序章・連 京護(14)の転換日 7
最後に津波のような表現があります。フラッシュバックのある方は注意が必要か、読まない事を推奨いたします。
甚八の額から一筋、汗が伝う。
拭いたいのに手が震えたままだ。やがて汗は頬を伝い、一滴だけ影に落ちた。
汗は音もなく消える。床に落ちたのか、吸い込まれたのかは分からない。
そして影は、甚八を凝視したまま沈黙している。
どこまで人間を理解しているのだろうと、甚八は、言葉を続けた。
「……僕に「それだけか」と言ったが、それが重要なんです」
甚八は口を閉じ、錆びついた機械のような動きで起き上がる。
目前の少年は、甚八と目を合わせるや、びくりと肩を震わせた。
「僕は当事者の家族だ、全容を知りたい。それが僕がいくらでも待つ理由」
「あ、あの、おれは」
京護の主治医である自覚は、捨てていない。小児科医である常日頃を思い出し、仕事として患者に不安の無い顔をする。
そして、もう一つの理由を告げる。
「うん。何度でも言うね。僕は、連君を悪いようにしない為にここにいるんだ。
知りたいのも本音だ。
知らなかった事を知る事で、未成年である君の保護を最優先に、出来る方法を考える」
京護が答えに詰まって辺りを見渡すと、甚八だけを見ていた目のいくつかが、京護を見た。
「でも……」
京護はそれを気にせず、むしろ、返す言葉に困っていた。
「僕を疑っていて良いよ」
「え?」
「分家の人間だから仕方がない。君にとっては……とても怖い、存在に見えると思う」
広がったままの影を一瞥し、皮肉になってやしないかとハラハラした。
甚八は京護の主治医だ。
京護の精神面以外なら、既に診察済みなのだ。
平均身長も体重も届いていない痩せぎすの体には、多くの傷痕があった。
だから、異質な存在より人間の方が怖いだろうと、理解している。
甚八を伺う影の海は、波をうつように足を捕えている。
一つの目が裾に当たると、そこから細い手が何本も生えて布を掴む。その手にもまた目が浮かび、甚八を覗きこむ。
甚八は、ふと、本家に仕えていた父も影を見た事があったのか気になった。
「……連君。華出井の主治医だった父は、そのほとんどを本家の傍で見てきた筈だ。
そして、見なかったフリもしてきただろう」
「先生の……おとうさんて……」
「僕はすぐに家を出たから知らないんだが、父の責任をとるために、家に……」
最後まで言えなかった。
甚八の脚を掴んでいた小さな、細くて多い小さな手が集まり、一つの大口になったのだ。
【ソウカ】
口は一瞬で天井までの高さになり、甚八を見下ろして嗤った。
「な、……に」
「おとうさん?」
【おまえ ソウカ そうか オマエ】
【そうか ソウカ おまえ ソウカ】
広がっていた海の影が、甚八だけを目掛けて覆い被さろうと波をうつ。
【あのお トコ の ソバ いた ヤツの コ】
影の大波に飲み込まれると思った甚八は、反射で死を覚悟して目を閉じた。




