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三話 エナメル細工の懐中時計

 和子の話はこうだった。



 朝。市電で通学するのに、時間を変えても、乗る位置を変えても誰かが見ているような視線を必ず感じる。


 学校にいてもそうだ。授業中ですら、どこかからともなく視線を感じる。振り向いて、視線の主を探しても誰もこちらを見ていない。

 帰りはいつもの市電はもちろんのこと、少し遠くの喫茶店や洋品店に立ち寄っていつもと違う路線で帰るときも、変わらず誰かが見ている……。



「まあ、ほら、私って人目を引く方だから仕方がないと思うんだけど。もうずっとだから気味が悪くて」



 和子はソーダ水をかき混ぜる。氷を揺らすとシュワシュワと泡が弾ける音が鳴った。派手な身なりに負けない、目鼻立ちがしっかりした娘だ。その見た目に負けないくらい気も強いようだ。



「怖いですね……いつもは一人ですか? 誰かお付きの人とか頼めればいいんですけど」


「両親にも話したけど気のせいだろ、で終わっちゃうのよね。まあ最近は近所の友人と過ごしてるからまだいいのよ。同じクラスのヨシエっていうんだけど」


「口紅の話は?」隣りに座る宗一郎が話に割り入った。


「ああ、そうそう。あれもね、気に入ってたのにどこ探しても見つからないのよ!」



 また和子独自の沸点に到達したようで、突然声が大きくなった。



「その視線の主に取られた、と?」


「だって、女中に聞いても誰もわからないっていうのよ。鞄に入れてる内になくなったから、外で無くしたと思うのよね」



 授業中までつけ回して、口紅も盗んだということだろうか。仮に同じ女学校の子であれば、いつも同じ市電に乗ってきていれば誰かわかりそうなものだが。

 湯気の上がる珈琲に口をつけると、思ったよりも熱くて舌を噛んだ。



「もう……通学の時も毎日帽子変えてみたり、色々やってるのよ? どんだけ私のこと好きなのかしら」


「その視線の主はひとりなんですか?」


「多分そう……いつも同じ感覚なのよねえ」



 和子は肘のうえに顎を乗せると目を伏せた。



「それなら縁切りのおまじないとしましょうか」


「おまじない、ねえ」



 和子はじとりと鶴子を見て、ソーダ水を飲む。いくら怪しまれてても宗一郎の手前、仕事はして帰らねばならない。気まぐれなアヤカシ頼みのため、なんら保証はできないが。



「時計、お借りしてもいいですか?」


「え? いいけど……」


 不思議そうな顔をしながらも、帯にチェーンでひっかけていた懐中時計を外して鶴子の前に置いた。


 風呂敷から小さくまとめた包みを取り出して、テーブルに広げる。今日は手荷物を増やしたくなかったため、最低限の道具だけ持ってきていた。受け取った時計を敷いた布にのせる。

 金色に縁取られた文字盤は、艶のあるエナメルで花柄の凝った細工が施されていた。印象的な青紫の素地が光の反射でまだらを描いている。絵画のような美しさに、つい魅入ってしまった。


 一体、いくらするのだろう……。ひやりと手元の価値を推し量り、少しだけ手が震えた。慎重に中を開いて、歯車の機構を覗く。すると、すぐに頬に粟立つようなざわつきを感じた。


 今日は随分と早い。

 ざわめきの方へ視線を向けると、宗一郎と目が合った。

 


「宗一郎さん?」


「あ、ごめん。つい……話しには聞いてるけど、結び細工するとこ始めて見るから」



 邪魔してすまない、と視線を外された。一息つき直して先ほどのざわめきの行方を探す。右手に何かが触れる感触があり、それをそのまま時計に向ける。



 ――変なつきまといがいなくなりますように。



 傷をつけないように丁寧に蓋を閉めた。



「なに? それで終わり?」


 和子は呆気に取られたように、ぽかんとした顔を浮かべている。



「もうこれで大丈夫ですよ、多分」


「本当かしらね……」


 眉を軽く寄せて、鶴子が返した時計を見る。



「和子ちゃん」



 すると、近くに立った女が声をかけてきた。和子と同年代ほどにみえるが、真面目そうな娘で短い髪を耳の上で髪留めでぴったり止めて、分厚い眼鏡を掛けている。加えて、地味な色の袴を着ていた。なにもかもが地味に見えるが不思議と目を引く子だった。



「あら、ヨシエ。もう迎えの時間? この子さっき言ってた近所の友人なの」


「うん。そろそろ帰らないと」



 ヨシエと呼ばれた女は鶴子たちにぺこりとお辞儀をした。ふたりは連れ立って喫茶店を後にする。



「随分、雰囲気の違う友人ですね……」


「え? ……ああ」



 店から出ていくふたりに視線を向けたまま、心ここにあらずといった顔をしている。何か気になるものでもあるのだろうか。


 宗一郎の様子が気になり、外に出たふたりを窓越しに見た。ふたりの少し後ろに書生のような、学生服を着たやせ型の男がゆっくり歩いているのが目につく。丸い眼鏡を掛けた痩せ型の男だった。


「あの、あれ……」


 思わず宗一郎の腕を揺らす。

 男がふたりをチラチラと見ている。宗一郎も身体をのり出して窓の外を見ていた。



「私、行ってきます!」



 席を立ち、外へと駆け出した。赤煉瓦の道に飛び出すと、男の背が視界に入る。気づいたら声が出ていた。



「そこのアンタ、止まりなさいよ!!」



 呼びかけに、男がびくりと振り返る。一瞬だけ目が合った。次の瞬間、男は顔を逸らして横道へと消えた。



「あっこら!!」


 鶴子はすぐさま角を曲がる。だがその先にはもう誰の姿もなかった。

 駆け足で細い道を進み、突き当たりまで行き、辺りを見回したが誰もいなかった。



 ――逃げやがったなクソ野郎。



 心の中で悪態をついていると、大通りの方から宗一郎が手を振っていた。慌ててそちらに戻る。



「巻かれちゃいました……」


 少し上がった息を落ち着けながら、鶴子は言った。



「うーん、彼が犯人かはわからないけど、顔は覚えたから和子さんにも言っとくよ」



 宗一郎は鶴子が置きっぱなしにしてた荷物を持ってきてくれていた。件のふたりは、と大通りの先を見たがそちらももういないようだった。



「あ! ごめんなさい、私ったら支払いもせず……」


「気にしないで。今日はありがとう……いっぱい走って疲れたでしょう?」



 くすりと悪戯っぽく笑われて、恥ずかしくなって俯いた。

 待ち合わせからずっと、空回ってるとこばかり見せてしまっている。



「この後ちょっと……用事があるから、気をつけて帰ってね」


 電停まで送るよ、と言って鶴子の頭を軽く叩く。



「もう、子供扱いしないでください」



 触れられて恥ずかしいやら、嬉しいやらで顔が熱くなった。

 宗一郎は小さく笑って歩き出すと、少し考えるように顎に手を当てた。

 


「なにか困ったことあったら、伊織にでも言ってね」


「え! なんでアイツに……」



 条件反射のように飛び跳ねる。宗一郎といえど、軽率にその名前を出さないでほしい。

 宗一郎は鶴子の反応を見て吹き出した。



「ははっ……そんなに嫌わないでやってよ」



 前に視線を向けた宗一郎の表情が、気のせいだろうか。少しだけ寂しそうに見えた。




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