八話 葡萄の銀彫金
「ツルちゃんも洋装、似合うと思うのよねえ」
麗しい貴婦人が切なげに眉を寄せて言った。房子である。いつもの丸椅子を勧めると、優雅に脚を組んで座った。
押しに負け致し方なく、この寂れた時計屋には少し不似合いな貴婦人を招き入れていた。こっそりため息を吐きながら、房子から預かった懐中時計を作業机に置く。長いチェーンの先に金糸の小ぶりな房がついており、青いガラス玉の飾りがチリチリと音を立てた。
「やっぱり、着物が落ち着きますよ」
手元灯をつけて、懐中時計を改めて見る。艶やかな銀彫金のケースに葡萄のモチーフが浮き彫りになっていた。裏蓋の縁に爪を掛けてかちっと外した。
「そう? うちに来たら奮発するわよぉ。可愛いんだからおしゃれしないと。たまには殿方とのデートにどうかしら?」
「そんな相手……いませんし」
一瞬、頭に宗一郎の顔が浮かんだが、すぐに鶴子は口をつぐむ。彼女に言えば瞬く間にフミに伝わる。フミに伝わったらもう町中に知れ渡るのは明白だ。
「この町にも若い衆いっぱいいるじゃない。うちのツルちゃんくらいのお針子は、みんなすぐ結婚して辞めちゃうのよ」
「私は、この店継がないといけませんし……」
言い訳のように返しながら、金属の中蓋に薄いナイフを差し込んでこじ開ける。
「そうね、私も実家の呉服屋継いで今の洋装屋にしたから……でもツルちゃんの年頃には最初の旦那と結婚してたわよ?」
カウンター越しに肘を置いて房子がぐいっと詰め寄った。むわんと房子の匂いも広がってくる。
「房子さんは……」
「いやだわ。マダムって呼んで」
鶴子を下から覗き込むように見て、なんとも甘い声を出す。
「はぁ……わかりました。マダム……」
向けられる視線が恐ろしく嫌が応にも否が応でも身体が縮こまる。さっさと終わらして早く帰ってもらおうと歯車を覗き込む。
しっかりと決意を固めて、いつものざわめきを待つ。じっと歯車が回る姿を見つめた。
しかし、しばらく待つものの、何も感じない。アヤカシも房子に怯えて隠れているのだろうか、と嫌な予感に冷や汗を流す。
「白石さんとこの文太くんとか仲良いんでしょう? あ、それとも隣りの伊織くん? もう、色男揃ってんじゃないのぉ」焦る鶴子をよそに房子は弾んだ声を上げる。
「どっちも無いですね……」
「そんなこと言って。私がもらっちゃうわよぉ」
貴婦人は意味深に笑い声を上げた。
「けど、そうねえ。確か問屋の跡継ぎがツルちゃんと同じくらいだったような……」
呟きを耳にして、更に冷や汗が滴った。房子の縁談など、相手がどうかなど関係なく、断れる気がしない。
むわんとした匂いと勢いで気が遠くなりそうだった。時計を握る手が汗で湿っていることに気付く。心臓がバクバクと鳴っていた。
もう、お願いだから早くしてくれと、神に願うように時計を握り締める。すると一瞬だけ、頬にざわめきが触れた。
鶴子はいつになく素早い動きでそれを鷲掴みにすると時計に押し込む。
――遅いわよ!! さ、房子さん痩せさせなさいよ!!
すぐに中蓋を合わせて押し込むとかちりと音を立てた。外蓋もつけ直して、ついでに時刻合わせだけしようと、さっと裏返してケースの蓋を開ける。蓋の裏が写真入りロケットになっていた。豆版のブロマイドの中で房子が照れくさそうに笑っている。
「あら、それ私の若いころなのよ。可愛いでしょう?」ふふ、と本物も照れくさそうに笑った。
「マダムは今もお美しいですよ……」
さっと時間を合わせて、房子に時計を返した。
房子は立ち上がると白いアンサンブルのベルトにチェーンをひっかけ直して、ポケットに時計をしまう。
「あら……なんだか腰回りがすっきりした気がするわ!」
両手を上品に上げてその場でくるっと回ってみせる。この上ない笑顔である。
それは気のせいだと思います、マダム。
鶴子は口をつぐんだまま、生まれてから一番の上品な微笑みを返した。
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翌日、鶴子は和菓子三好屋を訪ねていた。
「夏子! ちょっと!」
軽食所でのほほんと客のお爺さんと話す夏子を入口で手招きする。
「どうしたの?」
「ねえ昨日回覧板持ってった時、青い本挟まってなかった?」
「えぇ? 青い本?」
夏子は顎に手をやって上を見る。
「そんなの覚えてないわよー」
けろっとした顔で言うと、カカカッと下駄を鳴らしてすぐに中へと戻っていった。
「もう……」
すっかり肩を落として、大きくため息をついた。一体、どこに行ってしまったのか。
「ツルちゃん! 探したわよぉ」
ふと、道沿いから声がして振り向いた。町の奥方衆が勢ぞろいでこちらを見ていた。あまりの迫力に身を固める。
「聞いたのよ、房子さんに! すっごい細くなっちゃうって!」八百屋の五郎の嫁が言う。
「やだ違うわよ、胸がいつもより大きくなってたわよ!」五郎の嫁を軽く叩きながらフミが言った。
「いえ……あの……」
割り込もうとするが、たちまち横から大きな声が掛かる。
「前から細かったけど、若い頃みたいにさらに引きしまっちゃってねえ」履物屋の嫁だ。
「ツルちゃん、私たちのもやってちょうだい!」今度は精肉店の嫁が鶴子に顔を寄せて言った。
「私、ただの時計屋なんですけど……」
後ずさりながら、か細い声で答えた。四人は並んでこちらを見た。
「いいからやって!」奥方衆の声が揃う。
――だから、そんなことやってる場合じゃないんだって!!
鶴子は奥方衆に囲まれたまま、唇を震わせながらも作り笑いを浮かべた。