第21話 嵐の夜、階段の前で
外は梅雨前線の影響で荒れた天気だった。
窓を叩く雨粒が勢いよく流れ、風に煽られる雨戸の軋む音が、屋敷内に微かな緊張感をもたらしている。
昼間のうちに小テストを終え、憂と千秋は屋敷内で静かに過ごしていた。
窓越しに差し込む光は曇天の影響で薄暗く、部屋全体に柔らかくも不安定な影を落としている。
「……この文章、やっぱり憂さんらしいね」
千秋が小さく笑みを浮かべると、憂も微かに微笑んだ。
「文法も意味も問題ないよ」
外の雨風はさらに勢いを増し、屋敷全体に重く湿った空気が流れ込む。
窓の外では台風の接近を知らせる風の音が混じり、屋敷の者たちは自然と警戒する。
「……今日は外に出るのはやめたほうがよさそうだね」
憂が言うと、千秋は窓の外を見やり、風に揺れる木々や雨に濡れた庭園を静かに観察した。
「そうですね……それに、台風警報も出ておりますし、憂先生、今夜はこちらに泊まられたほうが安全かと思います」
千秋は落ち着いた声で提案する。
屋敷の広さや夜の暗さを考えれば、万一のときに一人で動くよりも安心だと直感したのだ。
「……うん、わかった。ありがとう、千秋」
憂は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑みながら頷いた。
二人の間に短い沈黙が流れ、窓の外の荒れた天候がその静けさを際立たせる。
自然に決まった宿泊の提案は、恐怖や不安を少し和らげる効果もあった。
台風の接近で風が荒れ、窓を叩く雨粒が激しく流れる音が廊下に響き渡る。
雨戸の軋む音が、普段は落ち着いた屋敷をどこか不気味に変えていた。
憂は布団からそっと起き上がる。
胸の奥がざわつき、心臓が早鐘のように打つ。
今夜は屋敷に泊まることになったとはいえ、暗く長い廊下を一人で歩くのは、やはり怖い。
憂は手に携帯を握り、ライトを点けて慎重に歩く。
廊下の影が揺れ、古い柱や額縁の輪郭が歪むたび、心臓が強く跳ねた。
「……大丈夫、何もない……ただの風……」
小さな声で自分に言い聞かせる。
だが次の瞬間、背後から――かすかな“衝撃”が。
まるで誰かに押されたような、ほんの一瞬の違和感。
思わず手すりに手を伸ばしたその瞬間、足元が滑った。
鋭い痛みが掌を貫き、額から温かな血が滴る。
視界が赤く滲み、息が止まる。
「……っ!」
足元の床が遠ざかり、憂の身体は階段を滑り落ちた。
暗闇の中、雨風のうなりと自分の呼吸だけが響く。
頭から流れる真っ赤な血が視界を覆い、恐怖と痛みに声も出せない。
ただ、宙を舞う感覚だけが身体を支配していた。
――数分後。
「憂さん! 憂さん!! 大丈夫!? 誰か呼ばなきゃ!」
駆けつけた千秋の声が遠くに届く。
焦る気持ちを抑えながら、千秋は憂の体を抱き起こし、額の血に気を配った。
雨音と風にかき消されそうな声の中、必死に呼びかけ続ける。
台風の荒れた雨風が、屋根や窓を叩き続けていた。
憂はベッドでぐっすりと眠り、額の包帯に触れることもなく、安らかな寝息を立てている。
葉月は憂のそばに座り、静かに手を握る。
涙をこぼさぬよう、必死に堪えながら。
千秋はベッド脇の椅子に腰を下ろし、憂の呼吸を注意深く観察していた。
落ち着いた表情の裏には、わずかな緊張が滲む。
「……憂ちゃん、少しでも落ち着いて寝てくれていると安心するね」
「本当ですね。今日の出来事があっても、こうして眠れるのは良い兆候です」
二人が静かに言葉を交わすその時、医務室の扉が静かに開いた。
石田が一歩、部屋に入る。
むっつりした顔つきだが、どこか母のような安心感を漂わせていた。
長年屋敷を支えてきた経験から、彼女の存在には自然と周囲を落ち着かせる力がある。
「千秋様、葉月さん……憂さんの様子はどうですか?」
「はい……ぐっすり眠っています。呼吸も安定しています」
葉月が答えると、石田は小さく頷いた。
「事故の後ですから、無理に起こさず、まずは休ませるのが最優先ですね」
憂の寝顔を見つめていたその時――
「……雪姉……」
かすかな寝言が、静寂の中に漏れた。
葉月はハッと息を飲み、憂の手を握りしめる。
石田はむっつりした顔のまま、微かに口元を緩めた。
「……無理に起こす必要はありません。こうして見守っていれば十分です」
荒れた雨音の中に、静かな安心感が漂っていた。




