華出井 葵(12)と願いの井戸 1
むらじくん、と呼ばれた。
そんな風に呼ばれなくなって久しい京護は、これは夢だと思った。
馴染みの無いベッドの感触だから、間違いなく夢だ。
呼ばれる声は優しいし、夢なら寝て居よう。
でも誰だろう。
そういえば最近、自分より年下の子供に懐かれた。
その子は、いつも楽し気に京護と呼ぶ。
「むらじくん」
苗字で呼ぶ声が、先よりハッキリしていく。
変わってしまった現実は辛く、起きたくない日々となった5年間。
そんな毎日に、こんな声は無かった。聞き覚えがあるのは何故だろう。
「連君、そろそろ起きないと来てしまうよ」
「…………だれぇ?」
寝言のように舌足らずに返すと、連君と呼ぶ声が答えた。
「葵様が」
パッチリ、という音が似合う勢いで覚醒した。
「葵様がっ」
勢いよく起きると、声の主が甚八だったのに気づく。
視界に見える風景で、ようやくここが病室だと思い出し、安堵の息を吐く。
もうここは、あの日々が終わった先。
その引き換えに、己の影には父がいるという奇異な現実。
京護にとっては一瞬強張った全身の力が、ゆるりと抜ける、安心できる場所。
そんな場所だと思わせてくれた当事者であり、寝ていた京護を起こしたのが甚八だ。
京護が寝ていた長ソファの向かいにある、一人用に座っている甚八は、明確に疲労を背負っていた。
「…………先生、目の下すごい」
甚八の目の下。くまの居座りの濃さに、思わずたじろぐ。
「寝てないの? おれがいたから」
「ん? いや、僕の毎日はこんな感じだよ。ちょっとは寝たし」
甚八はソファのひじかけに手を置いて、立ち上がる。
よく見れば、食べ物や飲み物の残骸が広がっていたテーブルは、綺麗に片付けられていた。
代わりにノートパソコンや書類、エナジードリンクの缶に変わっている。スマ―トフォンと折りたたみの携帯電話が一台ずつ、ノートパソコンの傍にあった。
何かしらの作業をしていたのは分かるけど、すぐ傍なのに気づかなかった。
気づかなかったことに驚きながら、背伸びをする甚八を見る。
「あー、年々腰に堪える」
無精ひげの生えた顎をさすり、京護に声をかけた。
「おはよう連君」
まるで、今までも当たり前にかけられたような口調だった。
京護は、胸の内に柔らかい陽光がさす気分で返す。
「おはよう、先生」
甚八は、満足げに頷いた。
「じゃあ葵様が来る前に、朝ご飯にしよう。僕は朝カレーにしたいけど、匂い大丈夫かい」
そう聞かれ、記憶に残っていた香りに胃が刺激される。
同時に、こんなに見た目くたびれているのに今からカレー食べるんだと思った。




