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九話 スイッチ

『ふぅー、早く片付けちまおうぜえ』



 小さな四畳半の部屋の中。小さなちゃぶ台の上で糊の固まりのようなものが、どろどろと身体を広げてくつろいでいる。古い畳の中央にはそのちゃぶ台ひとつだけがぽつねんと置かれていた。


 伊織は持ってきた風呂敷を床に広げて、そのふざけた存在を見る。



「Bでいいんだよな?」


 小さな茶色い瓶を片手に聞いた。



『ああ、反応濃度二刻未満な。ったく、この部屋外より寒いなあ』



 アヤカシがだらけている間に、伊織は仕事を片付け、長押にかけていた洋服に手早く着替える。着物と比べて一々ボタンを止めるのが億劫だ。



『相棒ぉー、早く行こうぜえ』


 暇を持て余した様子で声を上げる。見てみると、一つ目の上に口のような凹みがあった。おそらく、ひっくり返っているのだろう。奇妙な生体だ。長年連れ添ってはいるものの、どういう構造になっているのかよくわからない。呆れた目を向けると、今度は液状の身体を波打ち始めた。



「少しくらい待てないのか」


 風呂敷から櫛を取り出して、ぼさぼさの髪を引っかかりながらも解かしていく。最後に香油を少しだけ手に取って髪に撫でつけた。



「ほら行くぞ」


『ほいさっさぁ』



 糊の固まりは勢いよく飛び上がると伊織の肩にのった。帽子を目深にかぶって、廊下へ出る。鍵を締めてから、急斜面の階段を下りていく。


 音に気付いたのか、下の小窓から老婆が顔を出した。



「おや、色男になってまあ」



 じっとりと伊織を見ると、白い煙を吐く。煙草で山ができた灰皿の上で、新しい灰を落とした。伊織は胸ポケットからくしゃっと潰れた煙草の箱を取り出して老婆に渡す。



「また頼むよ」


「はいよう」



 老婆はねっとりとした笑みを浮かべる。

 少しだけ気味の悪さを感じながらも、小さく会釈を返してその下宿を後にした。人通りの少ない静かな町とはいえ、人目を避けて路地裏に向かう。すると、糊の固まりが肩から飛び跳ねた。



『さあて、ワシもおまじないの時間だなあ』


 伊織の前に浮かんでクネクネと身体を動かす。



「いちいちいいから早くしろ」


『なんだよぉ。ツルちゃんみたいでいいだろー? 鶴子、お気に入りだろー?』


 糊の固まりが伊織の顔に寄って言うと、伊織はすぐにそれを掴んで握り潰した。



『わっひでえや! 離せっ!』


「いいから、早くしろ」


 ぶよぶよの固まりを道に投げ捨てる。「へぶっ」とどんくさい声がした。



『ったく、ひどい扱いだぜえ』


 文句を言いながら、ふよふよと伊織の元に戻ってきて頭にのって、また飛んだ。



『宗一郎スイッチ、オン! ちかちか!』



 大きな声でそう言うと伊織の頭に全身をぶつける。一瞬、伊織の動きが止まり、目つきが変わった。すぐに伊織は頭を押さえて、アヤカシを睨みつける。


「いい加減普通にできないのか、お前は……」


 はずみでずれた帽子をかぶり直し、顔を少しだけ上げて前を見た。




 ❖ ❖ ❖





 伊織――宗一郎は銀色の髪留めをケヤキの一枚板で作られた文机の上に置くと、向かいの男は光りにかざして、じっくりとそれを眺めた。古い屋敷は日当たりがよく、真冬だというのに立派な庭に向けて障子を開け放たれている。


 枯山水の周りに細い小道が連なり、優雅な風情を作っている。この空間だけ時間がゆっくり流れているようだ。小道の横に立つ松の木は程よく選定されて、気持ちよさそうに大ぶりの枝を広げている。部屋の中に視線を戻すと、一面に並んだ棚には所狭しと銀器や古時計、木彫りの獅子やら西洋の玩具まで多種多様な品が並んでいる。


 宗一郎がそれらを眺めて値踏みしていると、男はゆっくり頷いて口を開いた。



「よく見つけてくれたよ。これが例の視線を集める髪留めか。確かに、なんてことない髪留めなのに、つい気になって見てしまう……不思議な魅力があるようだ」


 男は整えられた髭を揺らして、低い声で言った。



「偶々でしたが……よく、目立ってたもので」


「こんなこと、おたく以外頼めないからねえ」


「お役に立てて何よりです」

(こんなもん、一体何に使う気だよ……)

 


 宗一郎のときは普段のように話してみても、アヤカシの力で実際に発される言葉が補正される。すべらかになる、が近いのかもしれない。過去にあのアヤカシが憑いていた者達の名残か、あるいは。



 この見た目は便利だ。人当たりはいいのに、なぜか記憶に残りにくい。話し方だけでなく、見た目の印象も本来の伊織からだいぶ変わって見えるようになるようだ。身だしなみは最低限変えてはいるが、本来の伊織と同一人物だと気づかれたことは一度もなかった。



「そうだ。また頼みたいものもあるんだが、良いかね?」


 髪留めをテーブルに置いて、男がもったいぶるように言った。



『このおっさん、いっつも変なの探してくるよなあ。どっから噂聞いてくんだかな』


 糊の固まりが、座敷横の縁側で平べったくなりながら言う。身体を干しているようだ。



「なんでしょう?」


「いくら巻いても途中で止まるオルゴールがあるそうなんだ。聞いたことないか?」


「いえ……」



『勝手に止まるってぇ? なーんか挟まってるだけじゃねえのー?』


 たぷたぷと身体を揺らして笑っている。宗一郎は少しだけ文机にのりだした。



「アヤカシが憑いている……と?」


「ああ。他に考えられないだろう? 旦那衆がみんな欲しがっててねえ。どこかのカフェの女給が持ってたとかいうんだが」


「へえ。そんな噂があるんですね」


「ああ、旦那衆倶楽部があってな。そこで毎月集まっては珍品を自慢するんだよ。これがね、意外と楽しくてねえ」


 愉快そうに髭を撫でて笑った。



「先月は、しゃべる猫がいるだの、明治の軍帽がどうのって大騒ぎだったんだ。アヤカシ憑きの不思議な品が一番盛り上がるのさ。まあ、もしどこかで見つけたら教えてくれないか? 謝礼は弾むよ」


「ええ。少し探してみます」


 宗一郎は微笑み返して、ゆっくりと立ち上がる。



『なんだ、もう帰るのかよぉ』糊の固まりが駄々をこねるように更に伸びた。


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