第19話 甘い匂いと破られたノート
廊下は重苦しかった。窓から差し込む光が床に細い影を描く。憂はそっと歩き、葉月の様子を窺った。
「葉月さん、また皿の順番が違うじゃないですか」
涼香の声は冷たく、刃のように胸に刺さった。葉月の肩が小刻みに震え、手が止まる。皿を動かすたびに指先が固まり、うまく扱えない様子が伝わってきた。
涼香は肩越しに見下ろし、わずかに笑った。
「ねえ、そんなに震えて……本当に、やる気あるの?」
その軽蔑は骨の髄まで染み渡るようだった。葉月が顔を伏せると、涼香はわざと肩に手をかけ、少し圧を加えた。
「もっときちんとできるんでしょう? こんな簡単なことも間違えるの?」
言葉だけでは足りないとばかりに、涼香は葉月の手首を軽くつかみ、紙を持つ手の動きを制した。
「どうして昨日と同じ失敗を繰り返すの? 本当に学習能力ないの?」
嘲る声がじわじわと胸の奥に重くのしかかる。憂は息を飲んだ。目の前で誰かを支配する光景が、これほど冷たく見えるとは思わなかった。
そのとき、涼香が憂の存在に気づき、鋭く視線を向けた。瞬時に表情を整え、柔らかな笑顔に切り替える。
「憂様、ご休憩ですか? ちょっと手違いがあっただけです」
その言葉に、憂の心は小さく揺れた。あの微笑みの裏に潜む冷たさを、ほんのわずかに感じた――だが声に出せるのはただの心配だけだった。
休憩が終わり、憂は千秋の部屋に向かった。廊下はいつもより静かで、午後の光が差し込んでいた。
机の上に目をやると、信じられない光景が広がっていた。ノートはびりびりに破かれ、ページが床に散らばっている。折れたペンが転がり、インクのしみが淡く光を反射していた。ほのかに甘い匂い――手に塗るクリームのような香りが、そこに混じっている。
胸がざわついた。どうしてこんなことに――理由がわからない。驚きと違和感が、言葉を奪った。
そのとき千秋が部屋に入ってきた。目を丸くして憂を見つめる。
「……憂……?」
彼女の手が胸の前で小さく震えた。千秋の存在だけが、かすかな安心を与えてくれるようだった。
「大丈夫よ。落ち着いて」
その声に、憂の心がほんの少し和らいだ。だが机の上の破れたノートと折れたペン、そして香りは、憂の胸に冷たい影を落としたままだった。
「一緒に片付けましょう」
千秋がそう言った。憂は小さくうなずき、散らばった紙を拾った。千秋は黙って隣で見守る。その存在だけが、わずかな温かさを与えてくれた。




