第26話 雪乃は暗闇の中で
深夜の屋敷。
風は止み、廊下の空気は凍るように静まり返っていた。
石田は懐中電灯を手に、無音の歩調で進む。
蔵の前に差しかかったとき――
背後の床板が、かすかに鳴った。
隣の扉、古びたトイレの方から軋む音。
扉がゆっくりと開き、憂が現れる。
「……お手洗いに、行ってただけです」
冷たい静けさを帯びた声。
石田はゆっくりと後退し、穏やかに微笑みながらも、
刃の軌道を一瞬たりとも見逃さなかった。
金属が空気を切る音。
肩先をかすめる刃。
反射的に体をひねり、紙一重でかわす。
懐中電灯が床に転がり、光の円が揺れる。
石田は息を荒げるふりをしながら、微かに呼吸を整える。
視線は常に、憂の動きと重心を読んでいた。
再び、刃が閃く。
紙一重でかわしながらも、石田の唇は震える――それはあくまで演技だった。
そして、刃が迫る瞬間。
石田は静かに言った。
「……やっぱり、雪乃さんなのね」
低く、しかし明瞭に。
仮面を被った恐怖の演技は消え、そこには冷静な瞳が宿っていた。
憂とは別の、冷酷な顔。
目は細く吊り上がり、声は甘く底冷えする冷たさを帯びる。
動作は無駄がなく、無情。
「やっぱりそうだったの……!
私を騙してたのね、酷いわ石田さん。……もっと、もっと壊してあげる!」
石田は息を吐きながら、必死で刃をかわす。
一瞬、憂の目が揺れた――しかし体は動かず、表情だけがひそやかに、しかし確実に雪乃の冷徹なものへと変わった。
その笑みは計算され、冷徹。
刃を握る指先には、躊躇は一切ない。
石田は雪乃の視線をまっすぐ捉えた。
「……わかっているでしょ、雪乃さん。
この屋敷で起きた一連のこと――脅迫メールも、階段からの転落も、全部あなたが計画したものよ」
雪乃の瞳がわずかに揺れる。
しかし、声は返さない。
石田は続ける。
「あなたには二つの人格がある。
憂さんは優しく臆病で、感情で動く。
雪乃さんは冷静で計算高く、目的を遂行するために動く人格。
今回の事件は、その雪乃さんが表面化して起こしたもの――自作自演だったのよ」
雪乃の瞳がわずかに揺れる。
その瞬間、彼女の心を突き動かしたものは、恐怖でも怒りでもなかった。
まず一つは――ピアノの演奏。
憂が低音を鳴らすたび、肩を震わせる。
音符に混じるわずかな恐怖と戸惑い。
それを見た雪乃は、感情だけでは守れない自分の限界を知った。
そしてもう一つは――涼香さんが葉月をいじめる光景。
涙を堪え、肩を震わせる妹の姿。
憂のため、葉月のため。
冷静に、計算して行動せねば――と、雪乃の中のもう一人が目覚めたのだ。
石田は静かに言葉を重ねる。
「ピアノの反応と、葉月さんの苦痛。
その二つが雪乃さんを目覚めさせた。
感情では動けない瞬間に、冷静で計算高い雪乃さんが表に出て、今回の一連の行動を実行したのよ」
雪乃は目を伏せ、わずかに肩を震わせる。
その奥には、冷たくも理性的な意志が潜んでいた。
――感情だけでは守れないものを、守るための“雪乃”という人格。
静寂の中、雪乃は自分の計算と演出がすべて見透かされ、
それを認めるしかないと、重く受け止めた。
石田はさらに低く呟く。
「偶然、誕生日会のときも葉月さんが動画を撮った瞬間、カップを左手で持っていたけれど……立証はできないわね」
その瞬間、雪乃の内側で何かがぴたりと止まった。
――雪乃は、騙されていた。
しかし、動揺はすぐに冷静さに変わる。
感情で動く憂ではなく、計算高く行動する雪乃としての本能が、すべてを整理した。
葉月の震え、涙、声の震え。
それは偶然でも、純粋な恐怖でもなかった。
石田と葉月による、計算された“演技”。
雪乃の唇がわずかに歪む。
彼女の目には冷静な光が宿り、恐怖や怒りではなく、確かな理解があった。
雪乃の瞳が細く吊り上がる。
冷たく光るその瞳は、理性の底に潜む狂気を覗かせる。
声は甘く、しかし底冷えするような冷たさを帯びた。
「素敵よ、石田さん……」
微かに首を傾げ、ゆっくりと笑う。
「あなたに見抜かれたこと……嬉しいわ。
私の計算と演出を、すべて理解してくれるなんて――」
その笑みは、優しくも穏やかでもない。
純粋に、快楽に近い感覚で――自分の心理ゲームが完全に読まれた喜び。
雪乃の瞳が遠くを見つめ、言葉を続ける。
「葉月をいじめた報復よ。
脅迫メールは涼香の嫉妬を煽り、彼女を排除するための計算。
転落事故も自作自演。憂の体を傷つけたけれど、彼女を裁く演出だったの」
雪乃は微かに笑み、冷徹な計算の下に潜む理性的な光を宿す。
「すべて、憂のためよ。彼女が一人にならないように……」
静寂が廊下を包む。
雪乃の言葉が、重く響き渡った。
石田は静かに問いかける。
「雪乃さん……なぜ、憂さんを傷つけてまでこんなことを?」
一瞬、沈黙が廊下を包む。
雪乃は肩の力を抜き、目を伏せたまま答えない。
静寂だけが、二人の間に重く沈む。
やがて、雪乃の声がかすかに漏れる。
――昔話のように、ゆっくりと、しかし冷たく滑らかに語った




