第27話 ハザード 過去編
ドイツの冬は、静かだ。
静かすぎて、息の音さえ聞こえる気がする。
あの頃の私は、まだ十二歳。
母の仕事の都合で、八歳の妹――憂と二人、ベルリンで暮らしていた。
父と次女の葉月は日本に残り、
私たち三姉妹は、それぞれ違う国で、別々の時間を生きていた。
「お姉ちゃん、今日も歌う?」
憂が、あどけない笑顔で私を見る。
私はピアノの前に座って、白い鍵盤に指を置いた。
「もちろん。今日は“ウィザード”だよ」
そう言うと、憂の顔がぱっと明るくなる。
“ウィザード”――それは、いじめで泣いてばかりいた憂のために作った歌。
魔法使いみたいに、泣き顔を笑顔に変える歌。
私は歌詞に“喜び”って言葉をたくさん詰め込んだ。
憂は少し音を外しながらも、真剣に歌ってくれる。
その声が愛おしくて、私は自然と笑ってしまう。
「大丈夫。憂は上手くなる。魔法みたいにね」
あの時の雪乃は、本当にそう信じていた。
努力すれば、どんな寒さも、どんな孤独も越えられるって。
けれど、人の心は、音のように綺麗には響かない。
私は次に作った曲のタイトルを――『ハザード』と名付けた。
日本に残した葉月のため。
あの子は怪談が好きで、怖い話になるといつも目を輝かせてた。
だから“少し怖くて、美しい曲”を作りたかった。
でも、作っていくうちに、音が濁った。
気づけば、心の奥の“怒り”が混じっていた。
どうしようもなく、胸が苦しくて、ピアノを叩く手が震えた。
――ドン。
低音が鳴るたび、憂がびくっと肩を震わせる。
「お姉ちゃん、その曲……怖い」
「うん、怖いよ。でもね、怖い音の中にも希望はあるの」
そう答えたけど、本当は自分でも怖かった。
この音が、何を吐き出そうとしているのか。
そして、コンクールの日。
ホールの照明がまぶしい。私は客席の一番後ろに座っていた。
ステージの上には――私の親友。
金髪の、誰もが羨むような少女。
流れ始めた旋律を聴いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
――“ハザード”。
私の曲だった。
怒り。悲しみ。嫉妬。裏切り。
全部が入り混じったような、刃のような音。
それなのに、観客はその旋律に涙を流し、審査員は感動していた。
あの子と笑いながら作曲してた日々が、まだ耳の奥に残っていた。
だからこそ、痛かった。
胸が、ナイフで刺されるみたいに痛かった。
それでも私は立ち上がらなかった。
隣に座る憂の小さな手が、私の袖を掴んでいたから。
「お姉ちゃん……あれ、お姉ちゃんの曲だよね……?」
「……うん。でもね、いいのよ」
「なんで……?」
「だって、あの子も頑張ったんだもん」
私は、そう言って笑った。
けれど、唇が震えて止まらなかった。
あの日を境に、私の周りの空気が変わった。
誰もが私を避け、陰で笑うようになった。
机の中に紙くず。
靴が隠され、ノートが破られた。
私は母に言えなかった。
忙しい母の背中は、もう遠くにあったから。
憂に心配もかけたくなかった。
あの子の笑顔だけは、守りたかった。
――守ることしか、できなかった。
だから私は、いつも通りのふりをした。
勉強して、ピアノを弾いて、憂と歌って。
心の中では、音が少しずつ壊れていく音がしていた。




