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華出井 葵(12)と願いの井戸 25

【て ンか いテ んカ イ て ン か】


 葵の言葉に、一番に反応したのは影だった。

 しかし、繰り返す言葉の羅列は合わないので、葵が影だけに教える。

「て、ん、か、い。だよ、おっさん。転ぶ世界」


【テ ん カ い テン かい】


 言葉の意味を捕えたのか、何度も同じ4文字を響かせる。

 この名前に好奇を向けたのだと、葵や京護、甚八も気づく。

「おっさんが、すっごい反応してる」

 影の形を、溶けたスライムから一転。京護の足元でスキップをするように、影が跳ねている。

 それは、川へ投げた石が水面に跳ねるがごとく。境界線が曖昧な影の沼で、水面のように揺れる。そして石のような一筋の影が、いくつも影の沼から放物線を描いていた。

 そんな放物線の始点と終点に合わせて、軽快に短い風の音が聞こえる。

 影の声が、聞こえない甚八も苦笑するほど、影は楽しそうだ。

「ようやく、アレ以外に興味を持ったんですね」

 甚八が、葵の持っているガラス細工のような立体パズルを一瞥してから、影を京護超しに見下ろす。

「自分が居た場所に名前が付いていたのを、初めて知ったんだって。面白がってる」

 京護が足元を見ながら、甚八に説明した。

 葵には言わずもがな、だ。葵は影の、甚八には聞こえない影の声を拾える。

「よーし、このまま話題をこっちに持っていこう。甚八はこの名前知ってた? 知ってる顔してる」

 影の方が子供っぽいのでは? と甚八は思わず言ってしまいたくなる、葵のしたり顔だった。

 甚八は、影を見下ろしていた姿勢を戻し、ソファに座り直す。

「聞き及んではいました。でも、名前が違います」

「落ちた人しか分からないんだし、名前なんて井戸でも穴でもなんでも良いのにね」

 名を付ける事。そうする事で、知る人にのみ共通認識を植え付けるのを理解している甚八が、京護に顔を向ける。 

 尋ねる事によるトラウマもあるだろうが、聞かずにはいられない。

「連君は、何か呼び名を聞いた事ある?」

 京護は、転界という名前に心当たりは無かった。

 華出井家の本家に攫われた五年間で、思い出せる範囲でも、それらしい名前は無い。

 しいてあげるならと、京護は甚八を見上げる。

「井戸、としか」

 それで十分と、甚八は頷く。京護の周囲の人間が、どう言っていたかが分かれば良いのだ。

「大体は、井戸とかアレとか落ちるとかしか言わないものだから。僕もそっちの方で話してた」

 甚八は、視線を京護から葵に戻す。

「僕が知っているのは、明治時代の祖先がつけた物です。

 合鏡迷宮、だと」

 甚八の言葉にも、影が反応する。


【ゴウ き ヨ ご キ う ゴキ ゆう ウ】


 先より言葉があやふやになっているので、甚八は影を見下ろして、葵の真似をした。

「ごう、きょう、めい、きゅう」


【ごう キ よう ゴ きよ ウ め メイ き】


「めい、きゅう。小さい文字は言いづらいのかな」


【メイキ ゆう めい キユ う メ いき ウ】


 影に物を教えた事で、影に言い負かされてきた甚八は、内心優越感に浸った。

 大人の小さな矜持など気にせず、葵は自身の質問をする。

「甚八。それってどういう字?」

「確か、全て小学生で習う漢字ですね。合わせ鏡と書いて合鏡と読みます。

 戻れた人が、江戸川乱歩の鏡地獄を読んだ事があり、そのまま『鏡地獄』て名付けたそうです。

 名前が色々変わって、合鏡と」

 言い終えてから、甚八の隣で京護が眉根を潜めて首を捻っているのに気づく。

 九歳で人生が変わってしまっていたんだったと、失言に反省する。

 優越感から一転。甚八はスマホを取り出し、漢字を打ち込む。

「こう書く。注文したテキスト、漢字ドリルもあるから覚えれば良いよ」

 立体パズルを背後に持ち替えた葵も、液晶画面を覗き込む。

 顔を上げた京護は、甚八が自分の為にしていた事を思い出した。

 甚八の、目の下のくまの一つの原因は、京護が学校に通えるようにというリサーチだ。

「先生、あの…………ありがとう」

「どういたしまして」

 甚八は笑みを浮かべ、頬を丸くさせる。

「ねえ。鏡地獄て、どんな作品?」

 葵の質問に、甚八は手に持ったスマホでそのまま検索した。

 調べる過程で呼んだ程度なので、ストーリーまでは説明するほど覚えていなかった。

「そうですね。

 子供のころから鏡やガラスなどの反射するものに興味を持っていた人が、ある日、内面が全て鏡の球体を作って入ったら気が狂った話、という感じです」

「それ面白いの?」

「物語なので感想はそれぞれかと。そういう感想のように、落ちた先がどういう場所なのかは、落ちた人ごとに違うと思いました。

 それは、落ちた場所が違うのか、落ちた人次第で変わる場所なのか。僕が調べる限りは、分かっていなかったのです」

 甚八はスマホを白衣のポケットに戻し、ポケットの中で、恐れを隠すようにスマホを握る。

「その人ごとに違う故に、自分と向き合う世界とされた。誰もその場所の突き当りも終わりも分からない。

 それらから永劫世界を表す意味でも、合わせ鏡の名前は残ったのでしょう」

 その答えに一番近い所にいるのが、自分でもあるのだ。

 データや本の延長線上の最先端にいるのは、正直、気分が良い。

 そんな甚八の好奇心や探求心に気づかない、というより興味のない葵が、首を傾げた。

「甚八の言葉がむずかしいんだけど。えいごうって?」

 はたと、甚八は現実に立ち戻る。

「申し訳ございません。永劫は、終わりがないように感じられるほど長い年月という意味です。

 脱線しましたね、話を戻してください」

 葵は心得たとばかりに、二人から離れて、距離を戻す。

 葵基準の、舞台の大きさがあるらしい。

 影は三人を気にせず、新しく覚えた言葉二つをひたすら繰り返していた。

 影の言語らしき風を切る音まであるので、甚八は、影の言語を理解する葵と京護はうるさくないのだろうかと、こっそり気にした。

 二人に目立った変化や、表情はない。

 葵は戻った、ただの床である舞台で説明を再開させる。

「おっさんでズレた話を戻すね」

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