第17話 苺の香りと黒い手紙
午後の柔らかな光がキッチンに差し込む。
葉月はシンクで洗い物に向かい、
ゆっくりと息を吐きながら泡をすくう。
使い終わった器やカップをひとつひとつ丁寧に洗い、
布で優しく拭き上げていく。
その手元には、先ほど憂や千秋が喜んでくれたフレジエの余韻が
まだほのかに残っていた。
小野はキッチントレーを片手に静かに立ち、
葉月の背中を見つめる。
言葉は少なくとも、その視線からは、
葉月の一つひとつの動作に込められた真心を
感じ取っていることが伝わる。
葉月は泡で濡れた手をタオルでそっと拭い、
軽く肩を回して息を整える。
小さくため息をつきながら、口元が微かに緩む。
「……こんなに喜んでもらえるなんて、思っていなかった……」
自分の作ったケーキが、ただの甘いお菓子ではなく、
誰かの笑顔や温かさを生むものになったことに、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
泡をすすぐたびに、小さく息を吸い、吐きながら、
手元に集中する。
小野は黙って見守り、時折葉月の手元を軽く整える。
無言のやり取りだが、その静けさの中に
互いの信頼と尊敬が自然と宿っている。
葉月は手を休め、窓の光に目をやる。
深呼吸をひとつしてから再び思い返す。
憂の小さな笑顔、千秋の照れくさそうな微笑み――
どれもが、今まで自分が感じたことのないほどの嬉しさを運んできた。
「……やっぱり、また作ろう」
声には決意が混じり、口元が軽く緩む。
単なるお菓子作りではなく、
誰かを想い、笑顔を届けるための約束のようにも聞こえた。
小野は静かに頭を下げ、キッチントレーを片付ける。
葉月はゆっくり息を吐き、
シンクの水音と、窓から差し込む陽光の中で手を動かし続ける。
フレジエの甘い香りが微かに漂い、
布の乾いた匂いも混じる中、
葉月は丁寧に一つひとつの器を洗い上げながら、
また誰かのために心を込めて作ることを思い描くのだった。
葉月はシンクの水滴を拭き終え、ようやく腰を下ろした。
腕の力を抜こうとしたその瞬間、
手元に挟まっていたレシピ本の間から、
一枚の紙がひらりと落ちた。
紙を拾い上げると、
黒々としたインクが飛び散ったように、
殴り書きの文字が躍っていた。
文字は大小まちまちで、行間も歪み、
まるで紙そのものが怒りに震えているかのようだ。
『この屋敷では、誰も本当のことを言わない。
あなたが笑うたびに、誰かが泣いています。
それでも優しくいられますか?
あなたを守る人は、すぐそばにいます。
――この家を離れなさい。
千秋家のメイドをやめれば、あなたは傷つかずに済むでしょう』
声に出さずとも、文字が耳元で囁くように迫る。
葉月の手は微かに震え、指先に力を入れるたび、紙がぐらりと揺れた。
掌の汗がインクの匂いと混ざり、
胸の奥に冷たい緊張が走る。
強調された部分は太く、文字の端は滲み、重なり、
まるで紙の上で声を張り上げているかのようだった。
葉月は視線を泳がせる。
文字の形が瞬間的に歪むのを感じ、息が詰まった。
喉の奥が締めつけられる。
『裏切られる前に…お前は消える。逃げ場はない――千秋家の仕事など、続けるな!』
手に握った紙は小刻みに震え、
冷や汗が肩を伝って指先にまで落ちる。
心臓の鼓動が耳まで響き、文字が跳ねるように見えた。
頭の中で問いかける――
誰が? なぜ?
だが答えはない。
文字は紙の上で暴れ続け、葉月の心に冷たい影を刻む。
呼吸が荒くなり、目の前の文字が揺れるたび、
体全体に戦慄が走った。
葉月は手の震えを抑えようと深呼吸をする。
紙を前に置いたまま、しばらく動けずにいる。
心臓の高鳴りと文字の暴れが呼応するかのように、
目の奥に微かな恐怖が滲んだ。




