エピローグ
翌朝の六地蔵家は、いつもより少し静かだった。
ダイニングには白いクロスがかかった長いテーブル。
夜のあいだに降った名残の雪が、薄く庭を縁取っている。
テーブル中央には、湯気を立てるポトフと焼きたてのパン。
コーヒーの香りが、ほのかに漂っていた。
「…………静かだな」
カップを手に、千秋の父がぽつりと呟いた。
淡々とした声なのに、言葉の端にかすかな寂しさが滲む。
「何がですの?」
向かいの菊子が、ゆったりと指先でナプキンを整える。
「久しぶりに……家族三人だけの朝だろう?
本来なら“落ち着くな”って思うところなんだが」
パンをちぎりながら、彼は少し視線を落とした。
「…………静かだな」
千秋の父が、コーヒーを一口すする。
その視線は、自然とダイニングの奥――音楽室の方向へ向いていた。
「千秋の“おかわり、お願いしますわ”が無いと、
少し物足りないな」
「ふふ……確かにそうですわね」
菊子も同じ方向へ視線を向ける。
「音楽室のほう、まだ灯りがついていますわ」
「……朝から弾き続けているのか」
父は眉を寄せ、軽く息をついた。
「昨日、あんなに泣いたのに……
今日は、ひとりで背負おうとしている」
「ええ。
練習ではなく……気持ちの整理、なのでしょうね」
スプーンが静かに皿に触れる。
ホールで起きたあの出来事は、
喜びも、寂しさも、痛みも、
すべて千秋の胸に残っている。
「本当……あの子は、無理をしすぎます」
「それでも、止められない性格だからな。
頑固さは……誰に似たんだろう」
父の言葉に、菊子がわずかに笑みを漏らす。
「あなた以外に、誰がいますの」
小さく笑ったあと、菊子は真剣な目になる。
「……でも、そろそろ。
一度、こちらへ戻ってきてほしいですわ」
「ああ。
朝食くらいは一緒に食べたい」
父の柔らかな願いが、静かなダイニングに落ちた。
そのとき――
廊下から足音と、鍵盤が止まるかすかな音が聞こえた。
「おはようございます」
扉が静かに開き、千秋が姿を見せた。
淡いワンピースにカーディガン。
泣きはらした痕が目元に少し残っている。
「千秋」
父の声が、ふっとやわらぐ。
「もっと休んでいても良かったのに」
菊子が優しく言う。
「いいえ。
おふたりと一緒に……朝食をいただきたくて」
千秋は丁寧に一礼し、ふたりのあいだに腰を下ろした。
「いただきます」
手を合わせる声が三つ、そろう。
ポトフをすくう銀の音。
パンを割く小さな音。
――それは何の変哲もない朝食風景。
ただし千秋にとっては、少し眩しいほどの“日常”。
スプーンを口に運びながら、
千秋は胸の奥でそっと呟いた。
(雪乃さん……見ていてくださいますか)
返事はない。
でも胸の中心が、ほんのりとあたたかい。
「千秋」
急に父が真面目な声になった。
「昨日は……本当に、よくやったな」
「わたくしひとりの力ではありません」
千秋は控えめに笑う。
「雪乃さんと、憂さんと、葉月さん……
お父さまとお母さまがいらしたからこそですわ」
菊子が、胸に手を寄せるようにして目を細める。
父はカップを置き、静かに目を細めた。
「──おまえの、そういう強さが……
俺は、好きだよ」
飾らず、短く、しかし揺るぎない。
千秋は一瞬、息を呑んだ。
あの父がはっきりと言葉にしてくれたから。
短い沈黙。
けれどその沈黙は、穏やかだった。
ブリザードは終わった。
今、目の前にあるのは――
温かいスープと焼きたてのパン。
窓の外の雪も、静かに止んでいた。
「……あの」
千秋はそっとスプーンを置き、両親を見つめた。
「どうしたの?」
「お父さま。お母さま」
背筋を正し、少しだけ息を吸う。
「本日は――
一日遅れのクリスマスプレゼントとして……
ひとつ、お願いがございますの」
「……願い?」
父は眉をわずかに上げる。
千秋は、目を伏せずに言った。
その瞳には、強さと揺らぎが同時に灯っている。
父と母は、視線を交わして――
静かに頷いた。
「――聞こう」
「ええ、聞かせてくださいな」
千秋は胸に手を添え、
最後の決心を込めて――そっと微笑む。
(雪乃さん。
ここからが、わたくしの番ですわ)
朝の光が、三人の影を優しく重ねた。
新しい季節へ踏み出す、
最初の“わがまま”。
――この願いが、まだ誰も知らない物語を動かしていく。
千秋自身の音で描く“未来”の第一歩として。




