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五話 書生

 ある日の夕刻時。



 鶴子は作業机でパンをかじっていた。少し肌寒くなってきたため、着物の上から半纏を羽織っている。



 ――やっぱり昭江さんとこのパンが一番美味しいわあ……。



 相変わらず客のいない店内。誰に遠慮することもないまま緩んだ顔を浮かべる。レーズンの入ったとこにかじり付くと、じゅわりと甘酸っぱさが口の中に広がる。更にふんわりと膨らんだパンを食べ進めていくと、中央のバターの固まりにたどり着いた。バターが染みたパンを噛み締めて鶴子が恍惚な表情を浮かべていたとき。


 ふいに入口の鈴が鳴った。

 後ろ髪を引かれる思いでパンを皿に置き、そちらを見て、目を見開いた。 



「はっ! アンタ!!」

「あっあのときの!!」


 ふたり同時に指を指し合って叫んでいた。



 ばっと立ち上がると、板張りの床をカンカンと踏みつけながら男の元へ向かい、その胸ぐらを掴み上げる。

 先日鶴子を見て逃げ出した書生のような男だった。今日も変わらず詰め襟の学生服と丸眼鏡を身にまとっていた。



「この女の敵っ! 警察に突き付けてやるわよ!!」


「そっそんなあっ! 誤解ですって!!」


 男は両手を上げて壁にもたれかかる。



「何が誤解よ!」鶴子はずいっと顔を寄せ、まくし立てた。



 すぐ横の戸が開き、鈴の音がまた鳴った。


「なに騒いでんだ」


 戸を開けたまま、伊織が眉を寄せてふたりを見た。

 

「なんでアンタまでくんのよ!」


「いやうちにまで聞こえてたぞ……?」



 一旦落ち着けと諭され、中へと誘導される。鶴子にとってはこの世で嫌いな人物堂々一位と二位が、自宅に揃う不名誉な出来事であった。

 その書生らしき男に名前を聞くと草野だと名乗った。


 鶴子はいつもの作業机の椅子に座ると、草野は客用の丸椅子に腰掛けた。この店には他に座る所などない。伊織を見ると、ツカツカと鶴子の隣りまでやって来て、壁に背をもたげて腕を組んだ。

 なぜこっちに来るのか。眉を寄せて伊織を見たが、涼しい顔をして口を開けた。

 


「今日はなんでここに?」


「あっそうです、ここって梓月時計店で合ってますよね?」


「は?」



 眉間を更に深く寄せて草野をみると、風呂敷から取り出した新聞を広げて見せてきた。

 少し前に知り合いの記者がネタがないと嘆いていたので、宣伝を兼ねて鶴子の店の記事を書かせた物だった。



「この結び細工の記事読んで来たんですけど! これってアヤカシを時計に結びつけてるってことですよねっ?!」



 厚みのある眼鏡の下の目をきらきらと輝かせて鶴子を見ている。呆れて物が言えないとは、こういうことかと大きなため息が出た。



「……なんでアンタにそんなこと話さないといけないのよ」


「そっそういわずに……僕アヤカシが本当に好きで、今政治家先生のとこに下宿してるんですけど、将来はアヤカシを使って大日本帝国をもっと豊かな国にしたいんです!!」


 拳を握って立ち上がった。草野の周りにだけ花が舞っているようだった。



「はあ?」


「随分、大層な夢だな……」



 珍しく鶴子と伊織の息が合う。こそこそと和子を付けまわすような男が政治を語るなんてとんだ笑い種だ。



「アンタの夢なんてどうでもいいのよ。なんで和子さんのことつけまわしてんのよ!」


 鶴子は立ち上がってカウンターをドンと叩く。



「だからっそれは誤解なんですって! 和子さんのことはその……先生から頼まれて……」


「どういうことよ!」


「いえ、和子さんは先生のとこのお嬢さんなんですよ! 最近帰りが遅いからどこ行ってんのか報告しろって……」


 段々声が小さくなり、しまいには俯いてしまった。



「それで一日中付け回してんの?」


「そんなわけないじゃないですか! 僕だって学業があるんですよ! おかげで毎日急いで女学校まで行かないといけないから大変なんですよう」


「え、じゃあ帰りだけ……?」


「そうですよ!」



 嘘を言っているようには見えなかった。草野が本当に書生なら、女学校の授業中までつけ回すことなどできるわけがない。それなら他にも付け回ってる奴がいるのか。


 ふと、あの日この男を追い掛けたときのことを思い出した。



「あなた、こないだ私から逃げたとき随分逃げ足早かったわよね……」


「そう、めちゃくちゃ追いかけてくるから、僕急いで通りのごみ箱の中入ったんですよ! 生ごみの臭いついて大変だったんですから!」


 その時のことを思い出したのか眉を大きく下げている。



「え……いやでもアンタが逃げるから……」



 鶴子は気まずいような、なんとも言えない気持ちになる。黙って聞いている伊織が気になって隣りを見た。宗一郎から何か聞いているのだろうか。目が合うと、呆れた顔を向けられる。そんな表情をされても困る。



「まあ、あれから視線を感じることは減ってるみたいだ。一応、細工の効果もあったんじゃないか?」


「え、そうなの?」


「細工って結び細工ですか? あの、僕もやってほしいんですけど」



 草野が前のめりになって、カウンターの向こうから詰め寄ってくる。全く気乗りはしない。



「……相談内容は?」


「色々ありますけど……やっぱり、恋愛とか……いいですか?」


 照れくさそうに頬をかいている。



「え? やっぱアンタ、和子さんのことっ」


「いやいや、待ってくださいって! とてもじゃないですけどあのお嬢さんは勘弁してくださいよ!!」


「じゃあ、どこのどいつよ」


 両手を上げて大げさに焦る草野を睨んで腕を組み直した。

 


「……ちょっと、恥ずかしいんですけど、自分ヨシエさんが好きで……お屋敷にたまに来られるんですけど、僕にもいつも優しくて……」



 もじもじと照れながら草野は答えた。

  



 ❖ ❖ ❖




「まったく、こんなもんどこで手にいれたんだか」



 化粧台の上に置かれた銀色の髪留めを見て、伊織は小さく息を吐く。



『困ったアヤカシだなー。いつも注目されたいってデカい顔、してるぜえ』



 糊の固まりが口を突き出してみせる。彼なりの注目されたいときの顔なのであろう。


 白いレースの掛かった洋風のベッドで女が寝返りを打つ。一瞬そちらを見て、すぐに髪留めを手に取った。代わりに持ってきていた別の髪留めを置いた瞬間、カツッと小さな音を立てて何かが落ちる。息をのんで女を見たが特に動きはない。落ちたものを、目を凝らして探すと細長く黒いものだった。


 口紅だろうか。化粧台にそれを戻して、踵を返す。


 

『オレが外見てきてやろうかあ?』



 ふよふよと伊織の前を浮き、憎たらしい顔を向ける。無視して、戸を開けながら廊下の様子を伺う。


 厄介なものだ。すぐ出られるといいが……。

 明かりのない廊下には人影一つない。音を立てないようゆっくりと進み、階段を下りた。



「わっなんだい……アキオさんかい?」



 角から音も立てず女中のような女が出てくる。女と目が合った瞬間、じっとり嫌な汗が背中を伝った。



「ええ。目が覚めちまってちょいとご不浄にね」



 そう言うと、女は早く寝なさいよと声をかけて去っていった。



『ワシのおかげで助かったなあ! アキオさんよー』



 からかうように伊織の周りをくるくるとうろつく。毎度、目について鬱陶しい。手で払いのけると文句が飛んできた。



「だから、こんな泥棒紛いのことはしたくねえんだ」



 小さく、アヤカシにだけ聞こえるようにそれだけ言うと勝手口から外へ出た。

 


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