序章・連 京護(14)の転換日 4
「シンプルな悪口っ」
カッとなった甚八は勢いで叫ぶが、これ以上は、生存本能で言い返せなかった。
「いやいや言い返すことがバカバカしい」
アンガーマネジメントを思い出し、6秒数えている間に気づく。
相手の方が命を握っている力は強いのに、お互いが、観察される側でこの場が進んでいる。
眉間の皺を指で伸ばしながら、最後の1秒で溜息をつく。
ペースは戻った。
「子供の前なんです。口が悪い会話は、やめましょう」
引き合いに出した京護を見ると、倒れていた体を少しだけ起こしていた。
こちらの様子を肩ごしに伺いつつも、まだ少し苦しげに息を吐いている。
甚八は、ベッドの傍にある小さな机の上を見た。つい先日に置いたままだった、深めのプラスチック容器を手に取る。
U型のトレイには、ビニール袋が広げられていたので、そのままを京護の口元に沿える。
「吐きたくなったら、ここに吐いて良いから。君のペースで大丈夫だよ」
そう告げた医師をならうように、影が、言葉を繰り返した。
【はきた クナ ここ ハイテ い イカラ】
腕一本の影が、ベッドに手をかける。
底から這い上がっている、その手が少年に近づくにつれ、枝分かれしていく。
【ハケ はく ハケ はく イイ はけ ムスコ】
鳥の巣、鳥かご、次は、網に見えた。
足から被さろうとする網目の影を、京護は一瞥してから、自ら足を引っ込めた。
「……吐かないよ」
影は動きを止め。すぐに網目の一本がほどけた紐のように、京護に近づく。
【なぜ】
【ナゼ なぜ】
【ナゼ なぜ ナゼ なぜ ナゼ】
紐の影だけが動き、【なぜ】と問う数だけ、先が補足枝分かれする。
タコ紐ほどの太さがそれぞれうごめき、京護の口を開ける。
ある影は口を固定し、ある数本は喉に潜り込み、鼻腔を通り、一つだけ眼球に這い上がる。
「ちょ、っ、ぁぐ……」
痛みより違和感が先にあるのか、侵入する影たちを捕まえて、引きずりだそうとする。
見下ろす甚八の方が、痛々しげに眉根を顰めた。
眼球の縁にそって出た影の先のまま、至近距離になった京護の目に向かって、話しかけた。
【は カナイ はけ ダス だす ラク】
「らく、ジャナイ」
苦し気に出た京護の声が、一瞬、影の声に聞こえた。
医師の緊張感をよそに、喉に侵入する根元を掴んだ。
弱弱しい力でも引っ張ると、あっさり全ての影を抜いた。
「これの方が、っうえ、気持ち悪い……おえっ」
【むすこ ハイタ あと ネテタ】
【ねる イヤカ】
垂れる涎を袖で拭きながら、言われる言葉の意味を考える。
影も医師も、少年に何もしてはこない。
沈黙の間に、過呼吸も含めて呼吸が落ち着いた。
そうしてようやく、影が何を指していたのか思い当たることができた。
「もしかして……おれが小さいころ風邪引いて床に吐いたこと言ってる?」
あの時、母親が京護の背中をさすっていた。
幼かった自分は、吐いた次の日から、徐々に回復していた。




