三話 糊
雨の日。鶴子は貸本屋で借りた本を抱えて、作業机に焙じ茶を置いた。
どうにも、やる気が起きないのは天気のせいだろうか。
店先の窓を見やって肩を回す。ミズメの枝が窓の先で揺れていた。すっかり葉を落とし切って、少しだけ肌寒そうにしている。椅子に座り、背もたれにどかっと寄りかかった。造作棚に並んだ修理待ちの時計が、視界の端に映り込む。
急ぎのものは片付いている……誰に対するものとも言えない言い訳を考えながら茶を啜る。香ばしい香りが鼻をくすぐった。さてと本を持ち直して、読みかけの物語の続きに思いを馳せ始めたときだった。
カランと軽い鈴が音を立てて店の戸が開いた。読み始めたばかりの本から顔を上げて、入り口を見ると一目も見たくもない人物が立っていた。
「ちょっといいか」
畳んだ傘を戸の横の傘立てに差し込むと、そのままツカツカと鶴子の元へ向かってくる。骨董店の主人、伊織である。今日もぼさぼさの髪は気にならなかった様子だ。湿気で更に悪化しているようにも見えた。
「何よ」
「頼みがある」
切れ長の目を伏せて、カウンター前に置いている丸椅子を見ると断りもなく腰掛けた。
「知り合いの相談にのってほしいんだが」
「は? アンタ知り合いなんかいるの?」
肩を落として大きなため息を吐いている。ため息を吐きたいのはこちらの方だ。
「……あのなぁ、俺だって知り合いくらいいる」
「なんの知り合い?」
「いや、ちょっと仕入れ関係で……」
なんだか歯切れが悪い。鶴子のしかめっ面が更に悪化した。言えないような関係なのだろうか。まったく、どうでもいい話ではあるが。
「隣町の喫茶店まで来れないか?」
「うちに来れないの?」
なぜか伊織まで顔をしかめて腕を組むと、しばらく考え込み始めた。一体なんだというのか。早めにお帰り願いたいところだ。
「いや、こっちまでは来れないんだ。明日会う約束してるから道具、持って来てくれないか」
「アンタも来るの?」
「……兄貴が行く」
「は!? それ先に言いなさいよっ!!!」
思わず叫んでいた。立ち上がった拍子に椅子が大きな音を立てて倒れた。
「なんだよ……」
「お兄さんに会えるなら喜んで行くわよ!!」
「……ああ、そう」
伊織と血を分け合ったとは俄かに信じがたい、伊織の兄の顔が頭に浮かんだ。鶴子が神や仏と同列に慕ってやまない人物である。両手を握りしめて天に感謝した。呆れた顔を向けられたが、心底どうでも良い。
最後に会ったのはいつのことだったか。隣りには住んでいないため、滅多に会うことができないのだ。隣町にお出掛けなんてデートと同義だろう。めかし込まないと……。
すっかり目の前の男など忘れて、夢想の世界に飛び立っていた。
***
翌日。鶴子は珍しく袴を着ていた。特に気に入っている紫色のものだ。張り切りすぎてる風に見えてしまうだろうか。
姿見の前で白いブラウスを宛てがって、くるくると回る。桐ダンスの前には候補からあぶれた服が山積みになっていた。
袴の上に何を着るかでずっと悩んでいたがシンプルな方が好ましいだろうと、やっとのことで決め切って化粧道具を取り出した。鏡を見て粉を叩いていく。頬にうっすらとそばかすが浮かんでいるのが目に入った。粉だけでは完全には隠しきれない。
ふと、小さなころの伊織の顔が浮かぶ。
鶴子がヤツを嫌っているのには理由がある。
小学生のころ、女友達にそばかすが変だとからかわれた。
「ツルちゃんだけだよ! 変なのー」
今となっては何がそんなに嫌だったのかも思い出せないくらい些細な話だ。当時の鶴子にとってはそばかすのことを他人に言われるのが嫌でしょうがなかった。
「ツルもそばかすなかったら、もっと男どもに騒がれたんじゃねえの」
近くで聞いていた伊織が、意地の悪い顔で言った。鶴子はなんだか悔しくなって大泣きした。
子供の言うことだ。鶴子は紅を塗りながらくすりと笑う。それ以来、伊織とは犬猿の仲だった。
そばかすのことは今はさして気にならない。けど、アイツはむかつく。ただそれだけだ。
あの日、大泣きした帰り道。町ゆく人に、泣きはらして重たくなった目を見られるのが気恥ずかしくて近くの公園の片隅に座り込んでいた。
そのとき、伊織の兄である宗一郎に声をかけられた。当時から少し大人びてみえていた宗一郎に、気付いたらその日のことをぽろっと話していた。
「そう? ぼくは好きだけどね。可愛いじゃない、そばかす」
そう言って、鶴子の頭を撫でた。さくらんぼを崩したような夕焼けを背に、はにかんでいた宗一郎の顔がいまだに記憶に残っている。
あれからそばかすのことも好きになったのかもしれない。
支度を終えて、一階へ降りると茶の間に置かれた漆塗りの仏壇に手を合わせた。下駄箱にしまい込んでいた黒い編み上げブーツに足をねじ込んで、急いで紐を結ぶ。
時計を見ると約束の時間が近づいていた。もうすぐ会えると考えたら自然と体温が上がった。足早に夕凪橋通りを抜け、電停へと向かう。
「やあ、ツルちゃん。走ってきたの?」
見覚えのある男の姿を見つけ駆け寄ると、爽やかな声を掛けられた。宗一郎だ。タブカラーの白いシャツをぴっちり締めて、中折れ帽を被っていた。帽子からのぞく髪はどこかの誰かと違い、すっきり整えられている。
なんという清涼感。鶴子は上がった息を整えながらも、宗一郎の姿を目に焼き付けた。
「ちょっと支度にかかってしまって……」
風が吹いた拍子に洗い立ての石鹸のような匂いがして、思わず深く吸い込んだ。なんだか白檀のような香りまでする。さすが宗一郎だ。
「時間、大丈夫ですか?」
「ちゃんと約束通りだよ」
電停前の広場に立つ時計を見上げると、音を立てて路面電車が滑り込んでくる。「ほらね」と鶴子に微笑んだ。
「今日は袴なんだ? 可愛いね」
軽い一言だったが、一瞬で顔が熱くなって何も返せなかった。褒められ慣れていないから耐性がないのだ。
口元が緩まないように気を付けて電車に乗り込んだ。吊革を掴み、横目で宗一郎を覗き込む。どうして兄弟でこうも違うのだろうか。
伊織とは確かにどことなく見た目は似ている。けれど、纏う雰囲気は全く異なる。例えるならば伊織が闇なら、宗一郎は光だ。
脳内のアルバムに刻むため、またもや宗一郎をじっくりと眺める。めったに姿を見せないため、会える時間は希少なのだ。余りにも熱い視線に気付いたのか、宗一郎と目が合った。慈悲深く、目を細めて微笑んでくれた。
まったくもって、顔がいい。
「今日話を聞いてほしい人は、明華女学校の学生なんだ」
「明華の?」
予想の斜め上の人物だった。この辺りでは、知る人ぞ知る名家の娘が通うような学校である。
伊織の仕入れ関係の知り合いだとか言っていたが。
「宗一郎さんも知り合いなんですか?」
頭に浮かんだ疑問を口に出す。宗一郎の年までは知らないが、鶴子よりかはいくつか上である。学生と接点を持つ理由がわからなかった。
少し考えるように視線を上へと向けてから、また鶴子に向き直った。
「知りたい? ツルちゃんになら……教えてもいいかもね」
大人の色気とも言うような視線を向けられて、鶴子は弾け飛ぶ衝動を抑えるので精いっぱいだった。
***
喫茶店の中は多くの人で賑わっていた。テーブルをそれぞれ囲って、学生や若い女性たちが会話に花を咲かせている。
宗一郎――もとい、伊織は焦っていた。
『いや、ツルちゃんの隣りでいいだろ。早く座れよ』
目の前を往復するように白濁とした液体のようなそれが大きく揺れた。
それはどろっとした糊の固まりのようなもので、目がひとつ浮かんでおり、話すときには目の下に小さな穴が出来て口のように動かす。皆が《アヤカシ》と呼ぶものだ。
ただし、伊織にはこのアヤカシ以外の姿は、見ることも声を聞くこともできない。
目の前のテーブルには、鶴子ともう一人の若い女性が対面に座っている。若い女性――和子は、得意先の娘だ。今日も目がチカチカするような派手な袴姿で結った髪を大きなリボンで結んでいる。
――俺が紹介で呼んだ訳だから、和子さんの方座らないとおかしくないか? でもツルに深い関係だとか思われたら……。
『いいから座れって!』
背後に回ったアヤカシが伊織の頭を打った。衝撃で鶴子の隣りに身体が動いていた。そのままの流れで、不自然にならないよう静かに座る。
軽く呼吸を整えるように咳払いをする。かぶっていた帽子をテーブルに置いた。
「こちらが今日相談したいって話してた和子さんだよ」
和子に手を向けて、鶴子を見た。
「鶴子です」
「宗一郎さんから聞いたわよ! 本当に困りごと解決できるの?」
和子は鶴子の方へ前のめりになる。ちょうど、店員がやってきて注文を聞かれた。メニュー表を見せられ、真っ先に和子が「私はソーダ水」と答える。鶴子と伊織は一番上に記されていた珈琲を頼んだ。
店員を見送ると、鶴子が口を開いた。
「困りごと解決、でしたね。……保証はできないんですけど、うまくいけば神社のお守りよりかは効きますよ」
「お守り程度なの? もうちょっと効いてほしいんだけど」
『あーあ、ツルちゃんこんな和子みたいなやかましいのに巻き込まれて可哀想に……せっかくワシの力使ってんだから、もうちっと気利かしてやれよ? な、相棒』
テーブルの真ん中でアヤカシが溶けるように身体を広げている。
憎たらしい目つきで伊織を見て、さらに身体をドロドロと溶かした。一瞬だけ、それを睨みつける。
正直、この姿で町の知り合いに会いたくはない。だが、今回ばかりは背に腹を変えられなかった。
得意先の娘である和子に、執拗な相談を受けて断りきれなくなってしまった。出来ることなら必要以上に関わりたくない。そんなときにふと、鶴子のやっている細工のことを思い出したのだ。
久々に近くで見た横顔はすっかり大人びた表情になっていた。透き通るような白い肌にうっすらと浮かんだそばかす。そこにだけ、小さな頃の欠片が残っているように見えて安心感を覚える。
鶴子は昔から思ったことがすぐ表情に出る。幼い頃の伊織は自分がからかうことで、猫のようなくりっとしたつり目がころころと表情を変えていくのを見るのが好きだった。今思えば何でそんなことをしていたのか、当時の自分を問い詰めたいものだが。
自分の不器用さのせいですっかり蛇蝎のように嫌われてしまっている。
宗一郎の姿であればいくらでも笑ってくれるのに、だ。
アヤカシが言うように、伊織が宗一郎の姿となっているのはこのふざけた存在の力だった。宗一郎などという人物は存在しない。
目の前の和子が息を吐いて、唇を尖らせた。
「最近ずっと人に付きまとわれているのよ。それに、お気に入りの口紅もなくなっちゃったの!」