃と葉月、二人だけ。
雪乃はまだ憂を抱え、心臓が早鐘のように打つ。
床に倒れた葉月の胸には、赤く染まったエプロン。
微かに動く呼吸と、痛みに歪む顔。
雪乃は憂を抱きしめながら、立ち尽くす。
「……どうしよう……」
普段の冷徹な計算は消え、混乱と恐怖だけが残る。
葉月の体は微かに震え、弱々しい声で口を開く。
「雪姉ちゃん……ごめんなさい……」
雪乃はしばらく黙って葉月を見つめる。
胸の奥に、怒りも混乱も渦巻いていたが、やがてその目が柔らぎ始める。
「……雪姉ちゃんのこと、何も知らなかった……」
葉月は続ける。
「でも……憂ちゃんだけは守れた……それだけで、嬉しかった……」
雪乃の瞳に、初めて感情があふれ出す。
大粒の涙が頬を伝い、静かに顔を濡らした。
「……うん、いいのよ、葉月……」
声は震えながらも、優しさで満ちていた。
「……あなた……私以上に、苦しんでいたのは……葉月だったのね」
雪乃は葉月の肩に手を置き、ぎゅっと抱きしめる。
許しと安堵が混じった、その抱擁の温かさに、廊下の冷たい空気が少しずつ溶けていくようだった。
葉月は震える声で言った。
「こんな危ないこと、二度としないで……!」
雪乃は涙を流しながらも笑ってうなずく。
「……わかったわ。二度としない」
その瞬間、時間が一瞬止まったかのように、廊下の空気が凍りついた。




